土曜日だというのに朝から忙しく、会社から、長老会から、その他諸々の組織から報告だの、招待だの、さまざまな連絡が届いた。
最後に西野からの報告を聞き、あれこれと指示を出した後、修は少しのんびりしたくなって洋館の方へと足を運んだ。
雨あがりの朝にいっせいに花開いた金木犀の香りがあたりに漂っていて、洋館に着く頃には何となく華やいだ気持ちになっていた。
洋館の居間には珍しく笙子の落ち着いた姿があった。
笙子は何か雑誌のようなものを読んでいたが、新しい企画でも考えているのかもしれない。
仕事の邪魔をしないように寝室の方へ引っ込んだ。
ベッドに寝転がって読みかけの本を開くと、仕事中と思っていた笙子が修の手から本を奪った。
「なあに声もかけないで引っ込んじゃって…。 」
「ごめん…。 仕事中だと思ったんだ。 」
修の困ったような顔を見て笙子は笑いながら本を返した。
「どうして史朗ちゃんを使者に使ったの?
長老衆が嫌なら西野さんでもはるさんでも良かったのに…。 」
笙子は修の顔を覗きこんだ。
「史朗という人の紫峰での立場をきちんと示しておく必要があったからだよ。
雅人と違って彼は鬼面川の人だし、両親も兄弟もなくてひとりきりだ。
今は僕やきみがいるからいいけれど、万一僕らがどうにかなってしまったら紫峰も藤宮も史朗を蔑ろにするだろう。
彼がきみの会社を大きくした功労者であることも忘れて。
史朗は僕を愛し、きみを愛し、本当に心から尽くしてくれている大切な人だ。
多分きみは僕と彼の子を生むだろうし、僕はそうなってくれるよう願っている。
彼が紛れもなく、きみや子どもたちに匹敵するほどの僕の家族だということを周りに教えてやったのさ。 」
そう言って修は笑顔を見せた。
ああそれで…というように笙子は頷いた。
「そうね。近いうちに私も藤宮に対して史朗ちゃんの立場をはっきりさせるわ。
私にとって大切なパートナーなんだってことを…。
ふたりに赤ちゃんをプレゼントできるかどうかまでは分からないけど…。 」
幾分寂しそうな笑みを浮かべて笙子は言った。
修は笙子に向かって両の手を広げた。
笙子が躊躇いもなくその腕の中に飛び込んでくると修はしっかりと受け止めた。
「遊ぶの疲れちゃった…。だからそろそろ修と史朗ちゃんだけに限定する。」
笙子がぽつりと呟いた。
「そう…。 そりゃあ親子鑑定が楽でいいや。 」
修はそう言ってからからと笑った。
ま…いつまで続くかは疑問だが…と心の中では思った。
「修は史朗ちゃんの将来と立場まで考えてたのね?
だけど史朗ちゃんは何があろうと何とでも自分でやっていける人でしょ? 」
笙子は不思議そうに訊いた。
「当たり前だ。 一端の男なんだから。 病気だとか何か事情があるとかなら別だけど、やっていけないような奴は相手にはしない。」
修はきっぱりと断言した。
「相手って修…あっちの話? 」
「違います。 仕事の上でも友達でも何でも付き合う場合にってことで…。
どうしてそっちへ行くかなあ…?」
修は天を仰いだ。
笙子は冗談よ…と笑った。
「いくら実力があっても後ろ盾もなしにきみの会社引き継ぐのは大変だぜ。
いまはきみがバックにいるし、使われている方だから文句も出ないが…。
使う側にまわるとなるといろいろあるだろう? 」
「修は最初から史朗ちゃんを高く評価してたもんね。奨学金までだしてあげて。
齢はそれほど離れてないのに親みたいな顔して可愛がってた。 」
「それだけの実力を持つ男だからだよ。 性格も最高だしね。
そうじゃなきゃきみの特別な愛人だなんて絶対に許さない。 」
修の笙子を抱く手に力がこもった。
「修は…彼のこと愛してる? 」
修は一瞬の戸惑いを見せた後、腕の中の笙子に目を向けた。
「今でもよくは分からん。
笙子を愛するように愛せるかと訊かれれば…そいつは無理だな。
好きの感覚がどっか違うような気がするんだ。
突発的と言うか単発的というか持続しないんだよ…。
彼を見ていると、こいつって健気とかほんと可愛いって思う瞬間があってさ。
そういう時はものすごく愛しく感じる。 こいつのこと大好きかも…って。
だけどきみが彼の腕の中にいる時は心の底から憎らしく思えることもある。
それはいつもじゃなくて、ごくたまにだけど…。
そういう時だけはめちゃめちゃに苛めてやりたくなるんだ。
やらないけどね…。 」
「私が修の嫉妬心を煽り立てるようなことばかりしてるものね。
