ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

好色ということ

2010-06-27 19:28:54 | 
世に好色でないひとはいるのでしょうか。

これは長年僕をとらえて離さない妄念のひとつです。
聖人君主といえどもなくはない。
もちろん好色といっても十人十色で濃淡も違うのは当然として、
しかし、好色でない者はない。

青春の一時期から強まり、青年となるにつれ抑えきれなくなり、
壮年とともに充実し、老いてなおその火は消えることはない。

好色という性癖は決して表に出して開陳すべきものでもないので、
また日本の文化は羞恥の心が重んじられるため、
みな澄まし顔で素知らぬ風を装うわけですけれど、
誰しもいつもチロチロとその火を絶やすことはない。
生き物である限り本性、本能だからしょうがないのです。


僕もまたなかなかの好色であるのは疑いようもない。
これは自分が言っているのだから間違いはありません。
そしていけないことだとは全然思っていない。

最近の草食系と言われる傾向の若者の一群にもそれは無いはずはない。
そう感じさせないのは社会の問題だと思う。
マスコミや商業的なものは上手にイメージや印象を操作するのが上手だ。
逆に「ラブアゲイン症候群」というのもよくも作ったりという感じ。
若者は草食系、青年期を過ぎた方々は肉食系というわけでしょうか。


好色の強い人、惜しげもなく表現し、行動に移す人、それも〝天才〟だと、
芥川龍之介は「好色」という初期の短編で言っていた。

この「好色」という短編、さっき風呂で読んでました。
だからくどくどこんなことを書いてしまった。

落ちが笑えるのでぜひ読んでみては。

人生は長いか短いか

2010-06-26 19:49:33 | 
中島敦の『山月記』の中に虎となった主人公が今までの自分を恥じて、

  「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、
   何事かを為すには余りに短い」

という箇所があります。

今日の自分は(いや今の自分は)この虎となった主人公に近い気がします。
すなわち「余りに短い」のではなく「余りに長い」という空虚さ。
僅かばかりの才能の空費。卑怯、怠惰…





思へば、全く、己(おれ)は、己の有(も)つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた
譯だ。人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先
ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧
と、刻苦を厭ふ怠惰とが己の凡てだつたのだ。


本書はこのようにもっと辛辣にその姿勢を指弾しています。
分かっていながらなぜやらないのだと!!


ある方からの通信で、今の自分に満足するなという趣旨の励ましの言葉を頂きました。
そうですね、一向に「道」を見つけあぐね彷徨し続ける〝僕〟などみていられないのでしょう…


今日などは酷かった。
暑さと暇とでパチンコホールに逃げ込む始末…
打つこと数時間、「ザ・ピーナッツ」というパチンコ台。
僕の生まれる前に流された映像がたくさん出てきます。
なんとなく古きよき昭和を感じさせるそんな機械に没頭した。

どっかで聞いたことがある。「情熱の花」「恋のフーガ」「ふりむかないで」…
そう、何度もフィーバーし、結果いくばくかの予期せぬ収入も得たわけです。



が、いまこうした気分になっている。


何事かを為す。
僕にはとっても重い言葉です。

有島三兄弟

2010-06-20 21:25:16 | 
明治から昭和にかけて幅広い分野で活躍し、「有島芸術三兄弟」と呼ばれた有島武郎、
有島生馬、里見とん。平成20年から21年にかけこの三兄弟の節目を迎えることから、
ゆかりの有島記念館、川内まごころ文学館、有島生馬記念館と鎌倉文学館が、
共同でテーマを決め開催。同展では、彼らの青春時代を軸に、
日本の近代芸術に大きな足跡を残した有島三兄弟が多彩な資料により紹介されます。

神奈川県鎌倉市 鎌倉文学館
2009年4月25日~7月5日


過ぎ去っていました…
これは痛かった。
横浜の近代文学館でも一度やってくれないかな。




有島武郎「生まれ出る悩み」

高校の時に読み読書感想文を書いた。難解で苦労した思い出が…



情けの自転車操業

2010-05-31 21:52:27 | 
熱い風呂からあがり狭いベランダで汗ばむ肌を乾かす。
この時期にしては少し肌寒い大気がひんやりして気持ちがいい。

遠くに今さっきまでそこにいたビルが見える。
積み木のように小さいビルは浩々と光を放っている。不夜城だ。
数年前に大きなマンションが建ったためにすぐそばに見えていた東京タワーが、
今はこの場所からは見えなくなった。これはとっても残念。

タバコに火をつけながら明滅する夜景を眺めている。
光の数だけ人生がありドラマが繰り広げられるのだろう。
描かれたシナリオの主人公はみなそこにいる一人ひとり。脇役なんていない。


