デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

ビギン・ザ・ビギンのはじまり

2012-09-30 08:10:10 | Weblog
 先日、馴染みのレコード店からバーゲンの案内が届いたので早速出かけた。店主と軽く挨拶を交わし、「ビギン・ザ・ビギン」がかかっていたので、アーティ・ショウですか?と訊くと店主と歓談されていた方にオリジナルのザビア・クガートです、と教師が生徒に教えるような口調で言われた。更に、コール・ポーターはクガートの演奏からヒントを得てこの曲を作ったという。どうやらラテンのレコードを中心に集めているらしい。

 曲が作られた経緯はポーターがカリブ海のインド諸島のリズムの一種である「ビギン」をヒントに書かれたものだ、という曲解説を読んだ覚えがあるのでラテン氏の間違いかと思った。また、ミュージカルではさっぱりだった曲をアーティ・ショウが録音してインストルメントとしては異例の大ヒットに結びついた、とされる一般的な話からするとクガートのオリジナルも疑問だ。曲誕生の経緯は別としてラテンのリズムは心軽やかに響き、流れるようなメロディは別世界の心地にしてくれる。そして何よりもショウのクラリネットがこの曲の魅力を引き出したといっていい。以来、インストは少ないがヴォーカルで多くのカヴァーが生まれている。

 最近ではマンハッタン・トランスファーで活躍したシェリル・ベンティーンがコール・ポーターのソング集で取り上げていた。これが何とデイブ・タルのドラムだけの伴奏だ。ライナーノーツを担当されたヴォーカルにお詳しい馬場啓一さんによると、サミー・デイヴィスJr.がステージでこの趣向を披露したという。多彩なリズムに微妙な強弱を付けるデイブの伴奏は、ドラムはメロディ楽器かと思わせるほど良く歌う。そのオーケストラのようなバックを背に変化を付け、108小節で構成された長い曲をドラマティックに歌い上げるベンティーンもこれまた見事。歌唱テクニックと感情移入が合致した傑作だろう。

 ラテン氏の説明が気になったので調べてみると、35年にミュージカル「ジュビリー」のために書いた曲をクガートはその年に録音している。ショウは38年(昭和13年)だから間違いなくクガートがオリジナルだ。さらにクガートは最高級のウォルドルフ・アストリア・ホテルの楽団を指揮しており、ポーターは同ホテルの住人だった。なるほど接点はあるが、文献を探ってみるとこれは違うようだ。どちらにしろ名曲に違いない。
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ロレイン・ゲラーはポインシアナという花に似て美しく

2012-09-23 08:26:59 | Weblog
 作家の倉橋由美子さんがオーネット・コールマンの「ロンリー・ウーマン」を始めて聴いたとき全身の細胞が震える体験が得られた、というようなことをエッセイに綴っていた。名曲中の名曲で、不協和音の美しいメロディラインが不思議なことに心地良い。細胞が震えるのはこの不協和音からくるものだろう。今では古典になったフリージャズ黎明期の曲の元になったのは、「トゥモロウ・イズ・ザ・クエスチョン」の中の「Lorraine」である。

 美人薄命というがこの曲は、30歳の若さで亡くなったロレイン・ゲラーに捧げられたものだ。アルト・サックス奏者のハーブ・ゲラーとおしどりコンビで知られているピアニストで、バド・パウエル直系のスピード感あるソロは力強さの点でも男性に引けを取らない。活動の中心はウエスト・コーストで、レッド・ミッチェルの初リーダー作に参加したり、ハワード・ラムゼイのライトハウスにも出演していた。ローチに連れられてひょっこりライトハウスに現れたマイルスとも共演している。このときの演奏はマイルス・ファンなら封印したくなる内容だが、ロレインは溌溂としており、マイルスが麻薬を断ち切ろうと決心したのはこの演奏の直後なのでロレインに刺激されたのかもしれない。

