ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

スローなブギに

2007-11-27 21:43:36 | 
「スローなブギにしてくれ」を久方ぶりに観た。インターネットの某映像配信サイトにてである。
1981年公開の角川映画。主演は、浅野温子。自殺して今は亡き古尾屋雅人や山崎努らが共演している。
浅野温子は何しろ可愛かった。野良猫のように野性的で不思議な少女を演じている。
けだるくなげやりな当時の時代の雰囲気を髣髴とさせる映画である。

僕にとっては、映画よりも、南佳孝が主題歌として歌った「スローなブギにしてくれ」のインパクトのほうが強かった。
なんともいえないアンニュイな気分にさせてくれる。
映画は300円で観れる「名画座」に決めていたが、なんの拍子か高い金をだして観てしまった。
そして当時はくだらない、つまらない映画だと思った。
今観ても、大して評価は変わらないのだが、70年代末から80年代に向かう「しらけた」時代の趨勢を、
上手く表現できていることには今更ながら驚いた。
フィクションでありながら「記録映画」としての価値があるかなとも思った(明らかに詭弁・・・)。

映画は一人で行くものと決めていた。
既に禁を破ってオールナイトしてしまっている。
もう一度だけその禁を破ったことがあった。
例の専門学校のサークルの女の子の同級の友人が僕に気があり、デートを強引に設定されてしまった。
しょうがなくて映画を観に行ったのであるが、その時も同じ角川映画で、
「白昼の死角」という高木彬光の推理小説の映画化。
原作は中々の名作なのだが、角川にかかるとこんなにもつまらなくなるのか、
などと思った。

相変わらず「本命」には縁が無い日々が続いた。




メモリーパウダースノー株式会社

2007-11-25 15:28:42 | 
ビートルズのテレビ番組用の企画映画に「マジカルミステリーツアー」というのがある。
4人がまだ仲良しで、油の乗っているころの作品である。
企画、映像的には酷評であったが、アルバムは大ヒットし、相変わらずビルボードチャートのトップにランクした。
表題の「マジカルミステリーツアー」の乗りのよい楽曲から始まり、「ハローグッバイ」や「アイアムザウォーラス」、「ペニーレイン」と続く。
中でもどこか懐かしく幻想的な「ストロベリーフィールズフォーエバー」は今もふっと口ずさむほど好きだ。
全般にサイケデリックで僕は、映像もアルバムも嫌いではなかった。

これに触発された。ツアー、サイケ、懐古趣味・・・ 何かできそうな予感がした。
思い出を巡る旅のアレンジ。人は長い人生のうちに忘れられない思い出とそれを紡いだ場所がある。
相当な時間がたち、人生も終盤に入ってきた時、半生を振り返ってもう一度見てみたい場所や取り戻したい時間というのが、
人には絶対有るはずだと思った。
別に、老後ということでもなく、人生の節目や何かの転機の際に、そんな心の隙間を埋めてくれるのが、思い出や懐かしさではなかろうかと思った。
そんな人の心を満たすことでビジネスができたら素敵だなと真面目に考えていた。

「メモリーパウダースノーコーポレーション」
「記憶の粉雪たちを一緒に探しに行きましょう株式会社」である。
記憶の粉雪。時の経過とともに、溶けて霧消してしまう切ない記憶のパウダーたち。
その場所に記憶の粉の一部が、残り少なくなりながらいまだ漂い続けている。
地表の下に根雪のようにひっそりと、記憶の粉たちは眠っているのだろう。
それを掘り起こし、手のひらにのせて、懐かしく愛でた時、人はもう一度元気になれる。

ツアーはその人又はその人たちだけのために企画される。事前に思い出の内容と当時のシチュエーションを詳細にヒアリング。
それを元に、その地とその思い出にまつわる登場人物たちの調査を行い、
できる限りの「再現」シナリヲを書ききる。とてもお金と時間が掛かりそうだ。
また、人まで登場させるとなるといろいろ問題も生じる。
なんなら、代役を採用しよう。・・・
いろいろと構想したのだが、実現には至らなかった。
時間はあふれるほどあったのだが、何しろ金と協力者が皆無であった。

今もこの構想は密かに温め続けているのだが。


いい日旅立ち

2007-11-25 09:43:56 | 
大学の同期の仲間たちと夜更けまで酒を飲みだべる日が続いた。
自由に何でも話せる、心が許しあえる友というものを初めて得たような気がした。

