ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

今年はこれで。良いお年を。

2007-12-29 08:28:16 | 
今年はこれでお仕舞いにしたいと思います。
こんなみっともない「告白記」にお付き合いいただいている皆様、
今年は本当に有難うございました。良いお年をお迎えください。

あの頃から今年で20年も過ぎて、こうして「のうのうと」生きている僕ですが、
今も別の意味で様々な苦労を抱えています。
人間の苦労というか苦悩は尽きることがありません。
けれども、希望や夢を持って前向きに生きる姿勢は来年も、そしてこれからも、
貫いていきたいと思います。

また、僕の周りの人たちも、できれば一緒に同じ希望や夢に向かってがんばれるようになれると素敵なことだと思います。

体が健康なことは精神が健康なことの礎です。
当たり前のことですが、この健康を維持することは加齢と共に簡単ではなくなります。体を鍛える努力をしましょう。何もそんな大袈裟なことではない。
ジョギングやちょっとした工夫を日常の中に組み込めればいい。
無理をしないこと、簡単なことと自分に思い込ませること、習慣にすること。
僕も週に一度はランニングをしなまった体に喝を入れています。それだけでもだいぶ違う。
来年こそ病気をぶっ飛ばし、健康第一で行きましょう。
そして健全な心を宿しましょう。

しかし、しんどい一年でした。
来年は更に過激な仕事が待っていそうだ。

ブログですが、読み返せば意外に「下ネタ」が多い。
けれど人の一生の半分以上は下ネタにおおわれているのだろうから仕方がないね。
描こうと思えばふれざるを得ないもの・・・ 聖人君主など存在しないのである。
これからも「自然体」でいきたいと思う。


皆さんも是非、この年末年始、家族や恋人と鋭気を養ってください。

それではよいお年を。

本題に

2007-12-28 23:06:00 | 
本題に帰ろう。

僕がキャンパスで一番いきいきとしていた頃、クラスには出向かなかったが、キャンパス棟の後方の丘陵沿いにあったサークル棟をいわば“根城”にしていた。

サークル棟は、木造平屋建てでL字型に広がっていた。棟の前後に部屋が仕切られ部屋数は100ほどあって様々なサークルがひしめいていた。
そのうちの7~8サークルに在籍し、部屋を好きに使っていた。
また、サークルの自治協議組織であるサークル連合会にも加わったことがあった。

この大学のサークル棟は、その昔このあたりが米軍の施設だった頃、馬や牛の飼育小屋だったものをそのままサークル部室に改造して現在に至っていた。その当時でもう20年以上も経ち、木造の窓の隙間からぴゅーぴゅー風が吹きすさぶ劣悪極まりない環境だった。冬はダルマストーブにコークスを焚いて活動することになるが、雪の多いこの地方の寒さは想像以上に厳しいものでまともなサークル活動などできようはずも無かった。
故に、このおんぼろサークル棟の立替を巡り、大学側と丁々発止の交渉を続けた。学長との団体交渉なども要求し、あるときは実力行使も辞さずに大学側とやりあったこともある。

僕の属していたサークルとは、文芸系、社会科学系、環境問題系、音楽系(なぜか“マンドリン”)、そしてお遊び系の各サークルだったが、サークルのそもそもの活動目的を大きく外れ、好き勝手なことばかりしていた。授業を受けるためのキャンパス棟には、クラス討論かチラシ配りのために赴くだけだった。
またキャンパスのど真ん中に大工道具と木材、ベニア板、模造紙、洗たくのり等を持ち出し、仲間と共に立て看板作りに熱中した。
タテ2.7m×ヨコ1.8mの看板を多い時で10枚ほど並べて、宣伝スローガンを「ゲバ文字」で大書した。時には、絵も描いた。絵は僕の担当だったが、岡本太郎バリに、“芸術”が“爆発”するような筆致で、これでもかというような大作を描いた。仲間の評判はすこぶる良かったが、そんな看板作りは多くの学生にとって迷惑千万だったに違いない。

サークル部室は、僕ばかりか仲間のみんなが好き勝手に使っていた。下宿に帰らず住み込む者もいれば、「連れ込み旅館」代わりに使う者もある。
こんな場所でいったいどうやってやったんだと聞くと、そいつも相手の女性もどんなに気持ちが良くても声を出さず、激しく動くこともなく、さっさとやったんだと言う。まるで「からすの行水」のごとく。それもそうだ。そんな木造の隙間だらけの部屋であれば、うかつに声を上げれば隣近所のサークルに一発でばれてしまうし、振動で部屋を揺らせばやはり近隣から「ドンドン」と壁をどつかれる。貧乏長屋と同じだ。だから僕はその「神業」にしきりと感心したものだ。
けれど、そんな落ち着かないところでの行為により、いったい何が満たされるのか。さっぱりわからないので僕は、御免こうむった口である。まだ同じボロでも寄宿舎の方がマシだと思った。