 そのロレインの唯一のリーダーアルバムが「アット・ザ・ピアノ」で、もともと発売は予定していなかったデモ用の音源を追悼盤としてドットからリリースしたものだ。デモ用とはいえ非常に質の高い作品で、儚く散ったロレインの魅力に触れることができる。4曲のオリジナルは音楽的に完成度が高いうえ、バップのエッセンスが随所に散りばめられており作曲家としての才能も見過ごせない。スタンダードでは無伴奏ソロの「ポインシアナ」がドラマティックな展開で、後半テーマ・メロディが出てくるとろこはゾクッとするほど美しい。ポインシアナという花は大きく赤色五弁で総状について美しいという。

 さて、女流バップピアニストとニュージャズの旗手はどこに接点があったのだろう。レコード上で共演はないが、デビュー前、ロサンゼルスでコールマンは異端者の扱いを受けながらもジャムセッションに参加している。この時期にロレインと共演したことは十分考えられるし、クラシックを学んでいたロレインが異端者のジャズを理解できたとしても不思議ではない。ただ一人の理解者がいればジャズも変わる。
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最強のふたり バード・アンド・ディズ

2012-09-16 08:17:15 | Weblog
 先日、フランス映画「最強のふたり」を観た。2011年にフランスで公開された映画では最大のヒット作で、東京国際映画祭でも賞に輝いた話題作だ。実話に基づいた作品で、車いすで生活している大富豪と、その介護者として雇われた黒人青年との交流を描いている。生活環境や経済状況はもちろんのこと年齢も性格も趣味も全く異なる二人がお互いを認め合い、絆を深めていくプロセスを見事に描いていた。

 ジャズ界で最強のふたりといえばバードとディズだろうか。ビ・バップを語るとき必ず出てくる名前であり、この二人がいなければモダンジャズの完成もなかっただろうし、今のジャズもありえない。43年のシカゴ・サヴォイホテルでの二人の初共演はボブ・レッドクロスによって録音されているが、そこから53年の最後の共演まで、幾多のセッションは両者の切磋琢磨する姿が明確な音として記録されている。10年間も活動をともにすると人生観や音楽観の相違から溝ができるものだが、二人の天才にはそれがない。かつてバードは俺の心臓の鼓動の半分はディズのものだ、と称えたように二人にはバップという同じ血が流れていたのだろう。

 バードはヴァーヴに数多くの作品を残しているが、なかでも50年に録音された「バード・アンド・ディズ」は議論の的になる。ピアノはモンク、ベースはカーリー・ラッセル、順当な人選ならドラムはロイ・ヘインズかマックス・ローチなのだが、何とバディ・リッチ。これがミスマッチ論議だが、世間が騒ぐほどの違和感はないと思う。確かにコンセプションの違いからくるズレはあるものの、これが寧ろスリルを生んでいるのではなかろう。「マイ・メランコリー・ベイビー」という選曲ミスとも思える甘い曲が甘くならないのは、バードとディズの感性、そしてリッチの気魄が合致したからなのだ。ときにミスマッチから名演は生まれる。

 映画で大富豪が好みのクラシック音楽をアース・ウィンド&ファイアーで踊る黒人青年に聴かせるシーンがあった。「バッハはやばい、あの時代のバリー・ホワイトだ」という感想は、音楽を通して理解しあう両人を表している。後世に残る楽曲を書いたバッハは、多くのソウル・ミュージックを生み出したあの時代のホワイトなら、即興演奏の大家として知られていたバッハはあの時代のバードとディズかもしれない。
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ローランド・カークとジミ・ヘンドリックスの接点

2012-09-09 08:08:43 | Weblog
 ジョン・クルース著「ローランド・カーク伝 溢れ出る涙」(河出書房新社刊)は、カーク本人の発言はもとよりカークと交流があった多くの人たちの貴重なインタビューを元に盲目のリード奏者の素顔を浮き彫りにしている。著書からはジャズ・プレイヤーは勿論、ロック・ミュージシャンにも注目されていたことがわかり興味深い。カークと共演を望んでいた人は多く、ギタリストのジミ・ヘンドリックスもそのひとりだった。