この間、史朗ちゃんにも叱られた。 修の前ではモーションかけるなって…。 」
修は肩をすくめた。
史朗ちゃん…きみはほんとにいい子だと苦笑した。
「僕ってほんと嫌なやつだね。 疑いを知らない天使の前で優しい男を装いながら、心の中ではその羽を毟り取って苦しめようとしている。」
「またそうやって悪ぶる…。 何度も言うようだけどあなたの優しさは本物よ。違うと言うのなら試してみるといいわ。
史朗ちゃんを苛めて御覧なさいよ。 絶対できないから。 」
笙子は自信ありげに断言した。
それにあなたみたいなどこか頓珍漢な人は誰かを苛めに行って逆に助けて帰ってくるのが落ちなのよ…と心の中で呟いた。
大学でも家でも雅人はいつもどおりの生活を送っていたし、バイトも相変わらず続けていた。
デート禁止令が出て以来真貴とは会っていないし、こんな時に真貴と会うのが不謹慎な気もしてちゃんとした説明もしないままに遠ざけていた。
真貴は真貴で雅人の抱えている問題を伝え聞いてはいたが、本人が話したくなるまで待とうと考えていた。
長老衆の一人である祖父が祖母に、本家にとんでもない女を送り込んでしまったと話しているのを、真貴はたまたま耳にしてしまった。
岩松とすれば自分が送り込んだ女が、孫娘の恋人に手を出したことになり、真貴に何と弁解したらいいのか分からないと嘆いていた。
真貴は紫峰家を訪ねて透と隆平に伝言を頼んだ。
「雅人には…その子…私が貰い受けるから安心しなさいと言っといて。 」
「でも真貴…浮気相手の子だよ? 」
透はこの健気ないとこの気持ちを思うと胸が痛んだ。
「はん! 雅人みたいな男と一緒になろうって私がいちいち誰の子彼の子かまってられるかっての。
賭けてもいいけどあいつ…これ一回じゃ終わらんからね。
性懲りもなくまたどっかで悪さして来るに決まってるわ。 」
あっはっはと真貴は豪快に笑い飛ばし、それじゃお願いね…と言って帰っていった。
逞しい…透も隆平も呆気にとられた。
後でその話を聞いた雅人はあいつには敵わねえ…と呟いた。
「未来の奥に後始末してもらうようじゃ俺もたいしたことない男だねえ。
あいつには一生頭あがんないかも…。 」
そう言ってにやっと笑った。
閉じ込められ、監視されてから二週間、無事何事もなく過ごした城崎は、自由の利かない生活に嫌気がさしていた。
犯人はきっと俺を大ぼらふきと思ってんだぜ。いいじゃないそんならそれでさ。
不安がなかったわけではないが城崎はいい方に解釈することにした。
昼からの講義が休講になったのを幸いに、迎えが来るまでの間だけのつもりで大学を抜け出した。
近くのコーヒースタンドで軽く昼を済ませ、本屋で立ち読みし、CD屋を覗き、新しいアルバムを物色した後、久々に爽快な気分でまた大学に続く道を歩き出した。
背後に誰かの視線を感じた。全神経が危険信号を鳴らし始めた。
城崎は小走りに大学へ向かった。
城崎のすぐ横の道路を車が走りぬけ、先の方で停車した。
車から季節はずれのハーフコートを羽織った男が降り立った。
男は近づいて来るでもなく、じっとこちらに眼を向けていた。
何かしら不気味なものを感じながら城崎は男の前を通り過ぎようとした。
その瞬間、城崎はあっと叫んだ。
背後から突然突き立てられた刃物が城崎の身体を貫いた。
敵は目の前の男ではなく背後から忍び寄っていた。
城崎がそのままその場に倒れこむと男と背後の敵は車に乗って立ち去った。
けたたましい叫び声がして人が集まってきた。
薄れゆく意識の中で透たちの声が確かに聞こえた…。
次回へ
最後に西野からの報告を聞き、あれこれと指示を出した後、修は少しのんびりしたくなって洋館の方へと足を運んだ。
雨あがりの朝にいっせいに花開いた金木犀の香りがあたりに漂っていて、洋館に着く頃には何となく華やいだ気持ちになっていた。
洋館の居間には珍しく笙子の落ち着いた姿があった。
笙子は何か雑誌のようなものを読んでいたが、新しい企画でも考えているのかもしれない。
仕事の邪魔をしないように寝室の方へ引っ込んだ。
ベッドに寝転がって読みかけの本を開くと、仕事中と思っていた笙子が修の手から本を奪った。
「なあに声もかけないで引っ込んじゃって…。 」
「ごめん…。 仕事中だと思ったんだ。 」
修の困ったような顔を見て笙子は笑いながら本を返した。
「どうして史朗ちゃんを使者に使ったの?