サークル内で知らないうちにそんな関係になる男女も多かった。僕にもそういう機会は無いでもなかったが、残念ながら深みにはまることは無かった。それはサークル「あすなろ」においても然り。SEXを娯楽やスポーツと割り切ってやることには抵抗があった。今思えば「もったいない」場面がいくつもあり、多少後悔している。無念(笑) いまはすっかり「汚れ」ちまって抵抗も無いのだが、なにしろ相手がいない(苦笑) 「汚れちまった悲しみに・・・」か。


ともあれ、この頃の僕らはまさにキャンパスの「帝王」きどりだった。阿呆だったね。


てなことをしているうち、ひょいと彼女に出会うことになる。


だらだらと 2

2007-12-27 23:34:47 | 
人間の欲は生きていくための必要悪と悟りきった。だが人間の権力欲だけはどうにもいらだつ。

上に立つものは自ずと立つものだ。いくら権謀術策を労したとて成れの果ては知れているのに、どんな汚い手を使っても立ちたがる。
特にそういう輩は弱いものいじめを徹底してやる。
また、ちと知恵モノだと陰湿な心理戦を駆使する。
どんな小さな縄張りでも他を寄せ付けず、お山の大将でいたがる。
やがて妄想が高じて分不相応な一国一城の主を夢想するようになるのだ。

上に立つものは自ずと立つ。何度も繰り返そう。そういうものだ。

僕の場合、可笑しくなるくらい権力欲というものが無い。権力とは権利であるから反対に義務も生ずる。決してそうした義務を忌避したいからではない。
権力なぞ昔から大嫌いであったし、なにしろそんな器でないことは自分で百も承知である。

たとえ権力者になったとしても権力下にある一人ひとりの面倒を須らく見切ることなど到底不可能だと思っている。
僕は、昔から一度思い込むと人に対する思い入れがひたすら強くなる傾向がある。だから対象には限度があり、限度を超えれば自分がもたなくなるだろう。
面倒を見れもしないくせに、多くの人間の人生を背負うのは自分の真に対する冒涜であると思う。僕にはそういう器しかないので仕方が無い。

そんな大きな器を持つものは世の中そう多くはいない。なのに無理強いして権力を取ろうというのは、悲劇であり喜劇でもある。それどころかはた迷惑だし、何よりみっともないのである。

・・・・ 僕はいったい何を愚痴っているのか。何か嫌なことでもあったんだなきっと・・・。

ところで、思い入れが強いのは何も人に対してばかりではない。
ブログでさえ最近は更に熱が入っている。もうブログも5世代を数えている。
テーマは毎回違うのだが、今回のテーマはいったいいつまで続くだろうか。
嵌りすぎてにっちもさっちも行かなくなるのがこちらの「成れの果て」だ。
ほどほどにしないといけないな・・・。

人に対してもずっとさりげない「壁」を作ってきた。どんなにその人のことを案じたり助けたいと思っていても、結局その人に僕はなれない。限界に気づいたときの落胆が酷い。だからめったなことで僕は胸襟を開かなくなった。

人生を総括する年代になり、それではいけないなと少し思い始めている。
(自分も含め)多くの人間の欲も許せるようになったし、ゆっくりと胸元を開けていこうか。

ただし、権力欲は除外だ。






だらだらと

2007-12-26 22:54:36 | 
文学とは女への妄執である。
女にとっては男への妄執である。

良いではないか。それが人間らしさではないか。
文字によって表現せずにおれないほどに、湧きいずる情念。押さえ切れない激情。
そういう人間の本性を描くことが文学者の宿命だ。一人の人間に過ぎないのに彼らは、身を削りただただ自分の中の獣を表現せずにはおれない・・・

静かに綴られる文字と文脈の奥底に、マグマのように熱くどろどろした「ばけもの」を書ききれる文学者こそ、真の芸術家だろう。


そんな文学者との交友を描いた「奇縁まんだら」を描く瀬戸内寂聴もそのうちの一人だ。
土曜日の日経新聞朝刊に連載されている彼女の作品を僕は毎週心待ちにしている。


今東光、松本清張、里見、岡本太郎、水上勉、三島由紀夫、佐藤春夫、谷崎潤一郎、宇野千代、円地文子、平林たいこ・・みな怪物である。不倫、横恋慕何するものぞ、好きに生き、それを芸術に昇華させた化け物たちである。
文学も凄いが性の遍歴も凄そう・・・
かなり遅れて文壇にデビューした瀬戸内晴美(寂聴)が、それら文壇の大御所と出会い交流した当時の裏話を克明に記しているから楽しい。連載はまだ続いている。

いずれ文庫本になるだろうから、その時は真っ先に購入しよう。


例えば「三島由紀夫と始めた文通」という寂聴が三島と文通していた時の話。
太宰治と森鴎外の墓がある禅林寺のお墓の情景を報告したら、三島からこんな返事が返ってきたという。

「私は鴎外先生を非常に尊敬しています。太宰はきらいです。
 お詣りする時は、太宰のお墓にお尻を向け、鴎外先生にはお花を
 奉って下さい。」



三島由紀夫はそうとう太宰治が嫌いだったんですね。
とてもわかる気がします。




クリスマスセレナーデ

2007-12-25 23:34:41 | 
今日はクリスマス忘年会があった。

多人数で鍋料理、飲み放題というお決まりのコース。
若い人が多く、もう以前みたいに騒げない。多少、血は騒ぐのだが最近はマイペースを心得、自重している。つまらない「大人」になったもんだと自嘲しながら。
明日のことを考えると余程のことが無い限りほどほどにしている。寄る年波にはやはり勝てないか・・・

