デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

島倉千代子がデビューした1955年に梅木美代志は渡米した

2013-11-24 09:23:31 | Weblog
 今月8日に75歳で亡くなられた島倉千代子さんは、お幾つになっても可愛らしい人だった。1955年、16歳のときに「この世の花」でデビューしているので半世紀以上も歌手として活躍したことになる。当時は、泣き節の天才少女歌手と呼ばれたというが、歳を重ねても少女のような仕種は変わらない。昭和でいうと30年で、戦後から丁度10年という節目の年は、神武景気に乗り日本が高度経済成長を迎える年でもあった。
 
 この年に単身アメリカに渡ったシンガーがいる。日本ではナンシー梅木の芸名で知られる梅木美代志だ。戦後10年とはいえ、政治経済や科学技術ならまだしも芸能にいたってはアメリカとの交流がおぼつかない時期のことだから相当勇気がいる。因みにジャズメンの来日記録を遡ってみると、53年にJATPとルイ・アームストロング・オールスターズが公演しているだけで、54年は1件も来日記録がない。当時、梅木は角田孝&シックスや、レイモンド・コンデのゲイ・セプテットで日本のジャズ歌手の草分けとして活躍しており、兄が進駐軍の通訳をしていた関係で米軍に知合いが多いことから渡米が持ち上がったのだろう。

 活動の舞台をアメリカに移して間もない56年に着物姿でテレビに出演して人気を博し、翌57年には映画「サヨナラ」で東洋人の俳優として初のアカデミー賞を受賞しているからラッキー・ガールといっていい。「Miyoshi」という本名をタイトルにしたアルバムはマーキュリー・レーベルの第2作で、ハル・ムーニー率いるオーケストラをバックにスタンダード・ナンバーを伸び伸びと歌っている。サミー・フェイン作の「ザット・オールド・フィーリング」は、日本人のシンガーとは思えないほどゴージャスなバックにはまっており、アメリカ的なフィーリングはハリウッドに進出すべく身に着けたものといえよう。

 昭和30年には映画「ジャンケン娘」で三人娘と呼ばれた美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミが共演している。この後、ひばりは流行歌に徹し、いづみはポピュラーソング色を出し、チエミはジャズ寄りと、それぞれ独自のカラーを強調することで三人三様の特色を打ち出す。そして、「からたち日記」や「ほんきかしら」のヒットを重ね歌謡曲の王道を行く人、アメリカに夢と希望を抱いた人、「人生いろいろ」である。
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イリノイ・ジャケーの身長

2013-11-17 09:50:42 | Weblog
 以前、スタン・ゲッツを話題にしたとき、マイケル・シーゲル著「サキソフォン物語」(青土社刊)を参考にした。サックス奏者の秘話は面白い。そのなかでイリノイ・ジャケーが登場し、「師であり、自分のサウンドを生んだ手本のひとつと仰ぐ」とジャケーが名前を出したのはレスター・ヤングだ。ジャケーの熱心なファンには周知の事実かもしれないが、テキサス・テナーをあまり聴かない人には意外である。

 ライオネル・ハンプトン楽団時代に残した「フライング・ホーム」の豪放磊落なソロや、JATPに於ける派手なブローからはヤングの繊細さは微塵も感じられないが、ジャケー本人が語るのだから間違いではないだろう。この事実を検証すべく、レコードを探してみると「デザート・ウインズ」という格好なアルバムがあった。メンバーはケニー・バレルをはじめ、トミー・フラナガン、ウェンデル・マーシャル、レイ・ルーカスと一流が並ぶ。そしてコンガを入れて賑やかにするあたりはジャケーらしい。選曲は「スター・アイズ」や「カナダの夕陽」、「ユー・アー・マイ・スリル」というお馴染みのものに加え・・・

 何と、この検証に最も相応しいと思われる「レスター・リープス・イン」が収録されているではないか。ご存知レスターが書いた曲で、度々演奏した代表作でもある。その曲をジャケーはどのように演奏しているのか。ブラインド・テストで出題されたら、レスターではないことはわかっても、ジャケーと言い当てる人は少ない。大音量でサックスを吹くことからホンカーと呼ばれるジャケーが、楽器をいたわるように優しく音を出しているのだ。曲名に自身の名前を入れていることからレスターの愛着ぶりもわかるが、師と仰ぐ人の曲を演奏するときもまたかけがいのない愛着が生まれるのだろう。

 同書で初めて知ったのだが、ジャケーの身長は155センチ前後だったという。テナー奏者はよく大きな男でないと大きな音が出ないといわれているだけに驚きだ。ハンプトン楽団には当時ジャケーよりも数ヶ月年下のデクスター・ゴードンが真横の席いた。ゴードンといえば2メートル近い大男だ。レコードでは音量の比較はできないが、二人が立って交互にソロを取るシーンを想像すると微笑ましい。
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イエスタデイズをジュニア・マンスで聴いてみよう