 そのヘンドリックスが擦り切れるほど聴いたレコードがあるという。「リップ・リグ&パニック」である。ジャッキ・バイヤード、リチャード・デイヴィス、そしてエルヴィン・ジョーンズという曲者をバックに得意の多重奏法を駆使した65年の作品で、針飛びでもして同じ部分をトレースしているのかと錯覚する息継ぎなしのロングソロが圧巻だ。サイレンやホイッスル等、カークの演奏にはどんな音が入っていても驚かないが、タイトル曲はグラスが割れる音が入っているので印象が強い。著書にはそのグラス音にも触れているが、カークの指示で実際に割ったのはプロデューサーのジャック・トレイシーで、完璧なクライマックスを創り出すためだったという。

 このアルバムはほとんどがカークのオリジナル曲で占められているが、スタンダードからはトミー・ドーシーの十八番「ワンス・イン・ア・ホワイル」が選曲されている。クリフォード・ブラウンを聴いて一度は演奏したいとカークが語った曲だ。レコードではA面2曲目のトラックで、オリジナル曲に挿まれた収録になるが、これが違和感がないどころか、レコード片面がひとつの組曲かとさえ思えるほど馴染んでいる。珠玉のスタンダードをそこに配することでオリジナル曲を同化させ、またそのスタンダードを引き立てる効果はアルバム構成の手法として持ち入れられるが、当然、カークのように美しい曲を書くというのが前提だ。

 「ワンス・イン・ア・ホワイル」の前と後には、「No Tonic Press」と「From Bechet, Byas, And Fats」が収められている。プレスとはレスター・ヤングで、後者はシドニー・ベシェ、ドン・バイアス、そしてファッツ・ナヴァロ、カークが敬愛する偉大な先輩たちだ。グロテスクジャズとも言われたカークの原点はタイトルにまでした巨人であり、ワイルドマンと呼ばれたジミ・ヘンドリックスも基本はブルースである。伝統を尊重する音楽は常に新しい。
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私を月に連れて行って

2012-09-02 07:42:50 | Weblog
 69年に録音された「ビッチェズ・ブリュー」が未だに色褪せないのは、その作品にジャズの未来を見たからではなかろうか。ふと同じ年に人類史上初の月面着陸に成功した米宇宙船アポロ11号の船長、ニール・アームストロング氏の訃報に触れ、世界も音楽も変わろうとしていた時代を思い出した。月面に降り立った衛星中継の映像からは、そう遠くはない「月」と「未来」を見たような覚えがある。

 人類が月に持ち込んだ最初の曲といえば「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」で、シナトラが歌ったテープをアポロ宇宙船に積み込んだという。バート・ハワードが54年に書いた曲だが、発表された当時は「In Other Words」のタイトルで、アレンジも現在良く耳にする4拍子のボサノヴァ調ではなく3拍子だった。初めてこの「Fly Me To The Moon」のタイトルが使われたのは、56年にジョニー・マティスがこの曲を録音したときで、さらに今のスタイルを完成させたのは、62年に編曲したジョー・ハーネルだった。当時はアポロ計画の真っ只中だったこともあり、時代に便乗して大ヒットした曲といえよう。

 録音数を挙げると紙面はツキるほど多く、ほとんどのシンガーが歌っているのではないかと思うほどだ。メロディ、歌詞とも月に飛ぶような夢見心地にしてくれるから、一度は歌いたいのだろう。スタン・ケントン楽団にジューン・クリスティの後任として短い期間だが専属シンガーとして活躍したジェリ・ウィンタースが、「サムバディ・ラヴズ・ミー」で取り上げている。ケントン・ガールズというとハスキー・ヴォイスが売りだが、意外なことに声は少し太めで黒っぽい。これが安心感を与えてくれるのだが、ケントン楽団の在籍が短期間で終わったのはバンドカラーにそぐわない声だったからかもしれない。

 「ビッチェズ・ブリュー」以降、ジャズは大きく変わり、今では日本人の宇宙飛行士も珍しくない。変わらないのは月の明るさと月へのロマンだろうか。元船長の遺族は、「澄んだ夜に月がほほ笑んでいたら、ニールを思い出してウィンクしてあげて」と言ったそうだ。In Other Words・・・言い換えれば、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と、足を月面に踏み降ろしながら言ったニールに若い人たちが続いて欲しいという願いだろう。
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