デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

ミス・ポニー・テール・パット・スズキ

2009-05-31 07:41:52 | Weblog
 日本でも大流行したフィフティーズルックの代表的な髪型にポニーテールがある。七夕伝説の織姫もポニーテールだったが、当時流行ったのは「麗しのサブリナ」のオードリー・ヘプバーンや「ウエストサイド物語」のナタリー・ウッドに憧れたのだろう。短時間かつ簡単にセットできるまとめ髪だが、顔の輪郭やうなじが露わになり、えり首の髪の生え際や衿足から顎へかけてのしなやかなラインはほんのりと色気を漂わせる。

 色気のある視線が妖しい「ミス・ポニー・テール」は日系2世のパット・スズキのアルバムだ。58年初演のミュージカル「Flower Drum Song」のリンダ・ロウ役に抜擢されたことで有名になった歌手だが、日系でなければもっとメジャーになったであろう人である。大手のRCAから4枚のアルバムをリリースしていて、この作品はアンリ・レネのオーケストラをバックに「Anything Goes」、「The Lady Is A Tramp」、「My Heart Belongs To Daddy」等、ミュージカルのスタンダード中心の選曲で艶のある伸びやかな声が聴ける。とりわけ低音部は日本人独特のこぶしが回りニヤリとさせられるが、演歌をよりどころにした日本人の血は争えないようだ。

 ジェローム・カーン作曲、オスカー・ハマースタインⅡ作詞の「ザ・ソング・イズ・ユー」がトップに収められいるが、オーケストラに溶け込むような歌いだしと、緩急自在のリズムに乗る歌唱は、ビング・クロスビーに認められただけの実力がある。「さあ、音楽が始まる。歌こそは君だ。君は優しい愛の旋律」、という内容のラブソングで、作者カーンは自作曲で最も気に入っていると語ったようにその旋律は聴く度に味わいを増す。何度も録音したシナトラをはじめ、ヴォーカル、インストとも多くのミュージシャンが取り上げた曲は、愛する人を歌に譬えるとき誰でもが詩人になるときめきを持つ。

 ポニーテールはあごと耳を結んだラインの延長線上で結ぶのが一番綺麗に見えるといわれており、これをゴールデンポイントと呼ぶそうだ。日々生まれては消えゆく多くの歌のなかで、自分を重ねたくなる歌詞と、一度聴いたら忘れられない琴線を揺さぶるメロディーは数少ない。歌曲の延長線上で感動を結ぶものがあれば、それは自分自身のゴールデンポイントであろう。
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1年を300ドルで暮らしたオーネット・コールマン

2009-05-24 08:23:39 | Weblog
 五代目古今亭志ん生師匠の自叙伝「びんぼう自慢」には、噺のタネにもなった家賃がタダのなめくじ長屋の真実が明かされている。住むつもりでやってきた人も命あっての物種とばかりに2、3日で逃げ出す長屋も、一軒住めば、あとは順々に埋まるだろうという家主の心づもりだったらしく、そのオトリになったと。その生き方が落語そのものとまで言われた師匠の売れなかった極貧時代のことだ。

 落語家ばかりでなくジャズマンもご多聞にもれず売れなかった時代にはびんぼう自慢が多いが、なかでも凄いのはオーネット・コールマンで、1年を300ドルで暮らしたという。62年に開いたタウンホール・コンサートは、ジャズの歴史を揺るがす演奏と騒がれても生活は好転せず、一時ジャズ界から姿を消したころの話だ。58年にドン・チェリーらを従えて初のリーダー・アルバム「サムシング・エルス」をコンテンポラリーから発表した後、メジャーのアトランティック・レコードから実験的な作品を送り出し、知名度は高いにも拘らずこの処遇であった。フリージャズというスタイルが認められるまでの時間を物語っている。