  情けの自転車操業。


こんなおかしな言葉が心に浮かんだ。
自分のこと。

情けをもらい続けないと前に進めない。
まさに〝自転車操業〟と言うわけか。

それで僕は誰かの自転車操業に手を貸しているのか。

借りっぱなしで手を貸すどころではない。
返すことすらままならないのに…。


そうだ。
情けは借りっぱなしでいいのだろう。
その代わり、その人に返さなくても、違う誰かに今度はいっぱい貸してやろう。
もう借りる年齢ではない。くれてやるつもりでいっぱい貸してやれ。
返してもらおうなどと思うな。


お金の話ではなく情けの話です。




僕の行く道

2010-01-26 21:31:52 | 
僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる

何と決然とし力強い詩だろうと長らく愛唱してきました。
それは今も変わる事がありません。


けれどもその道を行く“孤独”につき、
僕はあまりにも考えが及ばず無自覚でいたように思います。

強い意志。
自分への信頼。
そこには自然や“父”という観念を除くと、
明らかに己しかいません。

孤独をそれとして受け入れ、
それでも道を切り開くのだという、
彼の本源的な強さに今更ながら驚かされます。

孤独を自覚しても空虚にならない。
むしろ人生に立ち向かおうとする野生。
僕に足りないものを感じます。

人はその時まで生きていかねばなりません。
明らかです。
裸で埋まれやがて裸で土に還ります。

あまりに当たり前で、であるが故に、
いつの間にか忘れてしまっている真理ていうものがあります。

そう言うことを全て体にとりこんで、
前を向いて生きていけたらいいと思います。


あらたなつながりをもとめて

2010-01-24 18:20:31 | 
本当に珍しい事なのだが、昼に実家に電話をした。
「なんか食いたいものでもないか」
それだけ聞きたかった。
なにか田舎に住む老夫婦が無性に可哀相に思えてきた。
申し訳ない。
潜在意識にずっとあった。
故意に打ち消し続けてきた感情。


電話に出た母は、「本家」の親父がまた入院したことや、
少し離れたとこに住む母の妹の近所で今年に亡くなった人がいつもより多いとか、
正月以来雪が降らずに助かっているとか、
そんな話をここぞとばかりに聞かされた。

次に親父が出て温泉に行きたいという話をされた。
お金出すから生きてるうちに夫婦でいい温泉にいってきたらい。
1泊7千円なんてみみっちい事いわないでいっそ2万円くらいのとこ行ってきなよ。
そう言った。



里心では決してないと思う。
「後ろめたさ」かも知れない。ずっと隠してきた。

いずれどうしようもない現実がやってくる。
順番は決まっていて、順番どおりに人は現世から消えていく。

ずっと曖昧にしてきたこと。
家族に限らずなるべく心の奥底で断ち切っていた繋がりの糸達を、
もう一度、浮かび上がらせようとしているよう。

逃れ様のない人と人との「絆」を今僕は再び可視化しようとしている。
家族、父母、兄妹、親類そのまわりの人々。
特にルーツに関わる紐を。


そうして僕は目黒どおり沿いにある、老舗の揚げ饅頭屋に足を運び、
いちばん高価な揚げ饅頭の詰め合せを送った。
実家には明日の夕方に着く。
そうでもしないと気が済まなかった。

わかっている。
こんな饅頭を食べたいわけでないことぐらい。
でも今日、今の今、僕にできる事はこれくらいしかない。

免罪符ではない。
長らく閉ざしてきたこころを真剣に開きつつある。
今度ばかりは本気だろう。
多分。

美人薄命

2010-01-21 21:56:35 | 
美人薄命。

人も企業も同じ。

いっ時いいからと言ってずっといいとは限らない。
美人は薄明かもしれない。

華やかで見栄えのいいとこ。
それより30年も40年も頑張ってきたとこのほうが価値がある。

見せかけに騙されるな。

ということですね。

人とは違い企業はなおさらそういう要素が強いと思います。
そう考えるとうちの会社は「美人薄命」かもしれません。


けれどこんな企業でも〝長命〟できるよう頑張っているのですけれど。
〝美人〟に見えた時期もありますが、今はそうかどうか疑問があります。

結局〝美人〟かどうかは本質的な問題ではないんです。
会社も人もそうだと思います。

もっと本質的なこと。
「信用」とか「好き」とか「誰と」とかそんな本源的なこと。


「価値」とはきれいごとではないんですね。
人と人とのつながりが価値を生む。
つながりがうまくいかないと価値どころかマイナスばっか。

そんなことをつくずく感じました。


今日は、会社を辞めたある人の送別会でした。
20人もの人が集まりました。
僕も参加しました。

みんないい会社にしたいと思っているのに、
そうならない現実。
人と人との考え方の違い。
思いは一緒なのに、とっても残念に思います。



ああ、こんなお話し

2010-01-20 21:20:04 | 
「お前はいつも何を考えて生きてるんだ?」

「何をと言われても、、」

「まるで“精気”がない。
それじゃ何のために生まれてきたかわからんじゃないか」

「そこまで言う・・・」

「いや、お前の将来のために言ってる」
「仕事で画期的な成果をあげろとは言わん。
が、しかし女でもギャンブルでもいい。
何かしら一心不乱に打ち込める対象を見つけろよ」