当時の芸能界は、キャンディーズが解散するというので心を痛めた。
僕は、当然ランちゃんが好きだった(今は水谷豊のかみさん)。例のY先輩はミキちゃんとか。
ミキちゃんはかなり少数派であり、ランちゃん派VSスーちゃん派でいつも張り合っていた。
また、入れ替わるように聖子ちゃんが華々しくデビュー、明菜ちゃんも遅れて登場した。
中森明菜を見て、世の中にこんな可愛い女の子がいるのだということに驚嘆した。
菊地桃子などもその類で、世はまさに「美少女ブーム」といわんばかりに美少女ラッシュの様相だった。

冬のそんな夜更かしのある明け方であった。FMラジオから山口百恵の「いい日旅立ち」が流れてきた。
百恵ちゃんは、中学の頃から大好きだった。「高三トリオ」の中でもピカイチに。
僕の部屋で、同期2名のいつもの面子と「雪見酒」をしゃれ込んでいたのだが、
Sが、「よし。津軽へ行こう!」と突然言い出した。百恵ちゃんの旅情あふれる物悲しい歌声に、みな感傷に浸っていた。
冬の竜飛岬。悪くないかも。そう思われた。

善は急げとばかり、3人は早朝の急行電車に乗り込んだ。
たいした防寒着もなく、小銭の有り金かき集めて、ただただ本州の北のはずれに一路向かった。
無謀であった。冬の北東北は、積雪が凄い。しかも氷点下も珍しくない。
今季節は12月になろうとしている。津軽本線に乗る頃には外はしんしんと雪が降る銀世界になっていた。
「おいおい、こんな格好で外に出れないぞ」Iは言った。
下はジャージでジャンパー姿だ。
「いやここまできたんだし決行する」
何としても竜飛岬から津軽海峡を見ねば気がすまない。
そういう僕も、ジャージ姿に多少厚着している程度であった。
芯から温まる蒸気機関車の車内から、凍てつくような外界に出でることに恐れを感じた。
凍死するぞこれは・・・マジに思った。

国鉄(今はJR東日本)津軽線の終着駅。三厩に到着した。
青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩東町にある。
青森駅から三厩駅に行ける津軽線列車は、1日5本程度。直通は1本で、
それ以外は蟹田駅で乗り継ぐことになる。「本州最北端の駅」であった。

午後になっても雪は降り止まない。降り止まないどころか降雪の厚みを増している。
三厩駅から歩いた。竜飛岬まで相当な距離だ。傘も無い。無謀であった。
「八甲田山死の彷徨」という言葉が脳裏によぎった。

せっかくここまで来たのだが、あっさり「やめた」。
みなまだ死にたくは無いということで意見が一致した。
大学に入って始めての「挫折」を味わったのであった。

その夜は、弘前まで戻り、同じくとある国立大学の男子寮に宿泊させてもらった。
当時は、全国どこへいっても大学の寮というものが多数あり、一泊200円やそこらで宿泊できて便利だった。
阿呆な今回の策謀を酒のツマにして、その寮の皆様方と酒を酌み交わして楽しい一夜を過ごさせていただきました。




サークル「あすなろ」

2007-11-23 23:53:14 | 
僕たちの寄宿舎は小高い丘陵にあり、10年ほど前まではその周辺には狸が出たという噂だった。
その頃には回りに住宅もたくさんでき、道路も整備され、だいぶ賑やかになっていた。
けれども、寄宿舎の東側は依然として鬱蒼とした林が続き、くぼんだ谷間に貧相な教会がぽつんとあって、
不気味さを醸し出していた。突然ドラキュラや狼男が飛び出してきてもなんら不思議でなかった。
夜中その辺をうろつくにはちと、いやかなり、勇気がいった。
教会から更に東側に上るとそこに福祉関係の専門学校の女子寮が佇んでいた。
近くに専門学校の校舎があって、その先は広い公園となっていた。
僕たちの寄宿舎とその女子寮は谷間を挟んで5百メートルと離れておらず、まさに目と鼻の先という感じであった。
そういう距離の近さもあり、二つの間には「あすなろ」という児童福祉のサークルがあって、
地域の子供たちの健全な成長に寄与すべく活動を行っていた。
たまたま僕が同室になった学年の2つ上の先輩が、「あすなろ」の部員で、僕たちもサークルに勧誘された。
寄宿舎には「あすなろ」に入部している先輩が5人ほどおり、どの先輩も真面目で今風に言えばかなり「お宅系」の方ばかりで、
ごめんこうむりたいというのが僕も含めた皆の率直な感想であった。
しかしどの学年にも似たような奴がいるもので、同学年のお宅系の奴が既に1名入部していた。
そいつから重大な情報が入った。女子寮の「先輩」また今年入部した新人女子の情報であった。
先輩のお姉さま方は美人ぞろいらしい。新人の子はとても可愛いらしい。
聞き捨てなら無い重要情報であった。
僕も含めみな色めきたった。これはただ事ではないと、同級の寄宿生のその手の筋に熱心な輩たちは、入部を決意したようだった。
動機が極めて不純な入部であった。恥ずかしながら僕もその一人に加わってしまった。
結局、この年の「あすなろ」の新歓は新入部員がわが寄宿舎から5名、女子寮から5名となり都合10名の大成功と相成った。
部員は全員で20名の大所帯となる。
今後このサークルを巡り、七転八倒の悲喜劇が繰り広げられることになる