 59年にアトランティックから発表した「ジャズ来るべきもの」は、当時賛否両論を巻き起こした作品で、従来のコードに囚われず、定型的な演奏手法から逸脱した自由度の高いものであった。とりわけ、のちにフリージャズのスタンダードになるコールマンの代表作「ロンリー・ウーマン」は、サックスとドン・チェリーのコルネットが微妙にずれた状態でテーマを奏でることで不協和音を醸し出すのだが、それでいてテーマの美観を崩すことはない。アルバムタイトルの「The Shape Of Jazz To Come」は、コールマンのよき理解者であり、アトランティックに推薦したジョン・ルイスが、演奏を聴いて呟いた言葉だという。確実にジャズの革命は進んでいた。

 62年というと為替レートは固定相場制で1ドル360円である。1年を10万円で暮らしたコールマンは、おそらくなめくじ長屋のような所に住んでいたのかもしれない。お金で家は買えるけれど家庭は買えないように、時計は買えても時間はお金では買えない。師匠もコールマンもどんなに悲惨な生活であっても無駄な時間はなく、それはお金には換えられない誇り高い芸術家としての貴重な時間である。
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ハワード・ロバーツはベンチャーズの影武者だったのか!?

2009-05-17 08:38:49 | Weblog
 65年のアストロノウツに呆れ、66年のビーチボーイズに失望し、67年のTボーンズには腹を抱えて笑った。来日アーティストのライブはどうしてこれほどひどいのか。レコードではみな安定したプレイをしているのに、なぜ?という疑問からハリウッドの60年代ポップ・ミュージックの謎を解明したのは翻訳家の鶴岡雄二さんだ。著書「急がば廻れ’99」によるとアーティストはスタジオではプレイせず、かわりに一握りのスーパープレイヤーたちが影武者をつとめたのだという。

 その一握りのスーパープレイヤーとはドラマーのハル・ブレインや女性ベーシストのキャロル・ケイという膨大なレコーディングを残したミュージシャンや、バド・シャンク、バーニー・ケッセル、シェリー・マン等のジャズマンであり、そのなかにギタリストのハワード・ロバーツもいる。プレスリーをはじめ60年代のヒット曲の伴奏を手がけ、ジャズからポップス、フュージョンまで幅広い芸風を持ち、また音楽学校を起ち上げ後進のギター教育活動にも尽力した人だ。スタジオの仕事が多かったためジャズファンには馴染みが薄いが、正統的モダン・スタイルの安定したプレイと確かなテクニックはポップ・シーンでも際立っていた。

 キャピトルを中心にイージー・リスニングのリーダー作品を数多く残しているが、ヴァーヴ盤の「Good Pickin's」はビル・ホールマン、ピート・ジョリー、レッド・ミッチェル、スタン・リーヴィといったウェスト・コーストの仲間と録音した最もジャズ寄りの作品であろう。スタンダード中心の選曲で、「Will You Still Be Mine?」、「All the Things You Are」、「Lover Man」、そしてロバーツのギターをフューチャーした「Easy Living」が聴きものだ。指が絃に絡みつくのか、絃が押さえる指をよぶのか、指と一体となったギターは独特の美しさを弾きだす。三つのメイジャー・コードだけですむポップスでも丁寧に弾いたロバーツの音楽性は、まさにタイトルの「Good Pickin's」である。

 「急がば廻れ」は有名なベンチャーズのヒット曲で、本のタイトルから察しが付くと思われるが、ベンチャーズの録音にも影武者がいたことが明かされていた。ライブでも満足できる演奏をするベンチャーズのこと勿論全部ではないが、ハリウッドで録音された同じ日にハワイで演奏をしているデータもある。一世を風靡したベンチャーズのテケテケ・サウンドはもしかするとハワード・ロバーツだったのかもしれない。
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フィニアス・ニューボーンがハンプトンのバンドに飛び入りした

2009-05-10 09:51:37 | Weblog
 サックス奏者のジェローム・リチャードソンがライオネル・ハンプトンのバンドで全米ツアーに参加したころを回想している。「そのとき、飛び入りで演奏したいという地元のピアニストが現れた。だがハンプのバンドにはミルト・バックナーというブロック・コードを考案した名ピアニストがいた。当然ミルトはその地元のピアニストにいい顔をしなかった。だからそのピアニストがバンドに加わったのは、ステージが終了する直前だった。ところがそのピアニストは信じられない演奏をした・・・