ただだらだらと2時間くらい飲んで騒ぐというのではなく、今回は、主催者に優れものがいていろいろと楽しませてもらった。
本当にご苦労様でした。

お決まりの「ビンゴゲーム」では賞品をいただいた。
もう一つ、「自己紹介ゲーム」というのがあって、くじを引くと「指令」が記されておりそれをマイクで自分が読み上げる。更に「黒ヒゲ危機一髪」で大当たりするとその指令を実行せねばならないという二重に趣向が凝らされたゲームである。

指令はお偉いさんをネタにした内容が多く、「●●さんとツーショット写真」「▲▲さんの(はげ)頭をなでる」「■■さんの耳元でアイラブユーと囁く」とか、よくまあいろいろ考えるもんだと感心する。
その中に、僕とダンスを踊るというのもあって、それを引いた女の子がみごとに危機一髪を大当たりさせてしまった!?
勿論、僕は潔くお白砂に出た。そしてみんなの手拍子の中でダンスを踊った・・・

学生の頃「ダンパ」のために鍛錬した技を体が多少覚えてくれていたようだった。
相手の女の子もたしなみがあるようで、妙に息があって「絶妙な」踊りを二人で開陳した。
ほんの1分足らずの余興であったが、とても楽しませてもらった。
ありがとう。

これが今年のクリスマスのグランドフィナーレである。

クリスマスプレゼント

2007-12-24 23:34:15 | 
クリスマスでもらったプレゼント。子供の頃は婆さんから小さなバケツに入ったお菓子。大学ではサークルの女の子からお風呂で使うキャラクター石鹸入れとか面白灰皿等々。彼女からは、なぜか国語辞典と英和辞書。そしてそれ以降は、お決まりのネクタイ、Yシャツとか下着とか。基本的にたいしたプレゼントをもらったことは無い。

もともと僕は不思議と「物欲」というものが無い。時計やアクセサリー、かばんや万年筆など、男でも結構こだわる奴はいる。けれども僕はモノを欲しいとは思わない。
「何が欲しいの?」と聞かれても、いつも答えようがなくて困る。
くれるのなら有り難く何でももらうけれど、その後の扱いに困惑するのである。
だからあれが欲しいこれが欲しいとせがむことがなく、ある意味とても安上がりにできている。

そんな僕にも欲しいプレゼントが無いわけではない。というか喉から手が出そうなほど欲しいのがある。
「HUNTER×HUNTER」の25巻(まだ発売されていない)。 これである。
冨樫義博が少年ジャンプに連載している漫画である。
僕は少年ジャンプを週刊で読んでいる訳ではない。これぞという作品をつい「大人買い」してしまう癖があり、いつぞやうっかり大人買いしてしまった。
漫画は元々嫌いではないし、現に若い頃は手塚治虫、石ノ森章太郎、永井豪、横山光輝、白戸三平、弘兼憲史などの作品を貪るように読んだ。
しかしある時期から、続く作家の作品の不甲斐なさに落胆し読むのをぱったりやめてしまった。モチーフ、ストーリー、画質のあまりの稚拙さ故に・・・。物理的にも読む時間が無かったこともあった。

最近、新刊本になった作品の中に凄いのがあることを知った。
冨樫義博の作品がそうであったし、他にも「DEATH NOTE」「蟲師」「花田少年史」「ぼくらの」・・・。凄い奴らが密かに登場していたのだ。
全巻その場で大人買いした。

中でも「HUNTER×HUNTER」は秀逸である。冨樫の構想力や才能に脱帽する。
けれど彼は23巻を最後に今年から作品を書くのを休止していた。いろいろ事情のあってのことだろう。
そして突然、10月に24巻が発売され少年ジャンプに連載を再開した!
24巻を書店で見つけ、狂喜乱舞した!(いつもランニングの帰りに最寄の書店に顔を出しているので知った)。
ただ、彼は今回ジャンプに10回だけ掲載しまた筆を置くという噂がある。やめてくれ。頼むから今の話を完結し、決着させてからにしてくれ。
がんばって連載を続け新刊本として発売してくれ。頼む・・・。

てな訳で、何が何でも25巻が欲しい。今のままだと「蛇の生殺し」。

こればかりはクリスマスプレゼントに欲しいと誰におねだりしてもどうにもならない。悲しいかなそんな類のプレゼントが今は欲しい・・・。



クリスマスカード

2007-12-24 10:43:15 | 
東京に一度別れを告げたのも丁度この季節だった。

苦しい1年間がようやく終わろうとしていた。
地元に置いて来た学生の彼女が不憫でたまらなくなっていた。
毎週欠かさず彼女に手紙を書いた。いつも僕のかばんにはボールペンと便箋しか入っていない。機会があるごとに僕は、喫茶店に入りペンを走らせた。
その手紙は、読んだら必ず細かく裁断して捨てるように彼女に言ってあった。
彼女から僕のところへ返信も毎週のようにあった。同じように僕も読むと処分した。何度も何度も読み返し、そこに記されている全てを頭の中に刻み込んだ。きっと彼女もそうしているだろうと思っていた。
そして2ヶ月に1度くらい逢うことができた。湧き立つ様な熱い抱擁があった。

