明治4年5月、開拓使は札幌に開拓使庁をおきました。
また、函館と根室の開拓使出張所を、それぞれ出張開拓使庁と改称しました。
同時に、札幌郡の庚午一ノ村、同ニノ村、同三ノ村を、それぞれ苗穂村、丘珠村、円山村と改称しました。
加えて、同郡に平岸、月寒、対雁、石狩郡に花畔、生振の各村を設けました。
いわば、札幌の周辺村落の形成に、具体的に着手したと言って良いでしょう。
対雁村の設置は、左の明治4年5月25日付、開拓使民事局の布達によるものでした。
札幌村外八ヶ村改正村名に付布達
第1号逹
一、庚午一ノ村 苗穂村 一、ハンナクル 花畔村
一、同二ノ村 丘珠村 一、麻畑 平岸村
一、同三ノ村 円山村 一、千歳道 月寒村
一、札幌元村 札幌村 一、ツイシカリ 対雁村
同 新村 札幌村 一、オヤフル 生振村
右村号布達ノ通改正ニ相成候相達スルモノ也
明治辛未4年5月25日
(『新札幌市史」第7巻資料編 二)
この対雁村が近代行政村の形を整えるのは、明治39年(1906年)4月、北海道2球町村制に基づき、3村(江別村、対雁村、篠津村)合併を経て、江別村に統一される以降となります。
それは、皮肉にも形は整ったのですが、実態面では経済、文化、行政等でも江別村への吸収合併的な回路をとおり実現されました。
2級市町村制江別村の誕生については、別途ふれますが、執行機関、議決機関など、それぞれ大きな制約があり、今日の自治体の要件を満たすものではありませんでした。
しかし、それでも成熟へ至る初期の一過程として眺めれば、一つの画期であるに変わりはありません。
明治13年2月、千穂瀬兵衛が対雁村、江別村両村戸長として就任しました。
これは、開拓使の行政改革によるものです。
開拓使は、前年7月の郡区町村編制法に基づき、12年10月に従来の大小区制による戸長、副戸長制を廃止し、新たな郡長、戸長制を設置したためです。
戸長は官選ですが、それでおm当初は民意に通じる人物を登用する方針から、はじめて在村の戸長が就任し、総代人も選出されました。
戸長の行政事務(戸長職務概要)と管轄区域が明確化され、さらに戸長を補佐する村用係(1名)もおかれました。
このはじめての係は、渡辺寅吉でした。
これに加え、戸長の諮問機関である総代人を通し多少とはいえ村民の意志が行政に反映される形が整いました。
この戸長・総代人制は、明治39年4月、北海道2級町村制に基づき、3村合併(江別村、対雁村、篠津村)を経て江別村が誕生するまで続きました。
註 :江別市総務部「新江別市史」116-117頁.
写真:現在のモショッケ公園
江別最初の屯田兵は、対雁移民の給与地に隣接したモショッケ川右岸から石狩川上流に添うて伸びる土地に落ち着きました。
エベツブトが江別村に決定したのは、開拓使関係部課の投票によるものでした。(同上書148-149頁引用)