「これといって…特におかしな写真はないよ。 下手なだけで…。 」
預かっていた写真フォルダーを渡しながら滝川はノエルに言った。
やっぱ…だめか…。 残念そうな顔をしてノエルは溜息をついた。
「ただ…最後の写真は…巨石を写そうとしたんじゃないことは確かだね…。
この人の写真の撮り方を見ていると…写したいものをど真ん中に持ってくる癖があるんだよ…。
最後の写真を見てみると…石は随分端っこにあるだろ…?
この石と一緒に写したい何かが…この空間の部分に見えたってことだね…。 」
そっか~。 まあ…そんな程度でいいや…三宅に話してやるのは…。
その場所に他の人には見えないものが見えたんじゃないかって…そういうことにしておこう。
「有難う先生…。 助かっちゃった…。 」
なんの…どういたしまして…滝川は笑いながら答えた。
居間の方にはそろそろみんなが集まり始めている。
急に入った仕事の都合で参加できなくなった旭と輝以外には…後は英武が来るのを待つだけ…。
桂先生…コーヒーはまだ無理ですよね…? 亮がみんなに飲み物を配りながら桂に声をかけた。
宜しければ…薄めのお茶を頂けるかしら…? ごめんなさいねぇ…お手数かけてしまって…。 桂は申し訳なさそうに答えた。
多少食事制限は残っているものの、ほぼ直前まで胃潰瘍で入院していたとは思えないほど桂は元気が良い。
時々…胃が痛んだりしてたのよ…。 でも…潰瘍ができてるなんてねぇ…。
そこまで痛いとは思わなかったから…鈍感なのかしらねぇ…。
長い艶やかな黒髪を盆の窪辺りで束ねて綺麗な花飾りで留めてある。
もともと細いわりには活力に溢れた人なので、病気の治りも体力の回復も人並み以上に良好だったようだ。
構いませんよ…お茶ですね…。 そう言って亮はキッチンへ戻って行った。
仕事を終えた英武が到着したところで、桂に先入観を持たせないために、まずは桂が見たものから調べてみることになった。
勿論…桂自身にはその時の記憶はまったくない。
来られなかった輝に代わって怜雄が位山での出来事を読むことになった。
怜雄は英武と違って物や身体に触れる必要が無いので、相手が女性の場合でも気を使わなくて済む。
怜雄は今日…桂と会った直後から、入院していた桂の身体の具合を訊いたり世間話などをして、すでにだいたいの状況を読み取っていた。
「全部を回る時間も無かったので…私たちは神社のところから山頂を目指し…山頂まで行って戻ってくるコースを選んだの。
行きはよいよい帰りは怖い…運動不足がたたって帰り道で転げてしまって…。
友だちが言うには何だか急にぼけっと何処やらを見つめていたそうなんだけれど…覚えてないのよ。 」
桂は少しばかり恥かしそうに頬染めてそう話した。
みんなの眼が怜雄に集まった。
「転げたのは…登山中と伺いましたが…これは鳥居あたりですね…?
ちょうど登山を終えられて入り口付近へ戻られたところで怪我をなさった…。
よほどお疲れだったとみえる…足が少しガクガクしている…。
ようやく戻って来たと…今来た道を何となく振り返った…。
おやまあ…これから…山頂を目指していく人たちが居るわ…。
あら…でも…何時の間にあの人たちと擦れ違ったのかしら…?
よく見ると…あまり見たことのないような出で立ちの人々で…山歩きに来たとは到底思えない。
奥のスキー場の方で何かのお祭りでもあるのかしら…。
でも…まさかねぇ…この季節に…こんな時間から…?
時計を見ながら…もう一度その人たちの方を窺う…。
おかしいわねぇ…そう思いながら再び前を向いて歩き出した…。
ふと顔を上げると正面に大勢の人がこちらを見つめている…。
こちらというよりは…さっき見た人たちの方を…。
えっ…何…何があるの…?
