デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

春の風来坊ハル・シェイファー

2012-04-29 08:46:48 | Weblog
 生まれながらの放浪者だった主人公が、身投げした女性を救う。一命を取り留めた美しい女性は過去の記憶を一切忘れていた。主人公は己が名さえ知らぬ女性と次第に惹かれ合うのだが、ある日彼女の記憶が戻ると記憶喪失中の出来事を忘れてしまっている。何とも切ないストーリーは、1933年の映画「風来坊」で、主人公を演じたのは「ジャズ・シンガー」にも主演したアル・ジョルソンだ。

 そのジョルソンがこの映画で歌ってヒットした曲に「ユー・アー・トゥー・ビューティフル」がある。その後散発的に取り上げられていたが、この曲の存在を決定付けたのはコルトレーンをバックに熱唱したジョニー・ハートマンだった。ロレンツ・ハートとリチャード・ロジャーズのコンビだけあり、タイトルの如く詞も美しければメロディも哀しいほどに美しいバラードだ。詞をドラマティックに歌い上げることでメロディの際立った美を引き出す効果もありインストは少ないもののモンクやロリンズといった個性派のプレイヤーが取り上げているのが面白い。ときにアヴァンギャルドに聴こえる音使いだが、歌心あってこその名演だろう。

 ペギー・リーの伴奏者を務めたことがあるハル・シェイファーがこの曲をトリオで吹き込んでいる。ジャズピアニストというよりも映画畑の仕事が多い人で、20世紀フォックス社に在籍していたこともあり、その当時はマリリン・モンローやジェーン・ラッセルのボーカル・コーチをしていたという。さてそのピアノスタイルだが、冗談音楽を思わせるひょうきんなジャケットからは想像も付かない端正なピアノで驚く。ビル・エヴァンスに通ずる内省的な面もあるがタッチは明朗で、メロディラインの輪郭は太い。このスタイルこそがモンローやラッセルの歌唱に結びつき名唱を残したといっていい。

 シェイファーは46年にJewelレーベルにソロ録音をしたあと、50年代にこのアルバムと「The RCA Victor Jazz Workshop」、60年代には数枚の作品をユナイトに残している。そして76年の春に突然マイナーレーベルのRenaissanceからライブ録音の「The Extraordinary Jazz Pianist」を発表した。このアルバムが好評でディスカヴァリーから再発されたので耳にされた方もあろう。気が向くとジャズのアルバムを作るハル・シェイファーは春の風来坊かもしれない。
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ショーティ・ロジャースのアレンジは大ヒット曲を生む

2012-04-22 08:58:42 | Weblog
 ビートルズの「愛こそはすべて」や、ナンシー・シナトラが父フランクとデュエットした「恋のひとこと」が大ヒットした1967年に、大物を上回るヒットを記録した曲にモンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」がある。モンキーズはオーディションでメンバーを集めて結成されたバンドだが、この曲は当時のポップスとしては珍しくかなり手の込んだアレンジで、所謂「作られたグループ」の音とは思えないほど完成度が高い。

 音楽雑誌に「ジャズトランペッターで編曲者」と短く紹介されていたそのアレンジャーの名前を見つけたのは中古レコード店で、数枚あるなかから選らんだのは「ショーティ・ロジャース・コーツ・ザ・カウント」だった。ジャズを聴き始めたころで、ジャケット裏にクレジットされているショーティは疎かズート・シムズもシェリー・マンも聴いたことがなければ、「トプシー」や「ティックルトゥ」がベイシー・ナンバーだということも知らなかったが、選んだ理由は曲目に「ウォーク・ドント・ラン」があったからである。まだこの曲の作者がジョニー・スミスとも知らずベンチャーズのオリジナルだと信じていた可愛いころであった。

 早速、B面最後に収められているその曲に針を落とすものの、いつまで経ってもあのメロディが出てこない。輸入盤はラベルが逆になっているものもあるという話を聞いたことがあるので、盤を返してみたがやはり違う。ショーティのオリジナルで同名異曲であることを理解するのに時間が掛かったが、気を取り直してA面の頭から聴いてみた。今までに聴いてきたマイルスやリー・モーガンとは明らかに違う音色とフレーズだったが、これが素晴らしい。とかくウエスト・コースト・ジャズはアレンジ偏重でスウィングしないと言われるが、このアルバムはベイシー並みの迫力があるし、ショーティのロングソロも楽しめる。

