徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

最後の夢(第七十一話 ベビーシッター)

2006-01-14 00:01:18 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 紫峰家が樋野家と城崎家の諍いの仲裁者として介入したことは紫峰自身は無論のこと他家の者も誰ひとり他言しなかった。
 しかし、その筋の眼は何処にでも光っているものらしく、世の中には樋野と同じように紫峰のことを伝え聞いている者もあるようで、大戦前にすでに途絶えていた裁定者としての地位が再び復活したかのように伝わっているらしかった。

 そのような問い合わせがあるたびに今更在りえぬ話だと否定した。
いまやほとんどの家がその能力を隠し、普通人として自由気ままに生活しているというのに、裁定者として再び立つなど御免被りたいというのが宗主の本音だった。

 紫峰宗主は最悪の奥義の伝授者…その荷を背負うだけでも十分に重い。
個人的な繋がりがあるのでなければ他の一族と関わるつもりなど毛頭ないし、縁も所縁も無い者に要らざるお節介など焼きたくもない。

 紫峰に関する言い伝えや古書が残っているような古い家系は、現在ではそれほどの数が残存しているわけではないとみえて、しばらくするとまた静かで平穏な生活が戻ってきた。

静かで…平穏…?



 新生児室のベビーベッドの上に居並ぶ赤ん坊の中で、一際大きな声を張り上げて泣いているのは修の長男和貴(かずき)、その隣で大人しく指を銜えながら和貴の方を見ているのは彰久の長男修史(ひさふみ)…残念なことには鈴と雅人の子どもは度重なる不調のためにこの世に生きて産まれてくることができなかった。

 雅人は鈴がぎりぎりまで必死で頑張ってくれたことに感謝したが、生まれてくるのを心待ちにしていただけに、胸にぽっかりと穴が開いたようだった。
 長いことずっと頑張ってきた鈴さんはもっとつらいんだろうな…と思い、鈴の前では努めて明るく振舞った。

目の前で鈴が溜息をついた。

 「おっぱいがこんなに…溢れるくらい出てくるのに…飲んでくれる赤ちゃんがいないんですねえ…。」

 寝巻きの胸のところが沁みになっていた。
その姿が痛々しくて雅人には何も言えなかった。

 呼び鈴が鳴って史朗が顔を出した。
こんな時どう言っていいのかは分からないが世話役としてはどうしても来ないわけには行かなかった。

 「具合はどう…? 」

 恐る恐る史朗が訊いた。
鈴はにっこり笑って大丈夫です…と答えた。

 「笙子さんや玲子さんは…? 」

 鈴が子どもを失ったのと同じ頃に男の子が生まれたことを鈴は伝え聞いていた。史朗の表情が少し曇った。

 「玲子さんは問題ないんだけどね。 笙子さんはちょっと具合が良くないんだ。
おっぱいが全然出なくてね…ひどく落ち込んでるよ。 」

鈴はちょっと小首を傾げて考えると、急に思いたったようにベッドから降りた。

 「雅人さん…笙子さんのところへ行くわ…。 」

 長いことあまり動かない生活を強いられていた鈴は覚束ない足取りで笙子の部屋へ向かった。

 笙子の部屋にはちょうど修が来ていた。
鈴が姿を現すとふたりは驚いたように鈴の顔を見た。笙子は自分の経験から鈴は当分ショックから立ち直れないだろうと思っていたのだが意外に元気そうに見えた。