その「あすなろ」とは別に、寄宿生は夜中に酒を飲むと徒党を組んで例の不気味な森を超え、
女子寮の門扉を乗り越えて、4階建ての頑強な建物の前にとぐろを巻き宴会を再開するなどという愚行に出る悪習があった。
俗に、「ストーム」と言われていた。
「ロミオとジュリエット」張りに、意中の子の名前を絶叫する奴がいるかと思えば、
自分の人生論を聞こえよがしに語りだす奴がいたり、まさに酔っ払いの饗宴が夜中、そんな場所で始まるからたまらない。
女子寮の「淑女」諸氏も、そんな僕たちの醜態を明かりを消した部屋のカーテンの隙間からそっと覗いていた。
阿呆な寄宿生の襲来を心待ちにしているような雰囲気もあった。
向こうは向こうで●●さん、▲▲さん、・・・とフアンがおり、翌日はそれらの武勇伝で校内はもちきりだったという。
その●●さん、▲▲さん、・・・に僕が入っていたかどうかは定かではない。
最後は、管理人の親爺さんがかんかんになって出てきて追い払われ宴は即散会と相成るのが常であった。
あまり酷いと近所の交番に通報され、警察沙汰になることもあった。
若気の至り。そんなスリルをみな楽しんでいた。
牧歌的な時代であった。

遠い夏・・・

2007-11-23 00:22:09 | 
海岸線沿いに浮雲が流れると
砂の蜃気楼に立ちすくむ影一つ
人影も無い入り江
そこが二人の秘密の場所で
象牙海岸と名前までつけた
遠い夏

あれから私
時の波間をただ流れ木のように
一人で生きてきたの

もう一度訪ねても道順さえも記憶のかなた
夢の中で見た風景のように
遠い海

あなたの後に愛を知っても
ただ流れ木のように
岸辺で踊ってただけ

3年を隔ててあなたから来た電話
懐かしい名前に知らないふりをした
冷たいと言われたけど
本当の気持ちもし話しても
過ぎ去った時を埋めるものは無い
遠い夏 遠い夏


この歌のように身にしみるような泣きたくなる夏が、この時期にあった。
なぜか当時の出来事と見事にシンクロしてしまう。
今でも僕の中で暗唱できるほどの、稀有な歌の一つである。

これをたまに口すさんでいる僕は、とても悲しい。


大学への恋慕

2007-11-18 15:09:18 | 
いまでも大学に対する恋慕があるのだろう。確かにやり残したことは数え切れないほどある、
もう、20年も前のことなのに・・・。
休日にマラソンをするのを今では日課にしているが、その際にキャンパスに立ち寄ることも多い。
東大の駒場によく行く。今日は、東工大に立ち寄った。
このコースは結構気に入っている。晩秋、銀杏並木に斜めにさす日差しがセピア色に見えた。
近所の人であろう、年配の方が銀杏を拾っていた。
僕も、近くに落ちていたコンビにのビニール袋いっぱいに、銀杏を集めた。
集めてどうするでもないが、銀杏の臭いに閉口しつつ、ひたすら銀杏を拾い集めた。
近くの洗足池も今日は紅葉を見物に来る行楽客で賑わっていた。池の周りも一周した。
この一角だけ、自然がよく残っていて池のふちには様々な植物や昆虫が集う。
夏の季節が好きだが、秋の洗足池も悪くは無い。
東工大の校門の前は、東急目黒線の大岡山駅だ。それに続く商店街はそこそこ活気がある。
マラソンの帰り道、商店街のすぐ入り口にある「清風堂」という和菓子のお店で
ぜんざいを食べる。ここの「田舎ぜんざい」は安くて美味しい。
疲れた体に、パワーを与えてくれる。今日は、奮発して「あべかわ餅」も頼んだ。

東工大は、とてもすがすがしいキャンパスである。決して広いとはいえないものの、
さすがに設備も整っていて、自由な気風も感じられる。
しかし、僕たちが過ごした頃の大学の雰囲気というか「臭い」は、おおよそどこにもない。