長老衆が嫌なら西野さんでもはるさんでも良かったのに…。 」
笙子は修の顔を覗きこんだ。
「史朗という人の紫峰での立場をきちんと示しておく必要があったからだよ。
雅人と違って彼は鬼面川の人だし、両親も兄弟もなくてひとりきりだ。
今は僕やきみがいるからいいけれど、万一僕らがどうにかなってしまったら紫峰も藤宮も史朗を蔑ろにするだろう。
彼がきみの会社を大きくした功労者であることも忘れて。
史朗は僕を愛し、きみを愛し、本当に心から尽くしてくれている大切な人だ。
多分きみは僕と彼の子を生むだろうし、僕はそうなってくれるよう願っている。
彼が紛れもなく、きみや子どもたちに匹敵するほどの僕の家族だということを周りに教えてやったのさ。 」
そう言って修は笑顔を見せた。
ああそれで…というように笙子は頷いた。
「そうね。近いうちに私も藤宮に対して史朗ちゃんの立場をはっきりさせるわ。
私にとって大切なパートナーなんだってことを…。
ふたりに赤ちゃんをプレゼントできるかどうかまでは分からないけど…。 」
幾分寂しそうな笑みを浮かべて笙子は言った。
修は笙子に向かって両の手を広げた。
笙子が躊躇いもなくその腕の中に飛び込んでくると修はしっかりと受け止めた。
「遊ぶの疲れちゃった…。だからそろそろ修と史朗ちゃんだけに限定する。」
笙子がぽつりと呟いた。
「そう…。 そりゃあ親子鑑定が楽でいいや。 」
修はそう言ってからからと笑った。
ま…いつまで続くかは疑問だが…と心の中では思った。
「修は史朗ちゃんの将来と立場まで考えてたのね?
だけど史朗ちゃんは何があろうと何とでも自分でやっていける人でしょ? 」
笙子は不思議そうに訊いた。
「当たり前だ。 一端の男なんだから。 病気だとか何か事情があるとかなら別だけど、やっていけないような奴は相手にはしない。」
修はきっぱりと断言した。
「相手って修…あっちの話? 」
「違います。 仕事の上でも友達でも何でも付き合う場合にってことで…。
どうしてそっちへ行くかなあ…?」
修は天を仰いだ。
笙子は冗談よ…と笑った。
「いくら実力があっても後ろ盾もなしにきみの会社引き継ぐのは大変だぜ。
いまはきみがバックにいるし、使われている方だから文句も出ないが…。
使う側にまわるとなるといろいろあるだろう? 」
「修は最初から史朗ちゃんを高く評価してたもんね。奨学金までだしてあげて。
齢はそれほど離れてないのに親みたいな顔して可愛がってた。 」
「それだけの実力を持つ男だからだよ。 性格も最高だしね。
そうじゃなきゃきみの特別な愛人だなんて絶対に許さない。 」
修の笙子を抱く手に力がこもった。
「修は…彼のこと愛してる? 」
修は一瞬の戸惑いを見せた後、腕の中の笙子に目を向けた。
「今でもよくは分からん。
笙子を愛するように愛せるかと訊かれれば…そいつは無理だな。
好きの感覚がどっか違うような気がするんだ。
突発的と言うか単発的というか持続しないんだよ…。
彼を見ていると、こいつって健気とかほんと可愛いって思う瞬間があってさ。
そういう時はものすごく愛しく感じる。 こいつのこと大好きかも…って。
だけどきみが彼の腕の中にいる時は心の底から憎らしく思えることもある。
それはいつもじゃなくて、ごくたまにだけど…。
そういう時だけはめちゃめちゃに苛めてやりたくなるんだ。
やらないけどね…。 」
「私が修の嫉妬心を煽り立てるようなことばかりしてるものね。
この間、史朗ちゃんにも叱られた。 修の前ではモーションかけるなって…。 」
修は肩をすくめた。
