徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

最後の夢(第六十九話 恩と仇)

2006-01-10 19:02:46 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 その痛みは…勝手に樋野の家を出た罰だ…。
二度と逃げ出すな…今度逃げ出したら久遠を殺す…。

古い記憶が翔矢に襲い掛かった。翔矢は怯え両手で頭を抱えた。

 逃げないよ…もう逃げたりしないよ…。
お願い…久遠を…殺さないで…。

 苦痛に耐え切れず叫ぶ声が部屋中に響き渡る。
久遠…久遠…苦しいよ…痛い…よ。

 翔矢から伝わってくる過去の恐怖が久遠の中の鬼を呼び覚ます。
俺の名を利用して…翔矢に何をした…。
 翔矢が俺にしたことは…すべて貴様が翔矢にしたこと…貴様が翔矢の身体に叩き込んだこと…。

 許せん…修が何と言おうと…俺と弟にこれほどの地獄を見せておきながらその恩人面…。
目覚めた鬼は見る間に久遠のすべてを支配していく。

 「修! 手を出すな! こいつは俺がやる! 」

久遠は形相凄まじく修に向かって叫んだ。
 
 「死ぬがいい…俺がこの手で殺してやる! 
よくもここまで翔矢を苦しめてくれたな…翔矢が犯した罪はすべて貴様が翔矢に教えこんだことではないか! 」

 久遠が初めて伯父に向かって暴言を吐いた。 
邦正は思わず怯んだ。
まさかあの穏やかな久遠が自分に反抗するなど有り得ないと考えていたのだ。

 邦正以上に透と雅人が慌てた。
久遠は宗主の眼前に飛び出て行きかねない勢いだ。
いま出たら命が危ない。

 「悟! 晃! 久遠を抑えろ! 宗主に近づけるな! 
瀾! 翔矢を! 」

 瀾は急いで翔矢の身体を庇うように支えた。城崎も彼等に身を寄せた。
透の一声で悟と晃が背後から久遠を抑え宗主の視界の外へ引き戻そうとした。
それを振り払おうとするのをさらに透と雅人が押し戻す。

 修の青い視線が瞬時にそれを捉えた。
雅人がやばい…っと思った瞬間、史朗がスクラム状態になって動けない透と雅人の前に立ち楯になった。

 氷柱のように鋭く青く凍てついた焔の矢が史朗を目掛けて放たれた。
その矢を史朗は敢えて避けようとはしなかった。
腹を貫いた矢を握り締めたまま、史朗はその場に崩れ落ちた。

 久遠は我が眼を疑った。
修は表情ひとつ変えていない。邪魔をする者には当然の報いだと言わんばかりだ。
なぜだ…おまえの愛人だろう…?

その場の誰もが衝撃を受けた。紫峰の非情さを目の当たりにして…。

 「史朗さん! なんてことを…。 僕等を庇うなんて…。 」

 透が史朗を支え起こした。
雅人は急いで史朗の腹から矢を抜き出血を止めようとした。
 
 「久遠さん! 前にも言ったでしょう! 不用意に樹の御霊に近付いてはだめだと! 無礼は許されないんだよ! 」

 雅人は久遠を咎めるように怒鳴った。
呆然としている久遠に史朗は弱々しい笑みを向けた。

 「大丈夫…急所外れてるから…。 彰久さんが…傍に居てくれたから…。
雅人くん…少し待って…。 」

 彰久…ああ…もうひとりの鬼母川の祭主の名だ…と久遠は思った。
傍に…? どこか離れた所から思念を飛ばしているのか…?
 久遠の疑問を余所に、史朗は痛みを堪えて起き上がると少し前に進み出て修に向かって平伏した。

 「樹の御霊…鬼母川の史朗…誠に差し出がましいことを致しました。
どうか…お慈悲を以ってお許しくださいませ…。
 
 改めて樹の御霊にお願い申し上げます。
邦正の如き卑小の魂を滅するために…御霊の神聖な御力を穢してはなりませぬ。
どうか御怒りを御収め頂きたく…。

鬼母川の御大親の御心を御伝え申し上げる次第にございます。 」

 史朗の痛々しい様子に眼を向けるでもなく修はただ邦正を見据えていた。
目の前で味方側の者にさえ容赦のないところを見せ付けられた樋野の衆は身動きひとつできず、どうなることかと息を呑んで宗主と史朗…そしてやや臆した邦正に視線を向けていた。

