江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

移民の挫折

2018年05月18日 | 歴史・文化

 涌谷移民の入植場所は、石狩川左岸、豊平川々口付近です。
 現在でいうと新石狩大橋の西袂、国道337号沿いの堤内、堤外地および江別工業用団地周辺です。
それぞれに6千坪(2町歩)の未開地が用意されていました。
その土地は、「地味頗ル肥沃ナルヲ以テ 従来移住ノモノハ 農業ヲ以テ生業トス」(『対雁村移民開拓ノ顛末』)とあるように、農耕地として決して悪いところではありませんでした。
以下引用は、湧谷21戸で対雁に入植した渡辺金助の長女と結婚、明治8年1月に渡辺家に加籍の寅吉の閲歴です。
入植直後の開墾の様子が手に取るようでした。

 「(対雁に移住後)同年ヨリ三カ年間扶助ヲ下賜井ニ荒無地六千坪割渡トナリ 同年同月ヨリ家族壮健ノモノ男1人女2人ニテ開墾ニ着手シ僅60坪程墾成ス 翌5年ニ至凢5反歩程墾成穀菜等ヲ藩種ス 此年官ヨリ区々ニ藩種シ試ルニ収穫殆ント減セリ同年11月農業格別出精ニ付御賞トシテ農具数種ヲ賜ル 同6年2月元募移ノ戸数20有1戸ノ内同區雁来へ転住スルモノ夛シト雖モ 同村ノ地味捨ツヘカラスト云テ 依然ト耕作ニ勉励従事シテ不止(後略)」(明治14年12月、渡辺寅吉・自筆履歴)。

 湧谷移民のなかで篤農家の代表とも言われる渡辺寅吉と同様、21戸全てが「耕作ニ勉励従事」したのか、できたのかはわかりません。
ただ、ここで明らかなのは、募移農民に対する保護策が間違いなく試行錯誤が重ねられ、集団移住後、わずか2年足らずで移民の大半が対雁を去らざるをえなかったという、峻厳な事実です。

 なぜ、21戸から19戸をもの多くが対雁を離れたのか。
彼らが明治6年2月11日付で開拓使に提出の移転願(『新札幌市史』)第7巻史料編2)によれば、流通経路の閉ざされた対雁では、これからの生活が成り立たない、その一事です。
すなわち、こうです。入植の翌5年から穀物や野菜はある程度収穫されたので、官に買い上げの便宜を願いましたが、そうはなりませんでした。
そこで、自分たちで売りに出かけましたが、なにせ札幌へ約5里、石狩へは水路で約10里もあります。たとえ物が売れたとしても往路復路の経費で手元には何も残りません。
これじゃあ、対雁での生活は成り立たない。そこで、保護のあるうち(入植後3カ年)に、札幌の近いとこ路に移り、農民として永住したい。それが趣意でした。
 この移転願は、この年1月に開拓大判官となった松本十郎の目をとおし、すぐさま認められました。
そして、19戸は、対雁村と西方で隣接する土地に移転しました。
彼らは転入地をしばらくの間、元対雁村と呼んでいたといいます。
その元対雁村は、明治6年9月29日、正式に雁来村と命名布告されました。


註:江別市総務部「新江別市史」118-119頁.


 

  

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