もう一度そちらを見ようとして…振り返りざまに疲れきった足が縺れて…仰向けに転倒…。
これは痛かったでしょうな…後頭部を打撲…異常がなくて幸いでした…。 」
怜雄が再現するのを頷きながら聞いていた桂は…まるで他人事のように…う~ん…そんなことがあったのねぇ…と感心したように言った。
「確かに…見たような気がするけど…夢と区別がつかないのよね…。
大方の人は夢だと思ってるわね…きっと…。 」
夢ねぇ…。
普通の人たちが事故に疑問を持たないのは…そのせいかもしれないな…。
日常の疲れから生じた白昼夢…それで納得しているのかも…西沢はそう思った。
「磯見くんの場合は…もっと不思議だよ…。 目の前に広がる海原がちゃんとした陸地…それも広大な都市に見えていたんだ。
向こうの方に大きな神殿のようなものとか…よく分からない形の建造物が建っていて…そこを中心にして街が広がっていた。
そこが何処なのかは分からない…磯見くん自身の記憶からも何も読み取れない。
ただ…彼の中にノスタルジアみたいなものを感じたよ。
何か催しでもあるのか…街の人々が神殿らしきものの方へ歩いていくのを見て…磯見くんは思わず一歩を踏み出した。」
そして…ボチャンッと海へ落っこちたわけだ…。
ますます複雑になってきたな…。
桂は…不思議なものを見たというだけで…懐かしさを感じていなかった。
磯見は…おそらくその風景に既視感があった。
その違いは何処から来るのか…。
「自分の記憶か…他の何かの記憶かの違いだな…。 」
怜雄が西沢の疑問に答えるように言った。
あ…そうか…と西沢は頷いた。
「何…それ…? 」
ノエルが首を傾げた。
「何かのきっかけで自分の中にある記憶が目覚めたのか…無意識に自分以外の何かの記憶を読んだか…の違いってことだよ…ねぇ? 」
亮が訊いた。
「そう…桂先生の場合はおそらく…その土地の持つ記憶を読み取ったんだ。
ハイキングなんかで長時間歩くと身体は疲れているのに気持ちはすごく高揚して、感覚が研ぎ澄まされてくることがあるだろ…?
そこにふいに…その土地の持つ記憶が入り込んだ。
無意識だったから…先生も何が起こったのか分からずにぼんやりされた。
体調が悪い上に疲れ切っていたから…突然のできごとに戸惑われたんだ…。 」
怜雄はやんわりと桂の立場を擁護した。
桂はにっこりと微笑んだ。
ああ…つまり…自分で自分の力に驚いたってことかぁ…ノエルは胸の中でにんまりと笑った。
違います! 土地の意識が入り込んだの…。 能動的に力を使ってたわけじゃないわ。 そこまでひどくはないわよ…と桂が睨んだ。
聞こえちゃったぁ…ってか読まれちゃった。
ノエルはちろっと舌を出した。
クスッと桂が笑った。
あちらこちらでクスクス笑いが起こってノエルは怪訝そうに辺りを見回した。
あなたには負けるわ…無邪気というか…何というか…。
そういうキャラもいけるかもねぇ…。 今度使ってみようかしら…。
「…話を本題に戻すと…磯見の場合には…自分の記憶には違いないんだが…自分で実際に見たり体験したりした過去の記憶ではないと思うんだ…。
もっと…潜在的なもの…例えば…細胞レベルで…或いは遺伝子レベルで保存されている遠い過去の記憶…。
さらに非科学的なことまで考慮に入れるとすれば生まれ変わりなども考えられるが…まあ…それはおいといて…。
それが何かのきっかけで突然目の前に浮かんだ…。
突然のことで…本人にはまるきり何も分からないわけだから夢や幻を見ているような状態になる。
磯見のように海が陸地に見えれば…ドボンッ!
そんなとこだろ…怜雄…? 」
西沢が自分の見解を述べた。
まあ…そんなもんだ…と怜雄が答えた。
「問題は…そのきっかけが何だったか…ってことだな…?