それもそうだ。時代は大きく変わっているのだ。
それを確認でもするかのように、僕は、ふと大学のキャンパスに立ち寄る。
そして、随分と遠くに来てしまった現在の自分の立ち位置とか座標軸を、確かめでもするかのように。

ついでに碑文谷の聖サルジオ教会に立ち寄ることがある。
柄にもなく、しんみりと十字を切ってうなだれることもあったが、
今日は横目で眺めるだけにした。
随分と肌寒くなり秋も終わりに近づいている、

袋いっぱい集めた銀杏どうしようか・・・。
目下の問題である。



過ぎるほど

2007-11-15 23:41:49 | 

ふるさとは遠くにありて思うもの
そして悲しくうたうもの
よしや異土のかたいとなるとても
帰るところにあるまじや


僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる
ああ自然よ父よ
僕を独り立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ


ゆやーん ゆよーん ゆやゆよん


当時の僕の気持ちはこんな詩の断片で表象される。
郷愁と決意と退廃とが混濁していた。

何もできない自分、生の意味がつかめずにいる自分、
しかし本能がぞくぞくと湧き出る自分。


大学に入ったらいっぱい本を読もう。そう思っていた。
けれども、過ぎるほど溺れたのは、酒のみであった。





三つの法則

2007-11-14 23:22:37 | 
僕は、自分で言うのもなんだが、どちらかと言うともてた方かも知れない。
ある女からは「クラスで3番目くらいにいるタイプ」と言われたことがある。
1番でも、2番でもなく3番とは、何か微妙で、うれしいような悲しいような。
けれども、その当時付き合っていた彼女の言葉なので、偽りは感じなかった。
多分、男性としては常に僕はその辺に位置していたのだろう。
身長が高いとかスタイルがいいわけでもなく、二枚目でもない僕の3番という評価は、
お人よしで、比較的いい人っぽい、性格に起因するものだったのであろうか。

けれども、好かれると、とことん好かれるようだ。鈍感が玉に瑕、随分ともったいないこともした。
合コンで「●●さんなら、どんな子でもついてくよ」と言われた。お追従だと思ったし、他に好い子がいたんで聞き流した。
その子は僕のことを相当好いていたようだった。

いつも3番目が第一の法則なら、僕の中の経験則の第二法則は、本命は常にペケ。
その両脇、その周辺にいる子に好かれてしまい、困惑する法則である。
回りからセッティングされ、その気も無いのに映画を観たり、デートをしたり。
結局その気も無いので続くはずも無い。
むやみにSEXに走るタイプでもなかったから、一歩進めばいけたのに、チェリーボーイの時代が長いこと続いた。
もったいないことをしたと今は思う。その頃、もう少し欲望の赴くままに、
自由奔放であったなら、人生も変わっていただろう。

変に純粋で、生真面目な故に損ばかりする。これが僕の中の第三法則である。
こういった僕を取り巻く宿命のような様々な法則から、いずれ解放されたいと思い始めた。
運のつきだった・・・。

中島みゆきの「時代」が巷に流れ心に染みた。


オールナイト

2007-11-13 23:07:44 | 
飲み直しに別の飲み屋に行き、どんな話をしたか全く今となっては覚えてないが、
深夜まで時を過ごすことになった。まだ、20才にもなっていない僕であったが、
彼女は更に一つ年下だったかも知れない。
そんな生娘がそんな時間まで僕に付き合っていた。
もうとっくに女の子の住んでいる女子寮の門限は越えている。

僕は、何か疚しい気持ちで、彼女を遅くまで拘束したわけではない。
まだ、そんな大人の世界は、恥ずかしながら何も知らない初心な頃のお話である。
彼女のほうが、僕より寧ろよっぽどそんな世界のことに長けていた可能性がある。

お金も残り少なくなり、交通手段もなくなる中で、いまさら帰れとも言えず、
当時当たり前だった映画のオールナイト上映に、僕は彼女を誘った。
やはり、着いてきた。「帰る」とでも言ってもらいたかった。
アルパチーノのスケアクロウを二人で観た。
というか、もう深夜1時を回っており、映画を観るというより半ば寝ていたかも知れない。

結局、朝の6時頃、早朝の喫茶店でブレンドコーヒーを飲んだ後、彼女の寮の近くまで一緒に歩いてさよならをした。
その後、何度か電話が来たりかけたりしたが、何も無いまま自然にフェードアウトしただけで、
それ以上何も生まれも発展もしなかった。
今思えば、なんと情け無いとも思えるのだが、いまだ一歩前に踏み込めない自分であった。
女性との事にそれは限らない。何事に関しても中途半端で勇気の無い、
そんな自分がとても嫌になりつつあった。
これまでの20年弱の自分の生き方に、意味を見出せないでいた。