最後の手紙はクリスマスカードであった。
「東京から戻る」そんな簡単なメッセージだった。


美化された人間という偶像に何がしかを期待し、自己犠牲さえも厭わず、ただひたむきに身を磨り減らす己の滑稽さに、もう我慢がならなくなっていた。
仮に僕が、多くの人たちのために「屍」となり、次の世界への橋渡しになろうと、悲壮な働きをしたとて、次に続く「新しい世界」なぞ、多分こないだろうと思った。
そのことを短い東京の生活は、僕に実感させてくれた。「大衆」というカオスは所詮カオスに過ぎない。僕には、もっと大切なものがあることを確信するに至った。

東京はクリスマスで賑っていた。これが終わり師走に向かう頃、僕は東京を去った。もう、東京に来ることもないと思っていた。
これからどうしようか。先のことはさっぱり見えなかった。
けれども彼女がいる。そのことがその頃の僕の心の支えであったかも知れない。
死ぬ気で生きればなんとでもなるさ。
男ではなく「女」の存在の大切さを、改めて知った。

まだ僕は26才だった。そんな青二才のくせに、余計な苦労をいっぱい経験したもんだと振り返って思う。
すべて現在の肥やしになっているのだろうか。その割りに懲りないのは、宿命というものだろう。運命は変えられるが宿命だけは永遠に続くという。



メリークリスマス

2007-12-24 01:57:24 | 
ランス(フランス・・シャンパーニュ地方)のノートルダム寺院のステンドグラス。シャガールの作品です。

まずはメリークリスマス!

ハッピークリスマス 3

2007-12-23 19:35:16 | 
午前中は小雨が降りぐずついていたが、午後になるとさっぱりと晴れ渡ったので定例のマラソンに出かけた。風は冷たい。10分も走ると体はぽかぽかしてくる。
本日のコース。祐天寺→三宿(世田谷公園)→池尻大橋→代官山(西郷山公園)→中目黒→・・・
街はどこへ行ってもクリスマス一色だ。

僕は、いわゆる代官山と呼ばれる地域の中でも、旧山手通りの道沿いの雰囲気がとても好きである。
ここは道幅が広く、道路の両端に素敵なお店が立ち並ぶさわやかな通りだ。車の往来が比較的少ないのもいい。
そしてこの通りの近辺にはなぜか大使館が多い。
マレーシア大使館、ギニア大使館、セネガル大使館、エジプト大使館、デンマーク大使館。この多さは西麻布にも匹敵する。
また、立派な教会も多く今日は明日のクリスマスイブの準備で大童という感じだった。だから通りすがりに出会う人は日本人以外の人も多く独特の雰囲気を醸し出している。
一度は入ってみたい素敵なレストランも数多くある。こんなトレーニングウエアにタオルを巻いた姿ではとても入る勇気も無く、いつも空想するだけでお仕舞いだ。

西郷山公園から空が澄み渡っている時は遠く富士山が望める。本日は残念ながら見ることができなかった。代官山から中目黒に下る途中に、かつて「美空ひばり」さんが住居としていた大きな邸宅がある。その横の坂道を下ると中目黒となる。
ここを流れる目黒川沿いは桜の名所だ。この川沿いには個性的なお店がたくさんある。美味しそうなお店が、来るたびに増えている。
今日思わず立ち止まってしまったのは「晴れたらいいね」という和とイタリアンを折衷した料理を提供するお店。チーズホンデュに工夫を凝らした一品に見とれた。

中目黒駅を過ぎ、中目黒商店街を歩く。ここは昔ながらの情緒が残りまた寂れもせずいつも賑わっている。結構、若い人たちも往来しており活気がある。
ここの「RAINBOW BIRD RENDEZVOUS」という新しくできた店で随分と遅い昼ごはんを食べた。
流行の「ロハス」を体現した店で、食材は全て有機栽培。お肉は一切使わずベジタブル中心のメニューだ。大豆を使った一見お肉にも似た何とかという創作品には驚いた。味までまったく鶏肉であった。給仕のお姉さまも若くて優しかった。
「この辺にお住まいなんですか?」「夕食もやってますから今度は夜にもいらしてください」・・・

日比谷公園では「東京ファンタジア2007」という大企画が催されているという。
明日は久しぶりにそちらに足を運んでみようか・・・日比谷公園では昔々「甲冑」をかぶったおじさんたちにボコボコにされた苦い思い出があり、ちょっと嫌なのだけれども・・・
丸の内のイルミネーションや六本木ヒルズのブルー&シルバーのページェントもいい。

明日は●●年目の楽しい楽しいハッピーハッピークリスマス(イヴ)。

さすがに明日ばかりは会社へ行くのはやめておこう。



ハッピークリスマス 2

2007-12-23 11:58:07 | 
寄宿舎での「クリスマスコンパ」、サークル「あすなろ」でのクリスマスパーティ、クリスマス当日に友人と繁華街で酒に酔って大暴れした話など、“ハッピー(?)クリスマス”にまつわるエピソードは事欠かない。

