NHKで「新美南吉」の特集番組を見た。「手袋を買いに」「ごん狐」など子供の頃に皆一度は彼の作品に触れたはず。
新美南吉が死の3カ月前に書いた作品が紹介された。浅野温子が朗読していた。
連れだって祭りに出かける田舎の子供たちの心にしのびよる「きつねつき」の疑心暗鬼を描きつつ、母と子の愛情を細やかに語る童話だ。
南吉童話の最高傑作といわれている。
狐
新美南吉
六
お父さんが樽屋さんの組合へいつて、今晩はまだ帰らないので、文六ちゃんとお母さんはさきに寝(やす)むことになりました。
文六ちゃんは初等科三年生なのにまだお母さんといっしょに寝るのです。ひとり子ですからしかたないのです。
「さあ、お祭の話を、母ちゃんにきかしておくれ」
とお母さんは、文六ちゃんのねまきのえりを合わせてやりながらいいました。
文六ちゃんは、学校から帰れば学校のことを、町にゆけば町のことを、映画を見てくれば映画のことをお母さんにきかれるのです。文六ちゃんは話が下手(へた)ですから、ちぎれちぎれに話をします。それでもお母さんは、とても面白がって、よろこんで文六ちゃんの話をきいてくれるのでした。
「神子(みこ)さんね、あれよく見たら、お多福湯のトネ子だったよ」
と文六ちゃんは話しました。
お母さんは、そうかい、といって、面白そうに笑って、
「それから、もう誰が出たかわからなかったかい」
とききました。
文六ちゃんはおもいだそうとするように、眼を大きく見ひらいて、じっとしていましたが、やがて、祭の話はやめて、こんなことをいいだしました。
「母ちゃん、夜、新しい下駄おろすと、狐につかれる?」
お母さんは、文六ちゃんが何をいい出したかと思って、しばらく、あっけにとられて文六ちゃんの顔を見ていましたが、今晩、文六ちゃんの身の上に、おおよそどんなことが起ったか、けんとうがつきました。
「誰がそんなことをいった?」
文六ちゃんはむきになって、じぶんのさきの問いをくりかえしました。
「ほんと?」
「嘘(うそ)だよ、そんなこと。昔の人がそんなことをいっただけだよ」
「嘘だね?」
「嘘だとも」
「きっとだね」
「きっと」
しばらく文六ちゃんは黙っていました。黙っている間に、大きい眼玉が二度ぐるりぐるりとまわりました。それからいいました。
「もし、ほんとだったらどうする?」
「どうするって、何を?」
とお母さんがききかえしました。
「もし、僕が、ほんとに狐になっちゃったらどうする?」
お母さんは、しんからおかしいように笑いだしました。
「ね、ね、ね」
と文六ちゃんは、ちょっとてれくさいような顔をして、お母さんの胸を両手でぐんぐん押しました。
「そうさね」と、お母さんはちょっと考えていてからいいました。「そしたら、もう、家におくわけにゃいかないね」
文六ちゃんは、それをきくと、さびしい顔つきをしました。
「そしたら、どこへゆく?」
「鴉根山(からすねやま)の方にゆけば、今でも狐がいるそうだから、そっちへゆくさ」
「母ちゃんや父ちゃんはどうする?」
するとお母さんは、大人(おとな)が子供をからかうときにするように、たいへんまじめな顔で、しかつべらしく、
「父ちゃんと母ちゃんは相談をしてね、かあいい文六が、狐になってしまったから、わしたちもこの世に何のたのしみもなくなってしまったで、人間をやめて、狐になることにきめますよ」
「父ちゃんも母ちゃんも狐になる?」
「そう、二人で、明日(あした)の晩げに下駄屋さんから新しい下駄を買って来て、いっしょに狐になるね。そうして、文六ちゃんの狐をつれて鴉根の方へゆきましょう」
文六ちゃんは大きい眼をかがやかせて、
「鴉根って、西の方?」
「成岩(なるわ)から西南の方の山だよ」
「深い山?」
「松の木が生(は)えているところだよ」
「猟師はいない?」
「猟師って鉄砲打ちのことかい? 山の中だからいるかも知れんね」
「猟師が撃ちに来たら、母ちゃんどうしよう?」
「深い洞穴(ほらあな)の中にはいって三人で小さくなっていれば見つからないよ」
「でも、雪が降ると餌(えさ)がなくなるでしょう。餌を拾いに出たとき猟師の犬に見つかったらどうしよう」
「そしたら、いっしょうけんめい走って逃げましょう」
「でも、父ちゃんや母ちゃんは速いでいいけど、僕は子供の狐だもん、おくれてしまうもん」
「父ちゃんと母ちゃんが両方から手をひっぱってあげるよ」
「そんなことをしてるうちに、犬がすぐうしろに来たら?」
お母さんはちょっと黙っていました。それから、ゆっくりいいました。もうしんからまじめな声でした。
「そしたら、母ちゃんは、びっこをひいてゆっくりいきましょう」
「どうして?」
「犬は母ちゃんに噛(か)みつくでしょう、そのうちに猟師が来て、母ちゃんをしばってゆくでしょう。その間に、坊やとお父ちゃんは逃げてしまうのだよ」
文六ちゃんはびっくりしてお母さんの顔をまじまじと見ました。
「いやだよ、母ちゃん、そんなこと。そいじゃ、母ちゃんがなしになってしまうじゃないか」
「でも、そうするよりしようがないよ、母ちゃんはびっこをひきひきゆっくりゆくよ」
「いやだったら、母ちゃん。母ちゃんがなくなるじゃないか」
「でもそうするよりしようがないよ、母ちゃんは、びっこをひきひきゆっくりゆっくり……」
「いやだったら、いやだったら、いやだったら!」
文六ちゃんはわめきたてながら、お母さんの胸にしがみつきました。涙がどっと流れて来ました。
お母さんも、ねまきのそででこっそり眼のふちをふきました、そして文六ちゃんがはねとばした、小さい枕(まくら)を拾って、あたまの下にあてがってやりました。