大地震

2007-11-12 21:17:40 | 
講義が終わりいつものように循環バスに乗り20分もすると僕が寄生する住処の最寄のバス停に着く。
その日も、回数券を払い、バスから降りようとした瞬間、世界が大きく動き出した。
一瞬めまいかと思ったが、やがて僕がおかしいのではなく目の前に広がる全てのものが、
本当に揺れていた。
電線やお店の看板や、家屋の屋根が、それこそグワングワンと音を立てて揺れている。
地震だ。しかも、経験したことも無いほどの巨大地震だ。そう思った。
実際、この地震は、地震の多いこの地方にも記録に残るくらいの大きな地震となった。
ブロック塀の下敷きになり死んだ人も出た。
バスは当然前に進まず、自動車も停止して動かない。道を歩いていた人々もなす術がない。
僕もその場にうずくまってしまった。
そんな大地震が、新しい生活のしょっぱなから僕の眼前に襲来した。

酷い地震だった。おかげでほぼ半年、アルバイトに事欠かなかった。
市内のデパートの中が瓦解し、それをかたずけるドカタの仕事。
電柱の強化作業、割れた道路の整備、復旧のための塗装工・・・・。
8時から夕方5時まで働いて当時5千円のバイト料が当時の学生の相場だった。
それに昼飯がつくとラッキーと言われた。
はっきり言って、楽ではなかったが、汗をかいて働くとはこういうことかと思った。
5千円を手に入れることの苦労を身をもって知った。

これをきっかけにいろんなアルバイトをした。半月余り遠い山奥のダム工事に行った。
新幹線のトンネル工事に1週間モグラと化した。泊りがけで親爺くらいの年の人たちと寝食をともにした。
なぜか半ば自棄になってそんな肉体労働に没頭した。自分の情けなさに自嘲しつつ。

特にお金が欲しかったわけでも無いのに、稼ぎに稼いで、30万円ほど蓄えが出来た。
やがて、400CCの中古バイクを買う原資となり、残りは酒に消えてしまった。

僕は肉体労働の貴重さを、汗水流して働くことの大変さを、身にしみて知ることとなった。
この一時時期を除いて、建築土木作業員の仕事をした事が無い。
世の中、そんなことをしなくても楽して数倍の金ををもらえる仕事が五万とあることをいずれ知る。けれども、そんな効率など、この頃、僕にとってどうでもよかったのである。
ただ、我を忘れて何かに没入したかっただけかも知れない。




ちあきちゃんパート4

2007-11-08 21:48:21 | 
当時、寄宿舎は2人部屋で、新入生から大学院院生まで総勢2百人ほどが「学び舎」としていた。
実は「学び舎」とは名ばかりで、酒を食らい夜を徹して人生を語るかと思えば、
プロ顔負けにマージャンに打ち込んだり、突然、数週間も山登りや自転車で
全国行脚に出たりと、学業などそっちのけというのが実態であった。
故に、留年なぞザラで、休学や留年を繰り返し、大学にもう10年近くいる「猛者」さえいた。
そうした人は「長老」と呼ばれたり「仙人」などと呼ばれ、「尊敬」されるのであった。
Y先輩も、名誉あるその呼称を得るに十分有望に思えた。

この寄宿舎は、年がら年中、様々な行事が続き1年目の僕にとって目の回るような日々であった。
そして、驚きと感動の連続であった。
年をとればとるほど、日々の出来事に新鮮な驚きや喜び、悲しみを感じることが少なくなる。
光陰矢のごとしで時間は無為に過ぎ、あれよあれよという間に1年が過ぎてゆくものだ。
物理的に時間の長さは万人に平等であろうが、それを感ずる側からすると
時間の長さには大きな個人差がある。間違いなく、年齢にもよる。
子供の頃、あんなに時が過ぎるのが遅く長く感じたのはどうしてだろうか。
人生の酸いも甘いもひと通り味わい尽くした後の時間は、妙に早く短い。