けれど、僕にとって心にいつまでも残るクリスマスの「風景」は、名も無き公園にぽつんと輝く1本のクリスマスツリーの姿である。
住宅街の片隅できれいに瞬くツリーのイルミネーションを、僕は何をするでもなくぼんやりと眺めていた。
地域の住民が公園のもみの木を利用しサンタの人形やお星様や電飾を施しているのであろう。夜ともなると凍えそうなくらい冷たい。七色の暖かい光はそれでも外気の寒さを和らげてくれるようだった。タバコの火で暖を取りながら僕はちらちらと点滅するツリーの光にただただ見とれていた。

バイクの到着する音がした。我に帰った。
そうだ、僕はずっと彼女が帰るのを待っていたのだ。
彼女がキャンパスでつかまらない時に、伝えるべき情報を抱えて、僕は彼女のアパートに出向くことにしていた。
彼女の住んでいたアパートは、僕たちの寄宿舎から随分と遠くにあった。
キャンパスの遠く北側に僕らの寄宿舎があるとすれば、それとは真逆の南側の更に遠い住宅地にあった。
彼女の実家は東京であったが、父親が商社勤めで長らくこの地に赴任していたらしい。その時の住まいがこの辺りで、土地勘もあり知り合いもいたようで親が安心のためにキャンパスから遠く離れたこんな場所に娘を住まわせたのだという。
ここからだとバスを乗り継いで大学まで1時間以上はゆうにかかる。
そのため彼女は大学にバイクで通うようになっていた。50CCだが中々格好のいいスポーツタイプのバイクだった。僕はヤマハのオフロードタイプ250CCの中型バイクを乗りこなしていた。

アパートの前に止まっていたのは確かに彼女のバイクだ。彼女の住んでいたのはアパートの2階で、帰っても灯りをつけないので一見在宅かどうかわからない。バイクのありやなしやが唯一の判断材料だった。炊事場の電灯か机の電気しか灯さないのであろうか。
僕は、直接ドアの正面から行ったことはない。道路の小石を拾い、2階の彼女の部屋のアルミサッシのガラス窓に、こつんとぶつけた。何回かぶつけるとそのうち暗がりの部屋のカーテンの裾野がちらりと開き彼女は僕の来訪に気づく。
しばらくするとトントンと階段を下りる靴音がして、彼女が現れる。

始めはびっくりしていたが、もうこんなことがパターン化していた。

「今日は何ですか?」
彼女が聞く。
「実は今日は・・・」もうそんな話はどうでもいいと思っていた。
ただ、彼女に会いたいだけだった。

「少し待ってたんだが、その間あそこのクリスマスツリーを見てたんだ」
もう1時間以上も彼女の帰りを待っていた。決して「少し」ではなかった。
一緒にクリスマスツリーを見に行った。

そこで何を話したんだろう。もう今は覚えていない。
そんな時間をずっと共有できたらなんて素敵だろう。そんな感慨はあった。
一方で僕は、自分がその時使命としていた事柄と彼女との関係のあり方に、漠とした不安を感じていた。
けれどそうした彼女との時間がすごく貴重に思えた。

1時間ほど缶コーヒーを飲みながら公園で話をした。ひらひらと雪も舞い始めた。冷え込みもだいぶきつくなっていた。
夜も更け「また、明日・・・」などとばつ悪そうに告げ僕はバイクのエンジンをかけ帰途に着く。
それ以上のことは何もできなかったし、してはいけないと自制していた。


そんな小さな小さなクリスマスの思い出である。


ハッピークリスマス 1

2007-12-22 21:52:27 | 
書き残したいことがいっぱいあって、どれから話したらいいかいつも迷う。クリスマスシーズンなので、それに関連する記憶を披瀝しようか・・・

クリスマスで思い起こすのは、それに先立つ1980年12月8日、ジョンレノンが死んだことだ。ニューヨーク市の自宅アパート「ダコタハウス」前において、狂信的なファンとされるマーク・チャップマンに殺害された。その報を聞き、僕は、また同じく寄宿舎のジョンレノン信者の何人かは、“茫然自失”した。大学2年の冬のことだった。

その年のクリスマスは、ラジオやテレビから流れる音楽や街中に聞こえる歌という歌が、ジョンの「Happy X-Mas (War Is Over)」の楽曲で埋め尽くされた。今もクリスマスと言えば定番の曲として流れているが、こんなに一般化したのは、やはりジョンの死後のことであろう。
なぜならこの楽曲は、ビートルズを離れ、小野ヨーコと共に音楽を通じて平和活動を続けていた頃の「反戦平和」という極めて政治的なメッセージを伴った歌だからだ。
世界中の為政者が、そんな歌を好むはずも無い。反逆の時代であった70年代の名残が残る当時であったなら、なおさらそうだったであろう。

よかったらジョンの代表的な他の楽曲と一緒に聞いてみてください。
下記ジョンのオフィシャルサイトで聞けますので。

「Happy X-Mas (War Is Over)」

(Happy Xmas Kyoko
Happy Xmas Julian)