史朗ちゃん…きみはほんとにいい子だと苦笑した。
「僕ってほんと嫌なやつだね。 疑いを知らない天使の前で優しい男を装いながら、心の中ではその羽を毟り取って苦しめようとしている。」
「またそうやって悪ぶる…。 何度も言うようだけどあなたの優しさは本物よ。違うと言うのなら試してみるといいわ。
史朗ちゃんを苛めて御覧なさいよ。 絶対できないから。 」
笙子は自信ありげに断言した。
それにあなたみたいなどこか頓珍漢な人は誰かを苛めに行って逆に助けて帰ってくるのが落ちなのよ…と心の中で呟いた。
大学でも家でも雅人はいつもどおりの生活を送っていたし、バイトも相変わらず続けていた。
デート禁止令が出て以来真貴とは会っていないし、こんな時に真貴と会うのが不謹慎な気もしてちゃんとした説明もしないままに遠ざけていた。
真貴は真貴で雅人の抱えている問題を伝え聞いてはいたが、本人が話したくなるまで待とうと考えていた。
長老衆の一人である祖父が祖母に、本家にとんでもない女を送り込んでしまったと話しているのを、真貴はたまたま耳にしてしまった。
岩松とすれば自分が送り込んだ女が、孫娘の恋人に手を出したことになり、真貴に何と弁解したらいいのか分からないと嘆いていた。
真貴は紫峰家を訪ねて透と隆平に伝言を頼んだ。
「雅人には…その子…私が貰い受けるから安心しなさいと言っといて。 」
「でも真貴…浮気相手の子だよ? 」
透はこの健気ないとこの気持ちを思うと胸が痛んだ。
「はん! 雅人みたいな男と一緒になろうって私がいちいち誰の子彼の子かまってられるかっての。
賭けてもいいけどあいつ…これ一回じゃ終わらんからね。
性懲りもなくまたどっかで悪さして来るに決まってるわ。 」
あっはっはと真貴は豪快に笑い飛ばし、それじゃお願いね…と言って帰っていった。
逞しい…透も隆平も呆気にとられた。
後でその話を聞いた雅人はあいつには敵わねえ…と呟いた。
「未来の奥に後始末してもらうようじゃ俺もたいしたことない男だねえ。
あいつには一生頭あがんないかも…。 」
そう言ってにやっと笑った。
閉じ込められ、監視されてから二週間、無事何事もなく過ごした城崎は、自由の利かない生活に嫌気がさしていた。
犯人はきっと俺を大ぼらふきと思ってんだぜ。いいじゃないそんならそれでさ。
不安がなかったわけではないが城崎はいい方に解釈することにした。
昼からの講義が休講になったのを幸いに、迎えが来るまでの間だけのつもりで大学を抜け出した。
近くのコーヒースタンドで軽く昼を済ませ、本屋で立ち読みし、CD屋を覗き、新しいアルバムを物色した後、久々に爽快な気分でまた大学に続く道を歩き出した。
背後に誰かの視線を感じた。全神経が危険信号を鳴らし始めた。
城崎は小走りに大学へ向かった。
城崎のすぐ横の道路を車が走りぬけ、先の方で停車した。
車から季節はずれのハーフコートを羽織った男が降り立った。
男は近づいて来るでもなく、じっとこちらに眼を向けていた。
何かしら不気味なものを感じながら城崎は男の前を通り過ぎようとした。
その瞬間、城崎はあっと叫んだ。
背後から突然突き立てられた刃物が城崎の身体を貫いた。
敵は目の前の男ではなく背後から忍び寄っていた。
城崎がそのままその場に倒れこむと男と背後の敵は車に乗って立ち去った。
けたたましい叫び声がして人が集まってきた。
薄れゆく意識の中で透たちの声が確かに聞こえた…。
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