中でも、ダンスパーティーというものに度肝を抜かれた。田舎での僕にとって、
社交ダンスなぞ明治時代の鹿鳴館の遠い世界でしかなかった。
まさか、そんなハイカラな事を自分が体験するとは想像さえできなかった。
まず新入生は、春と秋にある寄宿舎主催のダンスパーティーのチケット
(「ダンパ券」を、新入生は市内の女子大に出向き、売らされた。
1枚2百円くらいだったろうか。
その1ヶ月くらい前、寄宿舎の集会所は、先輩の指導の下、ダンスの講習が行われた。
「ジルバ」「ルンバ」「ワルツ」「ブルース」「マンボ」・・・・。ラジカセから流れる楽曲にあわせ、
先輩と後輩、手に手を取り合って練習する姿は、不・気・味であった。
よれたパジャマ姿で、年季の入ったジャージ姿で、むさい男たちがユラユラ集う。
初めはこっぱずかしかったが、腹を決めやるからには徹底的に習得してやろう。
そう思い、不気味さを乗り越え、僕は一生懸命に先輩の手ほどきを受け、
同級生と女役と男役を交互にし、熱心にステップを踏んだ。
その甲斐があって、ひと通りどのダンスも基本的な技を駆使するレベルにまで、
達することが出来た。

本番はさすがに緊張する・・・。女の子のボイン(古過ぎ)が、妙に気になる。
胸に当たるか当たらないか。ドキドキしながら手を取り合って数分間の時間を共有する。
スリルあり過ぎだ。もうその頃には合コンだ合ハイ(ハイキング)だとあちこちに、女の子の顔見知りはできていた。
けれど、こんな接近戦は、僕の人生でまったくもってありえない初めての体験だった・・・

ダンスパーティー会場は、毎年、お医者さんの会館を借りた。毎年、この日のダンスのために、
選ばれた委員が準備をする。一番大変なのは、ダンス曲を選曲し、録音する係りだ。
ダンス曲は、ロックやニューミュージック、ヒュージョン様々な分野から選曲された。
ブルース、ルンバ、ジルバそれぞれのリズムに合った曲を、偏らないように並び替える。
しかも、多くの寄宿生の好みの曲を散らさねばならない。徹夜の作業が続く。

初めてのダンスパーティーで、初めにツェッペリンの「ロックンロール」がかかった時は、胸が躍った。
「ムーンリバー」や「ブラックマジックウーマン」。ユーミンや山下達郎などもかかった。
ビートルズの「オールマイラビング」そしてストーンズの「ミスユー・」さえも。
目くるめく一夜だった。もう、女の子そっちのけで。

ちあきちゃんの話に戻る。そんな日々を送っていた僕は、いまだ女の子には奥手であったのだ。
ちあきちゃんとはそれっきり話をしていない。Oのグループにすっかり溶け込んで、前後不覚になるまで、
ウィスキーを煽った。もう酒を飲むしかなかった。
Y先輩は、いつの間にかどっかに消えていた。もうY先輩のことなどどうでも良かった。
そこに居た女の子の一人にどうも僕は気に入られたようだった。最初から僕のことを、
シンガーソングライターの××に似てない??などと、しきりに話題に上げたがった。
何がきっかけだったか覚えていないが、その女の子(Sとしておこう)と二人、「ポパイ」を抜け出し、
別の飲み屋で飲みなおしていた。ちあきちゃんに別れを告げることもなく・・・







ちあきちゃんパート3

2007-11-07 22:59:33 | 
ザ・ローリングストーンズ。大学に入って聞き始め夢中で聞いた。
レッドツェッペリンやディープパープルなどのハードロックに多少辟易していた僕にとって、
「温故知新」のような新鮮なロック&ブルースがそこにあった。
寧ろビートルズ派だった僕は、ほぼ初めてストーンズに出会ったといっていい。
その頃は「ポパイ」でリクエストされた「ミス・ユー」を含む「女たち」がヒットチャートを賑わわせていた。

ミス・ユーのメロディーラインに心躍らせ、僕はY先輩とDJボックスに向かった。
別に、あの頃から恋心があったわけではないが、すっかり別人のように変わった
ちあきちゃんに、僕は何をいまさら期待していたのだろうか。
僕よりずーっと大人に見えるちあきちゃんに、見知らぬ大人の世界でも垣間見た
のであろうか。

「こんにちは。こちら僕の先輩のYさん」などと、唐突かつぶっきらぼうに、
先輩を紹介した。先輩はそれを合図に何かをちあきちゃんにしゃべっていたが、
何のことやら、僕は気が動転して、覚えていない。

「良く来てくれたわね。Yさんと今日はゆっくり楽しんでって」
「ああ。わかった」

「仕事大変だな」などと、気の利かないことを言い、席に戻った。
まるっきし女というものの扱いや気持ちがわからなく、僕にとって女は依然として、「謎」であった。
もうこの時点で、後悔の気持ちでいっぱいになっていた。来るんではなかったと。
Y先輩はその間も、なにやら怪しげなアプローチを続けていたが、
体よくあしらわれている感じで、遅れて席に戻ったようだった。

