野幌に煉瓦工場が進出したのは、明治31(1892)年の北海道炭鉱鉄道株式会社が野幌煉瓦工場を開設、業務を久保兵太郎に委託したことを嚆矢としています。
以降大正14(1925)年まで久保組が請負い操業を続けました。
従業員は、大正元年で事務員5名、工員135名でした。操業期間は、雪解けの陽炎たつ5月から雨が霙混じりとなる10月下旬までの季節操業でした。
工場の位置は、線路を破産で駅舎の反対側に位置しました。ちょうど、西北に拓けた屯田兵村に対峙し、野幌植民社の入り口に立っていました。
明治34(1895)年に発行された「殖民広報」によると、
明治31(1892)年4月、野幌煉瓦工場は、久保兵太郎の創立にして、其地卵白色の強靭な粘土層厚く、其分布広くして最も煉瓦の製造に適すといふ。明治33(1894)年製造する処煉瓦60万本此価6,600円とす、其販路は、師団用を主として札幌、小樽等へも輸出せりと云ふ。
炭鉱鉄道会社野幌煉瓦工場、明治31(1892)年5月の創立にして、職工男85人、女23人、日雇夫112人、女30人を使役す。同33年(1894)年製造する処の煉瓦実に633万6,420本の多きに達し、悉く之を同社に於いて使用せり。
舘脇煉瓦工場、江別村野幌にあり、明治32(1893)年中舘脇某(米蔵)の創立にして、同33(1894)年煉瓦40万本、土管5千本、屋根瓦7万枚を製造す、価格合計1万1千円、其販路前に同じ。
と記されています。
次いで、同32(1893)年には浜端宗三郎の経営する陶器製造所なども設立されて、明治34(1895)年には煉瓦陶器の窯業工場だけでも5工場を数えました。その原料である土質を当時の農商務省工業試験所は鑑定していましたが、まさに本市のもつ地帯的な特殊工業の発達といえます。
当時は、登り釜の時代であり、燃料には薪を使用していました。片登り、両登り窯から立ち上る黒煙が、野幌のシンボルでした。
註 :江別市総務部「新江別市史」203-204頁参照
江別市総務部「新江別市史」311-314頁参照
写真:「野幌煉瓦工場のぼり窯」
同上書173頁掲載写真3-18「明治30年代北炭と館脇の2代煉瓦工場進出」複写・掲載致しております。