デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

ジャズ界の魔女、カーラ・ブレイ、風に乗って丘の彼方に

2023-10-29 08:31:28 | Weblog
 1950年代半ば、戦場カメラマンのユージン・スミスが住むアパートで、気鋭のミュージシャンが連夜セッションしていた。その様子を捉えたドキュメンタリー映画「ジャズ・ロフト」に、10月17日に亡くなったカーラ・ブレイが出てくる。グレイト・アメリカン・ミュージック・ホールのライブ盤のジャケット写真と同じ派手な衣装にマントヒヒの髪型だ。デビュー当時から小生はその出で立ちと楽曲から魔女と呼んでいるのだが、話し方といい、仕種といいイメージ通りだった。

 カーラを知ったのはピアニストではなく、1965年のアート・ファーマー「Sing Me Softly Of The Blues」の作曲者としてだ。ファーマーがイメージをふくらましながら吹く叙情的なテーマが美しい。そして68年のゲーリー・バートン「A Genuine Tong Funeral」、70年のチャーリー・ヘイデン「Liberation Music Orchestra」に提供した楽曲は一風変わっていたもののジャズのエッセンスが弾けるほど詰まっている。映画で「ようやくジャズが聴ける仕事に就いたのはバードランドのタバコ売りだった」とインタビューに答えていたが、ここで聴いた数多くのライブから学び、新しいジャズのスタイルを模索し、作曲法を磨いたのだろう。

 強烈だったのは71年のJCOA「Escalator Over The Hill」だ。詩人のポール・ヘインズをはじめ夫のマイケル・マントラー、 ドン・チェリー、ガトー・バルビエリ、ラズウェル・ラッド、ジョン・マクラフリン、チャーリー・ヘイデン、ジャック・ブルース、ポール・モチアン、シーラ・ジョーダン等々、当時の精鋭が並んでいる。集団即興演奏の頂点は69年のバーデンバーデン・フリー・ジャズ・オーケストラによる「Gittin’ to Know Y’All」と思っていたが、それとは違う形のフリージャズの極みをみたような気がした。数多くの素晴らしいアルバムをリリースしたカーラだが、多くの物議を醸し影響力が強いのはこの作品といえる。

 カーラの熱心なファンから魔女呼ばわりして無礼者と叱られそうだが、1964年の東京オリンピックで金メダルに輝いた女子バレーボール日本代表チーム「東洋の魔女」、少女の成長を描いた「魔女の宅急便」、映画「西の魔女が死んだ」で初主演ながら名演技で魅了したシャーリー・マクレーンの娘サチ・パーカー等、「魔女」は最上級の形容詞である。ジャズ界の魔女、カーラ・ブレイ、享年87歳。合掌。
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リチャード・デイヴィスと目が合った。彼はニヤリと笑った。そして絃が大きく揺れた。

2023-10-08 08:27:34 | Weblog
 9月6日に亡くなったリチャード・デイヴィスを1992年に僅か1メートル前で聴いている。あの強靭なベーシストが目の前にいるのだ。中村達也のバンドでマービン・ピーターソンとジョン・ヒックスが加わっていた。椅子に座ったままのプレイだったがフロントを揺さぶるリズムと、歌心溢れるソロは、体型と表情こそ変わったものの「Heavy Sounds」のままだ。

 「Kind of Blue」や「Cool Struttin'」、「Groovy」等の名盤で、最初に覚えたベース奏者はポール・チェンバースだった。そしてジャズの深いところに一歩聴き進む。そこでエリック・ドルフィーにブッカー・アーヴィン、ボビー・ハッチャーソン、アンドリュー・ヒル・・・個性際立ったミュージシャンと渡り合った稀代のジャズマンに出会う。チェンバースも魅力あるラインを刻むが、「Out to Lunch」や「The Song Book」、「Dialogue」、「Point of Departure」はデイヴィスの存在がなければ後世まで聴き継がれるアルバムではなかったかも知れない。

 3,000作以上の録音がある多忙な音楽家の初レコーディングは、映画「グリーンブック」で話題になったドン・シャーリーとのデュオ「Tonal Expressions」で、「The Man I Love」や「Love Is Here To Stay」のスタンダードを弾いている。そしてサラ・ヴォーンのバンドで5年間修業を積む。一癖も二癖もある;ジャズシンガーである。バックで坦々とリズムを刻んでいるだけでは「Swingin’ Easy」や「After Hours At The London House」、「No Count Sarah」というマーキュリー時代の名作にクレジットされない。この時代に卓越した技術を身に付けたのだろう。

 件のライブはスタンダード中心の選曲だった。聴き慣れたご機嫌なフレーズに思わず唸る。目が合った。彼はニヤリと笑い、絃が大きく揺れた。拍手のなか小生の「YEAH!」が大きく響く。米ジャズ誌「Downbeat」国際批評家投票のベース部門で、1967年から74年まで8年連続トップに選ばれた記録はこの先も破られない。享年93歳。合掌。
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