席に僕が戻る帰り際に、ポンと肩を叩いた奴が居た。
「お前、●●じゃあねえか?」
「オレだよ、高校の同級のOだよ」
振り返りそこにいたのは高校3年の時同じクラスのOであった。
彼とは別にそんな仲良しというわけではなかったが、気のいい奴で、
確か同じ市街の医療関係の短大に通っていた。

「お、何してんだこんなとこで・・・」
自分こそ恥知らずにもヨコシマな気持ちでそこに立っているくせに、
こんなとこも無いもんだと思いながら、一方でOの周辺を見回していた。
「大学のコンパでさ。良かったら一杯飲んでけよ」
男3人に女4人くらいだったろうか、和気藹々で楽しそうな雰囲気だった。

半ばやけくそに、「じゃ、一杯だけもらう」と無愛想に席に割り込んだ。
これが運のつき、新たな展開が始まるのであった。





ちあきちゃんパート2

2007-11-06 23:50:54 | 
寄宿舎のY先輩。2つ上で、飲兵衛のくせに哲学的ナルシスト。
飲み出すと手が焼けてしょうがない。けれど、なぜか僕はそのY先輩に気に入られ可愛がられていた。
Y先輩は、どっからちあきちゃんとの一件を知ったのか、今日、その店に行くぞ!
と突然言い出してきかない。僕も、まんざらでもなかったので、渋々を装いつつ、
その「ポパイ」というDJパブに赴く気持ちになった。

女の子は、そんなにも短期間に変わるものかな・・・。何で?
高校の先輩とつき合ったことが契機なのか。その秘密の、証拠のひとかけらでも、
手がかりがつかめれば、それでよかった。恥を忍んでも行く価値があると思った。
けれど、心のどこかで、ちあきちゃんと新しい何かが始まることを期待していたのかも知れない。

地方都市とはいえ県庁所在地であるその街の、特に中心的なその繁華街は、
景気よさそうなおじさんやおばさん、そして同じような年齢の学生や若者で、
とても華やいでいる。けれどもその影に、何かいまひとつ踏み込めない、
踏み込んでしまったら中々帰ってこれないような、見えない怖さを潜めている
ようにまだ若い僕には感じられた。
コンパだ合コンだと、何度かきた空間ではあるが、
いつもそうした臆病風が身の回りに付きまとっていた。

「よーし。行くぞ~」本音ともおどけとも、よくわからないY先輩の叱咤激励。
思い切って、重厚な扉を押して中に入ると、流行のハードロックが大音量で
部屋にあふれ、各テーブルは、比較的若い、同年代の学生と思しき青年たちが、
男女入り乱れて言葉さえ聞き取れないような喧騒がそこにあった。

先輩と席について、バランタインか何かのボトルを入れた。
ちあきちゃんにもらった名刺と一緒に、ボトルの割引券があったためだ。
適当に、ポテトやらチキンやらを頼んだ。

「ちあきちゃんて、どのこだ」
「あそこでしゃべっている女の子か?」

Y先輩の指差すほうを見ると、派手な衣装に、ケバイ化粧の若い女性が、
一生懸命、なにやら流行っているロック歌手の紹介やミュージックシーンについて
の解説を、休むことなくしゃべっている。
受験勉強で、相当視力を退化させた僕には、すぐには彼女と判別がつかなった。
しかし、良く見ると、案の定、ちあきちゃんに間違いないとすぐに確信した。

「そう。あれがちあきちゃん・・・」

Y先輩は、「よし。次の曲がかかったら行くぞ」
「お前、オレのこと紹介しろよ」
その気があったのか、単なる気まぐれか、全然僕にはわからなかったが、
とりあえず僕は、「はい」とそれに応じた。
どうなるんだろう・・・。実は、心臓がとてもドキドキして、手に汗がべとついて、
お絞りで顔を思いっきり拭いた。

そして、次の曲がかかった。
確か、ローリングストーンズの「ミス・ユー」だったと記憶している。







ちあきちゃん

2007-11-05 23:18:22 | 
ちあきちゃんは、中学校の頃、とある地方の都市から転校してきた。
僕のいた学校は、その地方の都市から、さらに地方のそのまたはずれにあった。
交通手段も乏しく、めったなことでは町から出なかった僕たちにとって、それは、
未知なる都会への憧憬とともに、青いレモンにも似た色香を運んできたような、
何か気恥ずかしい出来事のように感じられた。
というと、彼女との間でこれから何か、ただならぬドラマでも始まるのでは?
等と期待する向きもあるかも知れないので、念のために彼女とは、結局、
何も起こらなかったことを、始めに断っておこう。