2013-11-10 09:31:05 | Weblog
 先週4日にブログ「お気楽ジャズ・ファンの雑記帳」の azumino さんが、連休を利用して長野からお仲間と札幌観光に来られ、お会いする機会があった。待ち時間に退屈しないよう中古レコード店で落ち合い、居酒屋で軽く食事したあと、目当ての「デイ・バイ・デイ」へと席を移す。お会いするのは三度目になり、ブログを通じて気心が知れているだけに近況からブログ、ライブハウス、ジャズの動向と話は尽きない。

 話が盛り上がるうち、最近 azumino さんが取り上げたジョー・ゴードンの「Introducing」に参加しているジュニア・マンスの話題になった。これをはじめて聴いたときパウエル直系のスタイルに驚いたという。そう言われて聴き返してみるとブルージーでアーシーなリーダー作に比べ、バップ色が顕著に現れている。初リーダー作「Junior」は59年、そして人気盤の「The Soulful Piano」や「At the Village Vanguard」は60年代に入ってからなので、ゴードンと共演した55年当時はのちの特徴的なスタイルとは違っていたのだろう。同時代のピアニストが誰でもがそうであったようにスタートはバップだったということだ。

 初リーダー作以来どれほどのアルバムをリリースしているのか正確に数えられないが、駄作がないのは驚く。この「イエスタデイズ」は2000年の録音で、一部の曲でエリック・アレキサンダが参加していて、こちらは相性が良いとはいえないが、トリオで演奏されたものはマンスらしさが前面に出ていて聴き応え十分だ。やはりアルバムタイトル曲が出色の出来栄えで、チップ・ジャクソンのベースとジャッキー・ウィリアムスのドラムは控えめとはいえトリオとしてのバランスは取れている。このときマンスは72歳だが、サイドマンとして活躍していた50年代からの強力なスウィング感は歳をとらない。

 4日は連休最終日ということもあり「デイ・バイ・デイ」は休みの予定だったが、事情を話したら快く開けてくださった。黒岩静枝さんをはじめ、小生がススキノのジュリー・ロンドンと呼んでいるナオミさん、札幌で一番歌うドラマー佐々木慶一さん、レギュラー・ピアニストが休みのため急遽駆けつけてくれたKさん、長野のジャズ仲間をもてなし、盛り上げていただいた皆様に改めて感謝したい。azumino さんも札幌のジャズナイトを満喫されたことだろう。
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ボリス・ヴィアンが聴いたムード・インディゴ

2013-11-03 08:55:54 | Weblog
 「墓に唾をかけろ」や「死の色はみな同じ」、「心臓抜き」といったタイトルだけで一歩引きそうになる小説で知られるフランスの作家といえばボリス・ヴィアンである。エリントンに心酔した人で、小説にもエリントンをはじめジャズマンの名前や楽曲がちりばめられてジャズ好きの読者に人気だ。ヴィアンの代表作といえば、「日々の泡」や「うたかたの日々」のタイトルが付いた作品で、多くの国で翻訳されている。

 その小説を原作とした映画が先ごろ封切りされた。タイトルは「ムード・インディゴ」で、アメリカで出版されたときのタイトルを使っている。幻想的な内容を映像化しているので夢の世界にいる心地よさがあるし、何と言っても随所にエリントンの曲が使われているのは嬉しい。「A列車で行こう」に始まり、タイトル曲や「キャラヴァン」が流れ、1940年のファーゴ・コンサートで有名な「Chloe」がヒロインの名前だったり、エンドロールには何と・・・おっとネタバレするところだった。「ムード・インディゴ」の初演は1930年で、作曲に協力したバーニー・ビガードのクラリネット・ソロが大きくフィーチャーされている。

 木管楽器と管楽器のアンサンブルが織り成す色彩感あふれる厚みのある音は独特のけだるさを醸し出しており、エリントンならではの雰囲気を持った曲だ。このエリントン楽団の顔ともいえる曲にテナーサックス1本で挑戦したのはハリー・アレンだ。ベン・ウェブスターやコールマン・ホーキンスというテナーの王道を汲むアレンならではの選曲で、スウィング・センス抜群のビル・チャーラップのトリオをバックに朗々と歌い上げるさまはエリントニアンかと思わせるほどはまっている。もしエリントンが現役で、バンドのテナーを補充するなら真っ先にアレンの名前を挙げるかもしれない。
 
 「ムード・インディゴ」が初めて録音されたときは、「Dreamy Blues」というタイトルが付けられていた。この映画には「キャラヴァン」を弾くとリズムに合わせてカクテルが出来るピアノや雲に乗る恋人たちが出てくるシーンがあるが、まさに夢心地だ。そして「悲痛な恋愛小説」と評される原作とヴィアンの幻想的な作風にある本筋は生きることの意味や愛の形である。それこそブルースの世界だ。

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