So this is Xmas And what have you done Another year over
And a new one just begun And so this is Xmas I hope you have fun
The near and the dear one The old and the young

A very Merry Xmas And a happy New Year Let's hope it's a good one
Without any fear

And so this is Xmas For weak and for strong For rich and the poor ones
The world is so wrong And so happy Xmas For black and for white
For yellow and red ones Let's stop all the fight

A very Merry Xmas And a happy New Year Let's hope it's a good one
Without any fear

And so this is Xmas And what have we done Another year over
A new one just begun And so happy Xmas We hope you have fun
The near and the dear one The old and the young

A very Merry Xmas And a happy New Year Let's hope it's a good one
Without any fear War is over, if you want it War is over now

Happy Xmas

「今宵はクリスマス 弱者にも強者にも 貧富の差は関係ない
 世界はまだ間違っている 幸せなクリスマス 人種を超えて
 肌の色も関係なく 争いはやめにして」
「戦争は終わる みんなの力で 戦争は終わる 今すぐ」
「幸せなクリスマス」

ジョンレノンも音楽を通じて米国のベトナム戦争を痛烈に批判した。
この「Happy X-Mas (War Is Over)」はイギリスでは1972年に発売されたが、アメリカでは発売が許されず1年遅れて発売されることになった。



1968年

2007-12-22 08:43:52 | 
ユー・チューブを朝まで見ていた。

これは便利なツールだ。過去・現在・未来までも様々な動画が見れる。
それぞれの思い入れのある画像が、それぞれの思いを込めて自由に提供されている。

1968年といえば、僕はまだ小学生の頃だ。ぬくいコタツに寝転がり、入ったばかりの白黒テレビの画面で、全国の学園で学生が大暴れしている映像を見た気がする。ベトナム戦争というものがあり、それに反対する反戦の運動が高まっていた。
僕の生まれた片田舎では、まったく実感もなく、遠い世界のことにしか思えなかった。
中学の頃、運動会の各クラスの出し物として、好きに仮装して校庭を一周するというエキシビジョンがあった。僕のクラスでは世界各国の衣装で着飾ろうということになった。当時、大阪で「万国博覧会」が開催され、世界というものを強く意識したのであろう。僕と、数人の仲間はベトナムでアメリカの空爆に抵抗する「ベトコン」の仮装をした。何の考えも、思惑も当然無かった。ただ、テレビ報道で毎日のようにベトナム戦争の風景が放映され、目にしていたのと、ジャージにヘルメット、それに笹の葉や木の枝で身を覆えばよく、楽だったからである。
大変、ひんしゅくを買った。実家の中学の卒業アルバムには、その素っ頓狂な姿が、バッチリ残っている。

ユー・チューブの話である。当時のいろんな動画が残っていた。ビートルズの「ヘイ・ジュード」のメロディーとともに流れる映像があったので掲載します。
学園は政治的な「祭り」の舞台であった。
僕よりも10才くらい上の世代の人たち。
宴の終わりはいつも淋しいもの。また、その後再び、日本中がそんな祭りに熱狂することはなかった。僕が大学で生きた80年代も、そうした時代が切り替わる端境の時だったんだろう。
代わりに日本には「バブル経済」という「祭り」が来た。
人間世界に祭りは尽きず、人間はその都度、悲喜劇を繰り返すのだろう。

眠い・・・


1968年 東大全共闘 日大全共闘 エンプラ入港



ひろみGO

2007-12-21 23:13:02 | 
東京に出てきてからのことも少し書こうか。

再び東京に出て、当時の仲間の紹介で初めてまともに就職した。あまり聞いたことも無い業種であったが、仕事の内容などどうでもよかった。
企画関係の業務で、朝だけは早く出向く必要があった。「外電」というのがあって、それを翻訳して情報端末に流したりデータをインプットせねばならない。朝5時起きだったが特に苦にもならなかった。給料の安さも別に気にもしなかった。
つらかったのは「孤独」。一人でいる時が無性に苦しかった。

僕の部署を管掌する役員は、仕事ができるかどうかは別として、懐の広い「人格者」のようであった。会社の同僚とよく飲みに連れて行かれた。いい年をしてかなりの「女好き」でもあった。聞くところ50才をとおに回った彼は60年安保の「闘士」でもあったそうな。これが成れの果てかとも思ったが、人のことばかり言っておれまい。
そのような彼の行きつけのスナップやパブに、僕たちはツケで行くことを許された。そこのホステスさんと馬鹿話をしカラオケを歌い酒を飲むだけだ。キャバクラなどが跋扈するずっと前のこと。そうしたスナックの若い子達は、既にアルバイトが常態となっていて、コテコテの社員従業員は皆無という状況であった。
みんな昼間はOLなど定職を持っていて8時から9時位に出勤してくる。
カラオケを歌わなくてはいけなくて大変困った。
僕の知っているのはせいぜい「ひろみGO」や「Gノグチ」、「Sひでき」位しかなかった。