 モンキーズはイギリス本国とアメリカ国内で過熱するビートルズに匹敵するスターグループを創るプロジェクトから生まれた。そのために楽曲のアレンジも一流のショーティが起用されたのだろう。猿真似だけではビートルズを超えることはできなかったが、テレビで放映された「ザ・モンキーズ・ショー」との相乗効果もあり短期間で大きな収益を上げたそうだ。ある経済学者が言っていた。手っ取り早く金を作る方法は猿から毛を抜くことだと・・・
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春はジェーン・モンハイトを聴いてみよう

2012-04-15 08:30:19 | Weblog
 70年代はじめ青山に「ロブロイ」というジャズクラブがあった。安田南の「South」が録音された店として記憶されている方もあろう。客席には筒井康隆や小松左京、星新一といった作家をはじめ、詩の朗読パフォーマンスの先駆者として知られる吉増剛造や白石かずこ、奥成達らの詩人で賑わっていた。ママは遠藤瓔子で、のちに店の回想録を書いているがお客の影響だろうか、文章がこなれていて面白い。

 似たような話でセントルイスのジャズクラブ「クリスタル・パレス」のママ、フラン・ランズマンは、お客のジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグという時代の尖端を行く詩人に感化されて作詞をしている。フランが書いた詞で最も有名なのは、「Spring Can Really Hang You Up The Most」で、長い原題よりも邦題の「春が来たのに」と言ったほうがピンとくる曲だ。心浮き浮きする春とは程遠い「春は私を最も憂鬱にさせる」というような内容の歌で、詩だけを切り取るとネガティブだが、このクラブのピアニストであるトミー・ウルフが書いたメロディに乗せると春の気分になるから不思議だ。詩が旋律に溶け込むバラードの技といえよう。

 その技ありをみせたのはジェーン・モンハイトで、セロニアス・モンク・コンペティションに入賞したことで脚光を浴びたシンガーである。このときまだ20歳だったが、仄かに色気を漂わす美女で、もし小生が審査員ならステージに上がるだけで入賞を決めたくなるほどだ。勿論、歌唱力も表現力も20代のシンガーとしては水準を遥かに超えており、間違いなくジャズヴォーカル界を牽引する一人である。デビュー2作目の「カム・ドリーム・ウィズ・ミー」は、「春が来たのに」に加え、エリントンの「サムシング・トゥ・リヴ・フォー」や、ミルドレッド・べイリーの「アイム・スルー・ウィズ・ラブ」といった地味な曲を取り上げるセンスも只者ではない。

 いつも何か面白いことをやっている店という評判で、毎晩満員だった青山「ロブロイ」は76年に突然閉店している。瓔子の夫であり店のオーナーだった安部譲二が逮捕され、店の扉に東京地裁の強制執行の張り紙が貼られたことに因るものだ。「塀の中の懲りない面々」で作家デビューする10年前の話である。元ヤクザの講演を聞いたことがあるが、春が来ても塀は高かった、そして懲りたと、目は潤んでいた。

敬称略
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4月でなくても「パリの四月」を吹いたサド・ジョーンズ

2012-04-08 09:08:53 | Weblog
 ビッグバンドには毎晩演奏する十八番が何曲かある。そのほとんどは聴衆を沸かすアレンジの仕掛けがあり、たとえ1週間続けて聴いたとしても飽きないし、待ってましたとばかりに出てくソロイストが同じであっても愉しめるのがビッグバンドの魅力だろう。「ワン・モア・タイム」というカウント・ベイシーの威勢のいい掛け声で何度も繰り返されるエンディングが有名な「パリの四月」はベイシー楽団に欠かせないナンバーだ。