「先輩、僕の何がわかるって言うんですか。
言うに事欠いて女だ博打だなんて。
そんなんだったらまるで僕は生きる屍みたいなもんじゃないですか」

「そう、よくぞ言った。お前さんはまさにその“屍”だ。ゾンビだ。
いや今のまま行ったら間違いなくそうなる」

「余計なお世話です・・・」

「そういう態度がいけない。もっと人の言うことに耳を傾けろ。
謙虚になれ。みなお前の事を心配して言っているんだ」
「まだ脈がある。お前はもっとできる奴だとみこんでいるから苦言を言っている。
それが何でわからんのだ」

「それで僕にどうしろと」

「どうもこうもない。それにどうするかなんて人に教わるもんでもなかろう。
生きてるっていう“迫力”を出せということだ。
仕事云々の前にきちんと生きろ。俺が言いたいのはそう言う事だ」

「先輩、熱いですね。その情熱はどっからくるんですか?
僕からすると先輩も僕も本質的には大差ないとおもえるんですけど・・・」

「失敬な奴だな。俺はお前と違って守るべきものがある。
そのために精一杯生きてる。
残念ながら今のお前とはおお違いだ」

「仕事ですか?家族ですか?それとも恋人?
先輩、他になんか趣味とか取り柄ありましたっけ」

「またまた失敬な奴だな。
そのすべてだよ。女も家族も仕事もギャンブルも。
そういうことに没頭することで生きてると実感できる」

「単純なんですね。結局、自分というのがどこにも出てこない」
「僕と同じように空虚なんですね」

「・・・。痛いとこつくな」


「僕」と「先輩」。
本当の僕はどっちでしょうか?












答  どっちも僕です。

(帰りの電車のなかで考えたつまらないフィクションなのですが)



僕という物質

2010-01-12 07:18:47 | 
僕は物質に過ぎない。

無限宇宙の塵芥からある偶然によって
ここに存在している塊だ。
高度な脳細胞を持つにいたった人間は
考えること感じることができるようになった。
厄介はそこから始まった。

動物としてただ子孫を残すことだけに能力を集中する。
考える必要はない。
ただ本能や衝動の趣くままに生きておればいい。


それさえも放棄したなら単なる物と化す。


だれしも最後は炭素や水素に分解され宇宙に戻る。
地球という「奇跡の星」も宇宙の一部だ。

そういう単なる物に過ぎないことを自覚して、
「物の境地」で生きる。
これならいらざる苦悩から不安から争いから自由になれる。


無味乾燥。
諸行無常。
人間失格。



そんな生き方も現実にはできない。

結局、
「いい加減に生きる」、
すべてを自覚した上で、
そんな生き方が「正解」なのかな・・・

わからない。

パワースポット

2010-01-09 23:29:21 | 



毎朝最寄りの駅まで15分くらい歩きます。
その時々の気分で何通りかの経路があります。
また、晴れた時雨の時風の強い時、急いでいる時時間に余裕のある時、
郵便物を投函するため、クリーニングを頼むため、
その時々のシチュエーションでも経路を選んだりします。

ところが昨年の後半あたりからできる限り「ここを通ろう」と決めている場所があります。
ほぼ朝は毎日〝ここ〟を通ります。

何のことはない住宅地にある何の変哲もない小道です。
ここを通るとなにか力が湧きあがります。
正確には小道と小道が交わる十字路です。

南に向かって僕は歩きます。その十字路に出ると左手に今ならばあさぼらけの太陽が出てます。
向かって左側の角は駐車場になっています。右手はアパートが続きます。
十字路に立ち僕はしばらく東側の青空に向け大きく背伸びをします。
すると台地から僕の体になにか自然のパワーがみなぎるような感じがします。
大きく深呼吸をすると体内に自然のエネルギーが取り込まれるようでぞくぞくします。

通る時間はだいたい朝の7時10~20分。
少しは通勤の勤め人や近所の人を見かけてもおかしくはないと思うのですが、
その時間、ついぞ人影をみかけません。いつも僕一人。
だから瞬間、その場所は僕の独占空間となります。
一日の活動のためのよき気を充填するためのほんのちょっとの時間。
今は人知を超えたそんな〝儀式〟を毎度毎度やってから駅に向かっています。