磯見くんの件だけならともかく…全国的だぜ…。
僕の聞いたところじゃ…あっちこっちで噂話が出来上がってる…。
呪われた遺跡だの何だのって怪談話が…ね。 」
滝川がそう言って肩を竦めた。
そっちゃの方向へ向かっちゃってるわけよ…話が…。
「国際的だよ…。 親父が言ってた。 海外でもそんな小さな事件が起こってるんだって…。 あんまり小さ過ぎてニュースにもならないんだけど…。 」
亮が有から聞いた話をした。
ニュースには…ならんわなぁ…。 ぼんやりした人がこけたとか…迷子になるとこだったなんて話は…。
結果的には…真面目に考えている僕等の方が馬鹿だってことになるかもしれないような小さな出来事の積み重ねに過ぎないんだからね…。
それが事件であるという確かな証拠は何処にもない。
西沢やその仲間たちを駆り立てる不安以外には…何かが起きているという予感めいた思いに何の根拠もない。
「とにかく…あまりに漠然とした話なんで…まだ…どう動いていいかも分からない状態…だね…。
遺伝子レベルでの記憶が…なんて説明したところで…他の家門の人には何をわけの分からんことをと一笑に付されるのが落ちだからねぇ…。 」
英武が溜息をついた。
裁きの一族が動き出せば別だけれど…このくらいのことじゃあ…ねぇ…。
ふいに玄関のチャイムが鳴った。
ノエルが出て行くと…ドアの向こうに箱を抱えた小さな男の子が立っていた。
「パパ来てますかぁ? 」
パパ…? ノエルは首を傾げた。
ちょっと待っててね…と坊やに言ってから居間の方に顔を出した。
「あのねぇ…小さな坊やがパパを捜しに来てるんだけど…? 」
あ…僕だ…と怜雄が立ち上がった。 パパ…? ノエルの目が点になった。
やがて坊やを抱えて怜雄が戻ってきた。
「おや…有理(ゆうり)…お使いかい? 」
坊やは西沢に箱を渡した。 ママのケーキです…どうぞ…。
西沢は微笑んでわざと坊やの前で箱を開けて見せた。
「おいしそうなチェリーケーキだねぇ…有理偉いね…。 お使い有難う…。
今…有理にも分けてあげるね…。 」
坊やは嬉しそうにうんと頷いた。
「怜雄…奥さんいたんだ…。 知らなかった…。 」
ノエルがこそっと亮に耳打ちした。
僕も…と亮が頷きながら言った。
「奥さんどころか…有理の上に恵(メグ)って小学生の女の子が居るよ。
こいつ学生結婚だったからね。 」
滝川が笑った。
西沢が皿を持ってきて坊やのお土産を切り分けた。
西沢はまず…桂を始めとする大人から順に配った。
坊やはじっと待った。
西沢の皿を持つ手が坊やの前にやっと差し出されると…よほど待ち遠しかったと見えてにっこり笑った。
「さあ…有理…どうするんだっけ…? 」
西沢が訊ねると坊やはしっかりした声で大人たちに言った。
「ママのケーキです…。 どうぞ…食べてください…。 」
はい…頂きます…と桂が微笑みながら答えた…。
坊やはその声にまたにこっと笑った。
坊やの出現でその場の空気が和んだ。
怜雄の坊やを見つめる西沢の眼差しが本当に温かで…ノエルは切なかった。
紫苑さん…やっぱり…子ども欲しいんだ…。
輝さん…どうして嫌がるのかなぁ…? 子ども嫌いなのかなぁ…?
家門を持たないノエルには西沢と輝の背後にある複雑な事情を想像することさえできなかった。
好き嫌いだけではどうにもならないこともある…。
感情だけでは動けない…むしろ感情を捨てなければならないことの方が多い…家門を背負うとはそういうことだと…。
西沢もそれについては敢えて口に出すようなことはしなかったけれど…。
次回へ
預かっていた写真フォルダーを渡しながら滝川はノエルに言った。
やっぱ…だめか…。 残念そうな顔をしてノエルは溜息をついた。
「ただ…最後の写真は…巨石を写そうとしたんじゃないことは確かだね…。
この人の写真の撮り方を見ていると…写したいものをど真ん中に持ってくる癖があるんだよ…。
最後の写真を見てみると…石は随分端っこにあるだろ…?
この石と一緒に写したい何かが…この空間の部分に見えたってことだね…。 」
そっか~。 まあ…そんな程度でいいや…三宅に話してやるのは…。
その場所に他の人には見えないものが見えたんじゃないかって…そういうことにしておこう。
「有難う先生…。 助かっちゃった…。 」
なんの…どういたしまして…滝川は笑いながら答えた。
居間の方にはそろそろみんなが集まり始めている。
急に入った仕事の都合で参加できなくなった旭と輝以外には…後は英武が来るのを待つだけ…。
桂先生…コーヒーはまだ無理ですよね…? 亮がみんなに飲み物を配りながら桂に声をかけた。
宜しければ…薄めのお茶を頂けるかしら…? ごめんなさいねぇ…お手数かけてしまって…。 桂は申し訳なさそうに答えた。
多少食事制限は残っているものの、ほぼ直前まで胃潰瘍で入院していたとは思えないほど桂は元気が良い。
時々…胃が痛んだりしてたのよ…。 でも…潰瘍ができてるなんてねぇ…。
そこまで痛いとは思わなかったから…鈍感なのかしらねぇ…。
長い艶やかな黒髪を盆の窪辺りで束ねて綺麗な花飾りで留めてある。
もともと細いわりには活力に溢れた人なので、病気の治りも体力の回復も人並み以上に良好だったようだ。
構いませんよ…お茶ですね…。 そう言って亮はキッチンへ戻って行った。
仕事を終えた英武が到着したところで、桂に先入観を持たせないために、まずは桂が見たものから調べてみることになった。
勿論…桂自身にはその時の記憶はまったくない。
来られなかった輝に代わって怜雄が位山での出来事を読むことになった。
怜雄は英武と違って物や身体に触れる必要が無いので、相手が女性の場合でも気を使わなくて済む。
怜雄は今日…桂と会った直後から、入院していた桂の身体の具合を訊いたり世間話などをして、すでにだいたいの状況を読み取っていた。
「全部を回る時間も無かったので…私たちは神社のところから山頂を目指し…山頂まで行って戻ってくるコースを選んだの。
行きはよいよい帰りは怖い…運動不足がたたって帰り道で転げてしまって…。
友だちが言うには何だか急にぼけっと何処やらを見つめていたそうなんだけれど…覚えてないのよ。 」
桂は少しばかり恥かしそうに頬染めてそう話した。
みんなの眼が怜雄に集まった。
「転げたのは…登山中と伺いましたが…これは鳥居あたりですね…?