当時、ひろみGOのバラード3部作の第1弾『僕がどんなに君を好きか、君は知らない』が流行っていたので一生懸命練習をした。CDさえ買った。その後の第2弾、第3弾も。『言えないよ』『逢いたくて仕方ない』。これらを一人で聞いていると胸が絞めつけられた。
GOよ、こんないい曲、歌うな。何度も思った。

役員お気に入りの若い子がいた。25才かそこらの。僕からみても5つくらい下だったか。ムチムチボディにミニスカで、色気むんむんの女の子だった。話すと気のいい子だった。アイコちゃんと言い、昼間は渋谷のブティックで売り子をしていた。実家は四国・香川のお寺の娘だった。東中野に彼女は住んでいて、何度かタクシーで送った。けれども決して「送りオオカミ」になることは無かった。
工藤静香の「慟哭」という歌がとても上手く、感動した。それもそのはずアイコちゃんは武蔵野音大の声学科を出ていた。
その店のマスターと彼女らと職場の僕らとで休日にボーリングや食事会などもした。
その頃の僕は、会社が終わると毎日のように近くの居酒屋に寄り、その足でそのスナックに行った。いつからかアイコちゃんに会いたくて行くようになった。
会社にもいっぱい女の子はいたが、一宿一飯の仁義ゆえ、それはいけないと思っていた。しかも己の淋しさを紛らわすためだけの行為はいけないと思った。

そのうち、いろんなことがあって、僕は東中野の彼女のアパートに転がり込むこととなった。僕が当時住んでいたのは横浜の近くだったので、しばらく自宅に帰らない日々が続いた。スナックの帰り、マスターにばれないように時間差で店を出て、乃木坂あたりで待ち合わせ、一緒に帰った。いつも彼女の家に着くのは1時過ぎ。そして6時位に起きて僕は会社へ向かう。そのうち僕は熱を出して倒れた。扁桃腺が異様に腫れて、痛くて飯も食えないし声も出なくなった。明らかに「過労」であった。
結局、いまだに僕の本当のところは、ただ「自暴自棄」でしかなく、自虐でしかなかった。
それでも、しばらくの間、彼女との営みは続き、休暇をとって四国・香川の実家に遊びに行ったりもした。お遍路さんの巡るお寺の一つで由緒ある家柄であった。母さんは先生で父さんは住職。そして自由奔放なアイコちゃん。

けれど孤独や喪失感を補うための代償としての恋など、上手く行くはずも無い。
もしアイコちゃんとその後も続いていたのなら、僕は今頃、浄土真宗のお坊さんにでもなっていたのであろうか。紫のケサを羽織り、毎日木魚を叩いて修行の日々・・。
それはそれで一興だったかも知れない。

もう恋も愛も止めようと思った。
その役員にもしこたま怒られ、当分「仕事」に打ち込む日々が続いた・・・。


「不発」

2007-12-19 23:03:04 | 
2百人もいる寄宿舎だから様々な人種がいる。コチコチの硬派もいれば、グダグダの軟派もいる。オタクもいればプレーボーイもいる。
当初は、なんだかんだ言っても「軟派」で「プレーボーイ」に憧れるものだ。
合ハイだ合コンだダンパだとガールフレンドの獲得に血道を上げるのが常。
そんな時、グダグダの先輩と懇意でもなったら、そりゃあ大変である。

「おまえら。悪いことは言わんから“筆下ろし”に行け。人生の登竜門だ。絶対行け」
始めは何のことかと思ったが、すぐに合点がいった。
「金が無いなら少しくらい貸してやってもいいぞ」
要するに、所謂「トルコ風呂」に行ってお姉さんに「可愛がって」もらって来いと言うのだ。
鵜呑みにして行った奴もいた。どうやら「学割」がきくらしい。

こんな話は、硬派の先輩に聞かれたらそれこそ更に輪をかけて大変だ。
「お前ら女性労働や女性差別についてどう考えてるんだ。展開してみろ!」
“展開してみろ”とは説明しろ!という意味だが、社会の矛盾や反差別の意義につきとくとくと説教され、嫌というほどとっちめられるのがオチである。

その頃は、情けない話だが、どちらかというと前者の先輩の話に強く心を動かされた。特に「学割」の響きに感銘を受けた。
清水の舞台から飛び降りる覚悟で、実は同級のNとチャレンジを試みたことがあった。言っておくが、Nの方がより熱心で、どちらかというと僕は半ば付き合いという感じだった。
そして、そのお店の前に行って愕然としてしまった。看板に記載してある料金にである。僕のポケットには8千円しかなかった。Nに聞くとNも1万数千円しかないという。これではいくら学割をきかせても「サービス料金」には遠く及ばない。
僕らは、そうした行為に値段を付けるとすればそんなものと高をくくっていた。甘かった。可愛がってもらうにしても、こんな値段は無い。潔く断念した。

