ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

宇宙とか・・

2008-01-05 21:26:32 | 
宇宙の果てはどうなっているのか。虫も人間も同じ生命を宿している。命って何なんだ。僕は科学がそうした謎を解いてくれると信じていた。
文芸書に熱中する一方でブルーバックスを読み漁った。

文学は、源氏物語以来、つまるところ男と女の三角関係、横恋慕、嫉妬、略奪愛などという男と女が存在する限りにおいての宿命を、時には美しくまたある時は救いようの無い醜悪さで描くことに本質があると僕は考えた。文芸作家というのは何がしかの鍛錬や経験により文章力、表現力が研ぎ澄まされた人たちであろう。そういう人たちに憧れもした。

けれど大学の進路を考える時に僕は、そんな下世話な人間世界を探求するよりも生命や宇宙を知る手立てに強く好奇心を持った。よって文科系に進学することを止めた。
あまりにも科学万能主義に陥りすぎていたことは後になってわかった。
生命や宇宙のことなど、ちっぽけな人間ごときに知れようはずが無い。
そうした努力や科学者の大志を否定するものではないけれど、僕がやるべきことではないと思った。かといって文系的に宇宙や生命を語り始めるとおかしな新興宗教じみてきてしまい、そういうのはまったく肌に合わなかった。

インフレーション理論に基づくビッグバン宇宙論には驚愕したしホーキング博士の語る宇宙論は凄い。彼女とホーキングの宇宙のことを熱心に話したこともあったっけ。
宇宙の年齢は137億歳で、宇宙は「普通」の物質が4パーセント、23パーセントが正体不明のダークマター、残り73パーセントがダークエナジーによって構成されていて、宇宙で最初の星は、宇宙誕生からわずか2億年後に輝き始めただろうということもわかったという。さらに、宇宙は平らで、永遠に膨張し続けるであろうという結果も導かれたらしい。これはごく最近の話題だ。

宇宙の構成物質の4%のそのまた微小な物質で構成されている僕たちの世界はなんとも切ないくらい小さい。その小さい世界が僕たちの全てであり僕も家族も男も女も、今いるごとくに実存している。そこに僕らは立脚して進むしかない。そして僕たちの命はとても短い。宇宙の137億歳と比べようも無く微小な時間。命の意味など問う前に、与えられた短い一生を全うすることだ。人間の命の存在価値は、喜びであり楽しみであり、また、苦しみであり悲しみであろう。喜怒哀楽を堪能することこそ生命の輝きというもの。実存する己という存在になるべく正直に生き抜く。それだけのことかも知れないな。

ともあれ期待と大志をもって入学した大学だったが、そこにはそれに答えてくれる何者も無かった。日本の当時の国立大学の惨状であった。高校の授業も酷かったがそれ以下であった。
その後の酒と女と闘争にまみれた僕の行く末を肯定するものではないが、それは確固とした事実である。

こんなことを振り返り今の自分を見たときに、当時想定したこととまったく関係の無い道を僕は歩んでいる。これもまた僕の人生の七不思議のひとつかな。

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弟がいます

2008-01-05 11:36:08 | 
前にもちらりと触れたが、僕には6つ下の弟がいる。
お人よしで思いやりがある。孝行者なのだ。血は争えずやはりあまり器用に生きられないタイプのようだ。1浪して地元の教育系の大学に入り、卒業後は学生の頃からバイトしていた塾にそのまま就職した。教員になるものとばかり思っていた。
見た目は徳永英明に似ている。今は、その地方都市に3DKのマンションを所有し、相変わらず一人暮らしを満喫している。1度僕も訪問したことがあった。見晴らしのいい場所で、ちょいと贅沢過ぎる感。受け入れ態勢は万全だ。しかしなぜかいまだ独身である。

弟は、僕の影響を多分に受けている。音楽も趣味も生き方や思想でさえも。
僕のことを反面教師にすればいいものを、後を追い受け入れてしまう。
大学に入ってからも危うく僕の二の舞を踏みそうになった。すんでのところで止めさせた。悪い兄であった。

弟がまだ大学生でいた頃、実家に同級生の彼女を連れてきた。たまたま僕も同棲していた彼女を連れて実家に戻っており、一緒に遊んだ。ちょうどお盆で夏休みだった。弟の彼女は髪の長い清楚な感じの子でお父さんのブルーバードを乗り回していた。どっかの狭い路地を曲がる際に車の横っ腹を思いっきりスリスリし相当困り果てていた場面を思い出す。あんなに仲良しだったのに、二人は一緒になることはなかった。そんなもんだな男と女って。
就職した後に弟は、地元の女の子と大恋愛をしたと聞く。僕はもう東京にいたので実際に会った事はなかったが、両親に聞くと多少変わった子で、中々実家の風土に馴染めなかったらしい。弟はしょっちゅう実家に彼女を連れてきていた。弟の方がベタぼれだった。そんな一世一代の大恋愛も何があったか知らないが結局実らなかった。親父がどうしたこうしたと弟は親父を相当責めたという。弟はそれが契機で一時期相当荒れていたようだ。そんなことまで僕の真似をするなと言いたくなる。