 「下がれ…。 」

 修は史朗の顔も見ることなく言った。
史朗は手をついて再び深く頭を下げて退いた。
透や雅人の傍まで来るとさすがに苦痛に顔を歪めた。

 修を取り巻く澄んだ青の焔がほんの少し紫を帯びた。
史朗はそれを眼にすると少しほっとしたように頷いた。

 「済まん…史朗…俺のせいで…。 」

 久遠は史朗の前に膝を折って史朗の顔を覗き込み申し訳なさそうに言った。
雅人の治療を受けながら史朗は軽く微笑んだ。

 「いいんだ…。 これくらいの覚悟はいつでもできている…。 鬼退治さ…。
あの人にこれ以上…苦しい思いをさせたくないから…。 」

 彰久さん…有難う…どうにか…透くんたちを護ることができましたよ。
そう史朗が呟くと…どこからともなくどう致しましてと返す声が久遠の耳にも聞こえたような気がした。



 修はそっとあたりを見回した。樋野の衆の恐れおののく顔が見えた。
邦正の先ほどまでとは打って変わった怯え顔に思わず冷たい笑みを漏らした。

 「樋野の邦正よ…。 命までは取らぬ…。 
鬼母川の史朗がおまえの命乞いをしてくれたこと…恩に着よ…。
あれは…おまえに見返りなど求めぬ…恩とはそうしたものだ…。 

 諸々の罪と悪心の報いにおまえの力を消滅させる。
おまえは今後…翔矢のいた座敷牢で残された時を過ごすのだ…。 
翔矢の苦しみがどれほどのものであったか身をもって味わうがいい。

 樋野の衆よ…それでよいかな…? 
おまえたちの長であった者のことだ…よく考えて返答せよ…。 」

 修は忠正と珠江を見た。
ふたりは顔を見合わせて頷きあい、了承を得るべく他の長老衆にも眼を向けた。
 長老衆はこれまでの幾多の惨状から慮って、邦正の暴虐な行動が今に非ずともいつか確実に樋野に滅びの道を歩ませることになるだろうという懸念を抱き、了解の意味で忠正と珠江に向かって深く頷いた。

 「紫峰の宗主よ…我々に異存は無い。
同族に滅びを導く者は長に非ず。 ただ肉親の情として命乞いをするのみ。 」

 忠正は史朗がしたように平伏して答えた。
樋野衆が後に続いた。

 何を馬鹿な…と邦正は叫んだ。
修は左の手のひらを上に向け、青の焔を勢いよく立ち上らせた。
焔は邦正を目掛け突進した。
 避ける間もなく全身を青の焔に包み込まれた邦正は呼吸もままならぬかのように天を仰いで口をパクパク動かし喘いだ。

 珠江が眼を背けた。
どれほど冷酷な性格の男にせよ、長年連れ添った夫の無残な姿を正視することは夫婦の情としてできなかった。

 やがて焔は吸い込まれるように修の手のひらに戻った。
修の全身を覆っていた青の焔は次第に勢いを失い…薄れ消えていった。

 樋野の屋敷に漂っていた凍てつくような冷気はいつしか消え去り、あたりは平穏な空気に包まれた。

 ぼんやりと文字通り力が抜けたように邦正は宙を見つめていた。
正気は正気らしく忠正の呼びかけにきちんとした言葉を返した。
もっと酷い状態を想像していた樋野の衆はほっと胸を撫で下ろした。

 「修さん…修さん…助けて! お願い…史朗さんが…。」

 史朗の手当をしていた雅人が悲鳴を上げた。
傷自体はたいしたことのないものなのに史朗はだんだんぐったりしていく。
雅人にはどうしていいか見当がつかない。

 修が史朗や子どもたちのいる方へ近付いてきた。
雅人が懸命に手当てをしている史朗の傷はただの傷ではなく、その傷を受けた場所から次第に全身を蝕んでいく類のもので、雅人がどう頑張っても止血するのがやっと…修自身が矢に込めた業を解かない限りは…。

 修は史朗の前に跪くとそっと史朗の傷に触れた。
史朗の傷口から青の焔が修の手の中に吸い込まれた。  

 「ごめんなさい…修さん…余計なことして…。 」

 史朗が呟くように言った。
修は無表情に頷いた。雅人がほーっと溜息をついた。

 なぜ…俺じゃないんだ…? なぜ…俺を庇ってくれた者たちに攻撃を…?
久遠はそう訊ねてみたかった。 

 だが…個人的な話をする間もなく、城崎と樋野の手打ちの式が再開され、今度は邪魔をするものもなく滞りなく儀式を終えた。
 これで樋野家と城崎家は正式に親戚関係を結んだことになる。
陽菜の時には城崎家の勝手な都合で本家と城崎本人だけの個人的な付き合いに終わった関係がようやく一歩前進した。

 久々のお祝いムードに華やぐ樋野の一族を尻目に、縁側でひとり茫然と庭を見つめる普通の老人と成り果てた邦正を長と呼ぶものはもはや誰もいなかった…。
 


 再教育と称して引き取られていく翔矢は修を待っていた黒塗りの高級車のシートに大人しく身体を沈めて、ぼんやりと窓の外を見ていた。

 他の者は皆自分たちの車で帰途につき、今後の相談もあることから、紫峰家で待ち合わせることになってはいたが、わざわざ大好きな久遠と別の車に乗ったのは、修の内緒話を聞くためだった。

 「そろそろ…芝居はやめにしないか…翔矢? 」

 修は翔矢の顔を見ることもなく静かにそう言った。
翔矢は少し驚きながら…それでもなんでもないことのようにふっと笑った。

 笑いながら翔矢は修母さんの肩に頭をもたせ掛けた。
だって…そうしないと…生きられなかったんだもの…。
もう…ほとんど壊れかけていたんだもの…。
ううん…完全に壊れてたのかも知れないよ…。

 修は微笑んでそっと甘えっ子の肩を抱いてやり…やっと鳥籠から脱出できて安心している翔矢の髪を撫でてやった…。

 


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