そういう場所ってあるんだなぁ…と実感しています。
別に霊的なものではないと思います。
何でしょう、科学的に調べれば磁界とか何かの物理的な要因はあるのかもしれません。
けれど結果、それで元気になれるのであればいい。
単なる僕の思い込みに過ぎなくても、一日の生活にプラスになると思えばそれを信じてこれからも力をもらおう。

本当はその小さな十字路で東の空に向かいラジオ体操でもしたいくらいなのですが、
普通の住宅も連なっており不審に思われてもしょうがないのでしません。


土地って不思議です。
街でもここに店を出したら絶対成功しない。現に次から次と店舗が変わる場所もあります。
また(これは多少霊的かもしれませんが…)この場所はさっさと離れようと感じる場所もあります。

土の上のものを全部取り除けば区別ないだだっ広いただの大地なのに、
建物や人そこに根付いた文化などと結び付くとなんらかの力を持つのでしょうか。

何しろ自分にプラスになるならどんなもんでも利用しない手はないですね。



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菅さんの発言にびっくり仰天!!!!

2010-01-07 22:16:28 | 
  


藤井財務大臣の辞任にもびっくりしましたが、
それを引き継ぐ菅副総理の発言にもびっくりしたなぁ~もぉ~…


「霞が関を変えていく」
「政治主導の徹底」
「特別会計の見直し」
「消費税より無駄の見直し」

ここまではよかったのですが、

「為替は90円台の半ばがいい」 
これを言っちゃだめですよぉ~

相場の水準に言及する時はそれなりの覚悟が必要ですし、
財務大臣がうっかり発言で言及してはいけませんよ~~

外国為替市場のドル円相場は一瞬にして60銭もドル高円安になりました…


マーケットというものを理解していない人が多いですよ民主党のお歴々は…

ま、どうでもいいですけど。。。。


菅さん、僕はそんな嫌いではないので頑張ってくださいね


そうそう、ミィーティングにて久々のスピーチがまわってきました。
ネタがなかったものですから実家の大晦日の初詣の風景を話しました。
ドカドカと雪が降り続く中、元旦午前零時に一番に鈴を鳴らしお賽銭を投げて柏手打った情景。
ドカ雪の年はコメが豊作になると言われております。
昨年の会社の状況はまさに「ドカ雪」状態でした。
だから今年は会社も豊作になるだろうというこじつけを申しました。
無理がある理屈ですね…


そんな一日でした 



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虎千里を走る

2010-01-05 19:57:28 | 
今年は寅年でしたね。

毎年年明けの発会において今年の年男年女が挨拶をする習慣があります。
今年はありませんでした。
なぜかと調べたら今年は年女しかいないそう。
そっか?!
これも例の「セクハラ」・・・
なんとなく合点が行きました。

女性に年齢を言わせるようなもの。
タブーですよね。
逆算すればわかります。
12、24、36、48、、、

毎年それがあり改めて干支を認識していたのが、
なにげになかったためか印象が薄いというか・・

ま、いいか。

虎は千里を走るといいます。
そんな元気と迫力のある年になるといいです。
来年の兎は「兎跳ねる」と言われます。

走って跳ねる。
ホップステップジャンプ。あれ?一回足りない・・
再来年の竜になるのかなジャンプは。

それでも暗くじめじめするよりは牛から虎にバトンが渡って
明るく前向きなご時世になるならまだそののほうがいいですね。

まずは虎に希望を託しましょうか。
(他力本願)

こんな雪の中のクリスマス

2009-12-12 09:46:47 | 



こんな雪の降り積もる森の中で静かに光を放つクリスマスツリーをみながらクリスマスを過ごせたら幸せだろうな。。。。


近くのロッジには暖かい暖炉の火があります…。

そして傍らには、、、



炬燵で二度寝しながら、、、、「妄想」してます 






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子供は風の子

2009-12-02 12:30:44 | 


天気も良いことだし久しぶりに外に出ました。

昼食後、アークヒルズ近辺を散策しました。
写真はサントリー美術館のあたり。
植物で飾った大きな竜の造形物のまわりで、
子供たちが元気に遊んでいます。

子供は風の子

今ではこれも“死語”になりつつあります。
東京では明らかに・・・
何しろお母さんが許しません。
風邪だ、インフルだ、交通事故だ、誘拐だと。
確かに危険はつきものなので都会では尚更に注意は必要です。
けれども「過保護」はいただけませんね。

ちいさな“危険”なら多少のことは目をつむり、
好きにやらせておけばいい。
子供はその中から生きるための知恵をいっぱい学ぶはずです。
いうはやすしかもしれませんが、
その方が子供のためです。
ここで遊んでいる子供たちを遠くから親御さんたちが見守っていることでしょう。
せめてその程度に抑えておくのがいいと思います。

将来の日本のためにも子供らを「無菌状態」にしてはいけないです。

みな強い人になってもらいたい。

人のことはいえませんが、そう思いました。
強さって生きるためには必要ですから。