しかし、僕たちはその勢いのやり場にホトホト困ってしまった。このままでは帰れない。そうしたお店が氾濫する繁華街を僕たちはうろうろした。まるで腹をすかせたライオンのように。いやそんな迫力も無くくたびれた「ドラネコ」のように・・・。
「3千円ポッキリ・・・」という看板に、僕らは釘付けになった。
「よし。ここにするか」Nは言う。「何か怪しいぞ。大丈夫か?」僕が応えた。
「大丈夫だ。倍とられても二人あわせりゃあ2万円ある。そんなもんだ」
Nは経験でもあるかのように言う。確かにNは一浪しているし、僕よりやや人生経験が豊富だ。ここはNの意見に従おう。そう思った。
何が飛び出るのか何をされるのか。受験の結果を見に行く以上に心臓が高鳴った。

結果は推して知るべしである。
後ろのソファのNを振り返るとNはまるで乳飲み子のごとくおっぱいにかじりついていた。僕はといえば、そんな大胆不敵な行為にはとても及べず、ひたすら「いじられ」まくり。そして耳元で囁かれる。
「別の部屋で、もっといいことしない?」
とても「お姉さま」とは言えないお姉さまに、強烈な勧誘を受け、
もう僕はこの場を立ち去ることしか考えていなかった。
お金をいくら持っているのかしきりと聞かれた。正直に答えた。
「そんな手持ちでこういう店にくるもんじゃあないよ学生さん・・・」
おっかなかった。そのうちNが後ろから僕の肩を叩き「帰るぞ」と言う。
僕の分も含めて「ポッキリ」の倍とられたようだ。
僕らはホウホウの体でその店から逃げ帰った。こんな顛末であった。

もう飲むしかなかった。合わせてまだ7千円ある。これだけあれば十分飲めた。
その繁華街のすぐ近くにある「雲助」という酒屋でしこたま冷酒を飲んだ。
そして有り金を使い尽くし、繁華街から遠く離れた丘陵の上にある僕らの寄宿舎に歩いて帰った。
世間知らずの自分に、また、巧妙な世間の仕組みに、ただあ然としながら暗闇の中を帰った。





悪意との対峙

2007-12-18 23:30:43 | 
僕は人間の悪意を憎む。あらゆる悪意を憎む。その悪意に陵辱された人を守る。どんな状況下でも守る。
陵辱される人はいつも純粋な人だ。僕はそんな美しい心の持ち主を愛する。真面目で純真な心を汚す者を許さない。
人間は間違いの連続である。そんなことは知っている。けれども、悪意は間違いとは違う。そんな下衆な思惑は許さない。断固として断罪する。

そんなパッションは今でも失うことは無い。それだけが僕の存在意義かもしれない。けれども僕は人間は悪であるとは思わない。性善説に立つ。
であるが故に、人間の悪意を許してはならないのだと僕は思っている。
だから僕は、いつまでお人好しと言われ、世渡りが下手なんだろう。

仕事に忙殺され、師走に向かっていることさえ曖昧な気持ちで居た僕に、「恵比寿で忘年会をしよう」という電話が入った。
8時になろうかとしていた時だ。いろいろと疲れていて酒でも飲みたい気分だった。
「わかった。これから行くよ」とあっさり応え、恵比寿に向かった。
大学の同窓生で同じ寄宿舎で時を同じくしたNだ。
今は大企業のグループ子会社の社長をしている。彼とはよく指しで呑みに行く。
今更「忘年会」も無いのだが、足が向いた。

「オールウエイズ」に代表される最近のレトロブームは、実は周到なマーケティングの産物だとNはいう。Nはもともとマーケティング畑だ。と同時に哲学や心理学に長けていた。
人間の深層心理のベースにはノスタルジー(郷愁)が常にある。それを美しく再現することがヒットのエッセンスなのだという。この心理学は学問的に真理なのだとか。
しかし、そのアウフヘーベン(止揚)は、必ずしも原体験、原資産の風景を再現しているものではない。一見そのように見えても、巧妙な「すり替え」が行われている。確かに僕らが経験した「オールウエイズ」は、そんなにきれいでも美しくも無かった。けれども今それを観る僕らは「美しく」描かれるそれらに郷愁を感じるし、何かそれを正当化したがる。事実と違ってもそれはそれでいいのだと。

待てよ。そうすると先の「正義感」も怪しくなってくる。そんな正義感など本当に僕の中にあったのであろうか。虚飾、妄念、幻想・・・。自分に、自分の想念に疑いが生じてくる。美化のアウフヘーベンが働いているのであろうか・・・

いや違う。今もそれは変わらない。なぜなら僕にはそういう商業的な意図は無いし物欲も無い。今も人間の小ざかしい悪意を憎むし許しもしない。そして美しき魂は徹底的に守りたいのである。それは真実だ。断じて虚飾などではない。君のその「美しい瞳」を守りたいだけだ。
こんなことを考えながらNの話を聞いていた。

Nとは大学2年の時、他の仲間と北海道に自家用車で旅に出た。K先輩、後輩のSと4人で。フェリーで北海道の苫小牧に渡り、札幌で一泊(北大のK寮に宿泊)した後、大雪山に行き、知床や網走を回った。2週間余りの旅路を思い出す。

互いに今の立場と明日のことを考えてそこそこにして別れた。
彼も、僕ほどではなかったが、途中まで共に「闘った」同志である。
いまはお互いにその面影も限りなく薄くなっているのではあるが・・・。