弟がまだ中学だった頃既に僕は大学生でたまに実家に帰った時にいろんなロックバンドのレコードやテープを持参して家で聞いた。そしてそのまま実家にほうりっぱなしにすることが多かった。弟はそれらに魅了され、通販でベースギターを購入し、高校ではバンドまで組んでいた。例に漏れずビートルズに侵された。特にポールマッカートニーに心酔した。弟もポールも左ぎっちょでベースという共通点もあった。大学ではユニコーンのコピーなどしていた。何度か弟のアパートにも行ったがついぞ彼の演奏を聞いたことは無い。いつか二人して「あずさ2号」でもデュェッとしようか。

「結婚はいつするんだ」と、今年僕は弟に唐突に聞いた。
「まだいいよ・・・」
“まだ??”もういい年なのに、呑気な奴だ。
それ以上の突っ込みはしなかったが、当の相手もいなそうだった。
どうするのだろう。決してもてないタイプではないのだが、やはり若い頃とは違い勢いでなんでも出来なくなっているのか。

若いとき勢い余って結婚に至り、子供が2~3人はできて、その子らの成長を楽しみに平凡な生活を送る。“勢い余る”ことは人生において重要だと思う。多くの人はこのパターンと思えるが、これもまた人間に組み込まれたDNAなんだろうか。
勢いが無ければ何事も前に進まない気がする。
考えて考えて考えすぎて「間違う」ことは往々にしてある。
今度弟とあったら「勢いを忘れるな!」とでも言ってやろうか。
「??何言ってんだ兄貴・・・」
ぽかんとされそうである。

なにしろこんな弟のところに嫁いでくれる花嫁さんはいないものか。
募集中です。

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Kという渋すぎる奴

2008-01-05 01:12:10 | 
入舎仕立ての頃、結構仲の良かったKという男の話。
育ちの良さそうな秀才肌のKは、僕の隣の部屋に住んでいた。なんでこんなのがこのオンボロ寄宿舎を選んだのか不思議に思った。Kは浮世離れした奴で僕以上に世間知らずであった。

寄宿舎の新入生歓迎コンパでは、入舎仕立ての30人ほどの学生が、一人ひとり前に出され自己紹介させられる。そして一芸を披露させられ、最後にどんぶりに並々と注がれた日本酒を一揆飲みさせられる。先輩が寄宿舎に代々受け継がれている立派な日本太鼓をドンドン叩きまくる。それにあわせて最後の一滴まで僕たちは戴いた酒を飲み干さねばならなかった。
普通ならフォークや流行歌を披露したり高校の応援歌を絶叫したり、逆立ちや宙返り、時にはつまらぬ手品をしたりというのが一般的な芸披露であったのだが、Kはクラッシックギターで「Black Bird」を生演奏して静かに歌った。
今なら確実に『KY』とか言われそう。しかし、さにあらず。回りに百人はいると思われる酔っ払いたちは一同に静まり返り、Kの弾き語りに傾聴した。
凄い芸風、、と僕は感心した。僕の芸はといえば、“朝丘めぐみ”の“私の彼は左きき”振り付けつき。だったと記憶する。結構受けたと思ったがレベルが違った。

後で聞けばKは大学のサークルの軽音楽サークルに既に入部しており、リードギターをやりたかったが、空きが無いのでキーボードを受け持ったという。えっ!?ギターばかりかピアノも弾けるのか・・・。しかも新入部員のくせにもう一人前のポジションを任せられるとは只者ではない。
当時の僕は、男でピアノを弾けるとは相当の上流階級か由緒ある家柄かとしか思えず、Kの後ろに後光がさして見えた。僕は楽器というものがからっきし駄目であったからなおさら尊敬に値する男と思えた。因みに中学の縦笛で僕は楽器というものにおさらばした。

一念発起して僕はKを連れ立って街の有名楽器店に赴き、フォークギターを購入した。Kは「初めてなんだからそんないいものはいらないよ」と、高級品ばかり物色する僕を軽くいなした。相当な意気込みと決意でいた僕は何か拍子抜けした。それもそうだといかにも安そうな5千円のギターにした。今となってはそれで大正解だったのだが、やはりKの彗眼というべきか。

Kはスマートで足が長い。面長で濃い髪を肩まで伸ばしていた。洋服のセンスもいい。声はハスキーボイス。けれど本当に音楽しか興味の無いことが後からわかる。
合コン、合ハイに参加するたびに彼の周りに女の子が群がる。けれど、Kはなにしに参加しているのか疑問に思うくらい女の子にそっけない。聞けば「タイプじゃないから・・・」。相当、理想が高いのかそれとも女に興味が無いのか・・・もしや「男色系!?」と感じたことも幾度かありやなしや。
音楽家や芸術肌の人にそういうタイプが多いことも書物で知っていたのでやや警戒したこともあったが、多分、僕の杞憂だったろうと思う。真相は藪の中。

2年目にKは寄宿舎を出た。寄宿舎の風土が肌に合わなかったのと、2人部屋であったため部屋で自由に楽器の練習が出来なかったためだと言っていた。
風の噂では軽音楽のサークル活動に熱中するあまり留年を繰り返し、親からの仕送りも止められ、やむなく夜にいかがわしいお店でピアノの弾き語りのバイトを続けていると聞いたことがある。その後、絶えて消息不明となった。何しに大学にきたのか不思議な男の一人がKであった。

「ローリングストーンズ」の格好良さを教わったのもKであり、今もその点は感謝している。

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