 ・・・彼の名前はフィニアス・ニューボーンといった。不世出の名ピアニストのひとりだ」と。51年、メンフィスの出来事である。クインシー・ジョーンズやアル・グレイ、シンガーのアーネスティン・アンダーソン、一時的とはいえクリフォード・ブラウンやウェス・モンゴメリー、チャールズ・ミンガスも在籍した名門バンドに飛び入りするのは酔っ払いか、よほど腕に自信があるか、どちらかだ。当時の音源は残されていないが、大学で音楽を学び習得した高度なテクニックと、音楽一家に育ち自然と身に着けたスウィング感を持ち合わせているニューボーンのこと、リチャードソンが目撃したようにそれは信じられない演奏だったのだろう。

 ハンプトンのバンドに参加し、より以上にテクニックを磨いたニューボーンの記念すべきデビューアルバムが、「ヒア・イズ・フィニアス」だ。両手からめまぐるしく連打される音は対立的なラインを構築しながらユニゾン・プレイを形成するジャズ・ピアノの美学ともいうべき演奏で、アート・テイタムの再来とまでいわれた驚異的なテクニックが披露されている。サポートするオスカー・ペティフォードとケニー・クラークは幾多のセッションを熟したベテランだが、おそらくこれほど完成度の高いピアノとは思わなかっただろう。眩惑的なタッチと奔放なフレーズはデビューアルバムとは思えないほど貫禄さえ感じられる。

 当時のハンプトンのツアーは苛酷なうえ、バンド内の生存競争も激しく、黒人のミュージシャンが泊まるホテルもなければ食事をするレストランもなかったという。ニューボーンは精神障害で何度も入院し活動を中断しているが、奇跡的にカムバックできたのはハンプトンのツアーで学んだ逆境に耐えうる精神力だったに違いない。
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セクシーなモンローのピクチャーレコード

2009-05-03 07:41:02 | Weblog
 恩田陸さんの短編「あなたと夜と音楽と」は会話だけのミステリで、ラジオ番組の男女ディスクジョッキーが会話の間に曲をはさむ形式で物語られる。かかる曲はジャズヴォーカル・ファンお馴染みのナンバーで、「じゃあ、ここで、本日の一曲目。アニタ・オデイ『私の心はパパのもの』。この曲、マリリン・モンローが歌ってるバージョンでも有名ですよね。ではどうぞ(曲)」、つい歌を聴きたくなる展開だ。こんな番組があるなら毎週聴きことだろう。

 原題「My Heart Belongs To Daddy」は、DJが言うようにモンローが、映画「恋をしましょう」で歌ってから一躍知れ渡った曲だ。歌詞の内容から察してパパはお父さんではなく、所謂パトロンのパパさんで、そのパパに焼きもちを焼かせたい女心を歌っているだけに古くは猫なで声のアーサー・キットがヒットしたのも頷けるし、小悪魔のようなモンローがよく似合う。作詞作曲はコール・ポーターで、弾むようなメロディは得意とするところだが、歌詞の「Da-da Da-da-da Da-da-da?ad」が面白い。歌い方によってはクールな女性になり、また色っぽさやセクシー度をアピールできる部分でもある。

 写真は、「帰らざる河」や「ダイアが一番」等、モンローが主演した映画のヒット曲を集めたピクチャーレコードだ。普通のレコードは円盤の中心にレーベルが貼ってあるのだが、ピクチャーレコードは円盤全体にレコードジャケットやオリジナルの写真がコーティングされていて、当然両面とも溝が刻まれているので音が再生される。ターンテーブル上で写真がぐるぐる回転するというのは見ているだけで楽しく、それがモンローとなると視覚的にもかなり妖しい。そのチャーミングで蠱惑的に歌う姿は、セクシーなモンロー・ウォークとともにセックス・シンボルとして今でも不動だ。

 映画「恋をしましょう」で共演したイヴ・モンタンと映画を地でいく恋をしたモンローはスキャンダルにもなったが、表裏のない正直な性格なのだろう。このピクチャーレコードの裏には表とは違うモンローの写真がある。モデル時代の写真といえば想像が付くだろうが、こちらも裏のない正直な姿である。
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