中学では、ろくに勉強もせず、ひたすらバスケットボールに打ち込んだ。
比較的体の弱かった僕は、この頃から俄然、健康になり、背も伸び筋肉も太く、
逞しくなっていった。
ちあきちゃんは、女子のバスケットボール部に入った。
いつも頼りなげな姿で部活に打ち込んでいる彼女を、横目で見ながら、
僕はと言えば、合いも変わらずシュートやドリブルに打ち込んでいた。

高校進学の季節が来た。僕は地方の進学校へ。彼女は、同じ地方都市の女子高へ。
その地方都市の高校に僕の町から通うためには、毎朝6時に起きて飯を食い、
自転車で猛ダッシュで駅へ向かって汽車(電車ではない)に乗り込まねばならない。
いつも同じ場所の乗降口付近に僕は、高校のある町まで、いつも文庫本を片手に
ガタンゴトン揺られて過ごすのを常としていた。
1回乗り換えて、約1時間くらいの短い旅路。そして彼女はいつからか、
その僕の斜め向かいかその近辺に、心持ち一定の距離を保つように居た。

いつか記す機会もあろうと思うが、高校進学への過程で、中学の頃の悪童らと、
いろいろあって、そういう彼らから一線を画すように、僕は、貝のように、
硬い殻で外界から自分の心を閉ざすようになっていった。そういう頃のことである。
彼女は、僕に何らかの好意を持っていたかもしれない。
けれど、それまで、同じクラスになっていても、まともに口さえきいたことも無い
彼女に、いまさらどうすることもできなかった。
もう高校にもなると、眩しいくらいな、その容姿を、まともに見ることさえ出来ないまま時が過ぎた。
また、そんな自分が更に嫌で嫌でたまらなく、
そんな気持ちを抱かせる彼女の存在が、逆に邪魔にも思えた。

そんなことが2年も続いた頃、ちあきちゃんは、一つ上の同郷の先輩と、
いつも一緒にいるシーンを汽車の中で、道のいきすがら、また、映画館の前で、
見かけるようになった。
そして、彼女は、汽車の中のいつもの定位置から去っていった。

大学に入り夏休みも近づいた頃、突然、大学の地方都市の街中で、
ちあきちゃんにばったり出会った。
すっかり変わっていた彼女にびっくりし度肝を抜かれる思いだった。
『●●君(僕の名前)、ここでDJやってるから飲みに来て』と、名詞を渡された。
そして、『じゃあね』なんて、とても馴れ馴れしく、まるでそれまでの数年間が、
真っ赤なウソだったかのように、ごく自然にそう言って友人らと去っていった。
近くに居た大学の先輩にに、しきりに冷やかされた。
これは行かなきゃ男が廃ると、散々煽られた。

そして、僕も、そんなに変幻する女性の、ちあきちゃんの神秘のベールの中に、
興味が無いでもなく、いずれその「ポパイ」というパブに足を運ぶのであった。










僕のアルバム

2007-11-03 22:57:05 | 
僕の写真アルバムにはある時期の写真が1枚もない。
一番多感で感受性にあふれていたはずのその時期の写真だ。
僕は70年代の後半に地方のとある大学に入学した。
そして僕はその大学を卒業していない。
その時期の写真を僕は持ってはいない。
それもそうだ。ある決意を持って東京に出てくる時に、当時住んでいた宿舎の
構内にあった焼却炉で、5冊ほどにたまった大判のアルバムを、
全部燃やしてしまったからだ。
正確に言えば、1枚だけ残った。1枚だけ今も手元にあるその写真は、
後輩2人と3人で撮った写真。僕が中心にいて3人で微笑んでいる。
思えば数奇な運命をたどったその写真。
実は、アルバムを燃やす傍らに居たヒトに、1枚だけ選んでもらった写真。
そしてその1枚を、たった1枚を、そのヒトに持っていてもらった。
焼かれて灰になるはずだったその写真は、その後10年余り経って僕の手元に戻ってきた。
戻ってきた時には、既に写真に写っている2人の後輩のうちの1人は、この世を去っていたのではあるが・・・
いろいろと悲しい思い出に満ちた1枚の写真である。
ともあれ、今現在、僕の十代後半から二十代後半にかけての写真は、
この1枚しかない。
大判で5冊もあった写真アルバムは、もう僕の遠い記憶の彼方にしかない。