 そのバンドで9年間に亘り、この曲でソロを吹いたのはサド・ジョーンズである。「毎晩同じ曲ばかり吹いて飽きないのか」とまでお客に言われたそうだが、飽きるどころか益々この曲に魅力を感じたようで自身のリーダーアルバム「ザ・マグニフィセント」でもトップに持ってきたほどだ。ブルーノートには同タイトルの「Vol.3」があることから「鳩のサド・ジョーンズ」と呼ばれているアルバムである。因みに「Vol.3」はブルーノートでの3枚目の作品という意味でナンバーが振られたもので「Vol.2」は存在しない。その昔、「Vol.2」の存在を信じて探し回ったコレクターもいたそうだが、ややこしいナンバー付けはマニア泣かせである。

 ベイシー楽団のこの曲のアレンジはオルガン奏者のワイルド・ビル・デイヴィスだったが、このアルバムでは自身が編曲を施しており並々ならぬ意欲が窺えるし、この曲に対する愛情の深さを感じさせる演奏だ。サドの艶やかで張りのあるトランペットと、控えめながら一本筋の通ったビリー・ミッチェルのテナーが織り成すテーマは原曲に忠実で、基本を大事にしているのが分かる。そしてソロの冒頭でベイシーバンドで受けたイギリス民謡の「ポップ・ゴーズ・ザ・ウィーゼル」を敢えて引用しているのが面白い。ベイシー楽団のナンバーであってもサド・ジョーンズの存在がなければ十八番になりえないことを証明したといえよう。

 同楽団で一緒に仕事をしたフランク・フォスターは、「サドは基本に忠実なプレイをすることで有名だった。だからビッグバンドで優秀なトランペッターとして名を馳せることができた」と言った。この基本がのちにメル・ルイスと組んだビッグバンドの成功につながっているし、ベイシー亡き後のベイシー・オーケストラのリーダーとしての活躍にも結びついている。基本に忠実なプレイは毎晩聴いても新鮮だ。
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いつかチャンスが、とクリス・アンダーソンは弾き続けた

2012-04-01 07:46:00 | Weblog
 エディ・ヒギンズをはじめミシェル・サダビィ、ハロルド・メイバーン、デニー・ザイトリン、スティーヴ・キューン等、50年代から70年代にかけてに活躍したピアニスト達の新作が、90年代に入ってから日本のレーベルによって録音されている。なかには別タイトルのアルバムに違うディスクを入れても気付きもしない金太郎飴的なアルバムもあるとはいえ、忘れ去れようとされているピアニストにスポットライトを当てるのはジャズファンとして喜ばしい。

 パーカーのサヴォイ盤「An Evening At Home With The Bird」にクレジットされていたクリス・アンダーソンもそのひとりだ。シカゴで家庭用レコーダーで録音された音源ということもあり音は良くないが、天才をバッキングするピアノを見事にとらえている。その後の音源といえばフランク・ストロージャーのジャズランド盤「Long Night」と、同レーベルのリーダー作「Inverted Image」しかなく、地元シカゴのヴィージェイに吹き込んだ60年の初リーダー作「マイ・ロマンス」はお蔵になっていて陽の目を見たのは83年のことである。このアルバムの発掘によりにわかに存在を知られるようになったものの録音数が少なく注目されることはなかった。

 パーカーと共演したことが即名声につながるわけではないが、独学で会得した高度なテクニックとハーモニー感覚は特筆すべき点がある。これほどのピアニストが埋もれてしまったのは重度な身障者で盲目というハンディを背負っていたため行動範囲が限られたのだろう。91年にDIWレーベルの手で録られた「Blues One」は、障害を克服してピアノを弾き続けてきた孤高の証といえる作品だ。日本企画でスタンダード中心の選曲となると丸みを帯びた所謂日本人好みの音やフレーズを想像してしまうが、そんな一辺倒の甘さや媚びは微塵も感じられない。これがカクテルピアノ紛いに慣れた耳には新鮮に聴こえる。

 そのメロディのロマンティックさから夢見る乙女的になる「いつか王子様が」でさえ、極力メロディラインを抑えアドリブに移るスタイルをとっており、与えられた曲は何であれ重要なのはアドリブだ、というパーカーから引き継いだジャズ精神を保ち続けているのだろう。実力がありながらレコーディングの機会に恵まれないピアニストは多数存在する。「いつかチャンスが」と願いつつ腕を磨いているのかもしれない。
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