 「おめでとう…男の子だったのね。 」

 笙子のベッドの横に設置されたベビーベッドの中には授乳のために連れてこられた和貴がいた。
鈴はいとおしげに赤ん坊を見つめた。

 「いい子が生まれてよかったわねぇ…。 」

鈴がそう言うと笙子が溜息をついた。

 「前のことがあるから…無事生まれてくれたのは本当に有り難いんだけど…。
おっぱいが出ないのよ…。 粉ミルクに頼るしかなさそう…。

 それに…私はすぐにでも復帰しなきゃならないんだけど…時間が不規則だからなかなかすぐには良いベビーシッターが見つからなくてね…。

 問題山積なのよ…。 」

 笙子は敢えて普通の会話を心掛けた。鈴を慰めるような言葉は避けた。
慰めの言葉なんか耳に入らないだろうから…。

 「笙子さん…それ…私にやらせてくれない?  」

ええっ…とその場のみんなから思わず声が漏れた。

 「私の身体が回復するのは少し先だろうけど…おっぱいはすぐにあげられるわ。
そのうちに全面的に世話をしてあげられるようになると思うの。

 私がベビーシッターなら笙子さん…時間を気にしないで仕事できるでしょう?
月曜から金曜までマンションに居て土日は本家に帰る…そんな感じでどうかしら?

 勿論…ちゃんとお給料は頂くわ…。
長老はとてもお元気だからお世話といっても何もすることがなくて…。 」

 笙子は思わず修を見た。いいよ…と修は頷いた。
笙子は和貴を抱き上げると鈴の傍に連れてきた。

 「お願いできる? 」

 笙子の腕から和貴を受け取った鈴はみんなの見ている前で堂々と胸をはだけ、そのふくよかな乳房を和貴に吸わせた。
 満足げに空腹を満たす和貴の表情に鈴は思わず微笑んだ。
和貴が満腹になって眠ってしまうまでの間…時は穏やかに流れた…。
 


 紫峰の修練場でひとり祭祀を行っている史朗を彰久は不思議そうに見ていた。
何かのお礼の報告と感謝の言葉を御大親に奏上しているようなのだが、良いことがあった割には何処と無く寂しそうでもある。  

やがて祭祀を終えると彰久の方を振り返った。

 「無事…修さんに長男が生まれたので…御大親に御礼を申し上げていました。」

史朗は微笑んでそう話した。

 「御大親に…史朗くん…あなた…まさか願懸けの祭祀を…? 」

 彰久は心配そうに訊ねた。
御大親に願を懸ける時には願を懸ける者は何かを犠牲にしなければならない。

 「ええ…もし…修さんにひとりでも子が授かるなら…僕には子を与えてくださらずともよいと…。 」

 なんという…彰久は心を痛めた。史朗には親も兄弟もいない。
それゆえに史朗がどれほど自分の子どもを欲しているか…彰久は知っていた。
その気持ちを犠牲にしてでも…修のために…。

 「御大親がお聞き届けくださった以上…僕に子が授かることはないでしょう…。
鬼面川の祭祀舞を引き継ぐのは彰久さんのお子たちということになりましょうか。
この史朗の舞は一代限り…。 」

 史朗は立ち上がると『夕立』を舞い始めた。
時々刻々移り往く自然現象の微妙な変化をも舞い分けるその神業とも言うべき史朗の…閑平の表現力…。
見事という他なく彰久はただ感嘆するばかりだった。



 倉吉の報告では翔矢がかけた敏の暗示はすっかり解けて今は素直に取り調べに応じているらしかった。
 ただ…城崎と久遠のために翔矢のことはすべて内緒にしていて、昭二を殺した理由は裏切られたと誤解したからだと説明しているようだった。

 解決しても後味の悪い思いが残る…嫌な事件だった。
誰をどう非難したところでどうにもならない。
やり切れない気持ちと折り合いをつけるのが唯一救われる道だった。

 妻を亡くしたとはいえ瀾と久遠が戻ったことで城崎家は昔の活気を取り戻した。瀾は大学と祭祀舞の稽古とで忙しくしていたが、以前とは打って変わって家業の手伝いもするようになり城崎を喜ばせた。
 久遠は城崎の家業の他に自分の店もそのまま続けていたが、樋野の圭介と佳恵に代理を任せ、日常の業務にあたらせることにした。

 翔矢の再教育以外はまるですべてがもともとそうであったかのように何事も滞りなく過ぎていった。 
 




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