ちょうど登山を終えられて入り口付近へ戻られたところで怪我をなさった…。
よほどお疲れだったとみえる…足が少しガクガクしている…。
ようやく戻って来たと…今来た道を何となく振り返った…。
おやまあ…これから…山頂を目指していく人たちが居るわ…。
あら…でも…何時の間にあの人たちと擦れ違ったのかしら…?
よく見ると…あまり見たことのないような出で立ちの人々で…山歩きに来たとは到底思えない。
奥のスキー場の方で何かのお祭りでもあるのかしら…。
でも…まさかねぇ…この季節に…こんな時間から…?
時計を見ながら…もう一度その人たちの方を窺う…。
おかしいわねぇ…そう思いながら再び前を向いて歩き出した…。
ふと顔を上げると正面に大勢の人がこちらを見つめている…。
こちらというよりは…さっき見た人たちの方を…。
えっ…何…何があるの…?
もう一度そちらを見ようとして…振り返りざまに疲れきった足が縺れて…仰向けに転倒…。
これは痛かったでしょうな…後頭部を打撲…異常がなくて幸いでした…。 」
怜雄が再現するのを頷きながら聞いていた桂は…まるで他人事のように…う~ん…そんなことがあったのねぇ…と感心したように言った。
「確かに…見たような気がするけど…夢と区別がつかないのよね…。
大方の人は夢だと思ってるわね…きっと…。 」
夢ねぇ…。
普通の人たちが事故に疑問を持たないのは…そのせいかもしれないな…。
日常の疲れから生じた白昼夢…それで納得しているのかも…西沢はそう思った。
「磯見くんの場合は…もっと不思議だよ…。 目の前に広がる海原がちゃんとした陸地…それも広大な都市に見えていたんだ。
向こうの方に大きな神殿のようなものとか…よく分からない形の建造物が建っていて…そこを中心にして街が広がっていた。
そこが何処なのかは分からない…磯見くん自身の記憶からも何も読み取れない。
ただ…彼の中にノスタルジアみたいなものを感じたよ。
何か催しでもあるのか…街の人々が神殿らしきものの方へ歩いていくのを見て…磯見くんは思わず一歩を踏み出した。」
そして…ボチャンッと海へ落っこちたわけだ…。
ますます複雑になってきたな…。
桂は…不思議なものを見たというだけで…懐かしさを感じていなかった。
磯見は…おそらくその風景に既視感があった。
その違いは何処から来るのか…。
「自分の記憶か…他の何かの記憶かの違いだな…。 」
怜雄が西沢の疑問に答えるように言った。
あ…そうか…と西沢は頷いた。
「何…それ…? 」
ノエルが首を傾げた。
「何かのきっかけで自分の中にある記憶が目覚めたのか…無意識に自分以外の何かの記憶を読んだか…の違いってことだよ…ねぇ? 」
亮が訊いた。
「そう…桂先生の場合はおそらく…その土地の持つ記憶を読み取ったんだ。
ハイキングなんかで長時間歩くと身体は疲れているのに気持ちはすごく高揚して、感覚が研ぎ澄まされてくることがあるだろ…?
そこにふいに…その土地の持つ記憶が入り込んだ。
無意識だったから…先生も何が起こったのか分からずにぼんやりされた。
体調が悪い上に疲れ切っていたから…突然のできごとに戸惑われたんだ…。 」
怜雄はやんわりと桂の立場を擁護した。
桂はにっこりと微笑んだ。
ああ…つまり…自分で自分の力に驚いたってことかぁ…ノエルは胸の中でにんまりと笑った。
違います! 土地の意識が入り込んだの…。 能動的に力を使ってたわけじゃないわ。 そこまでひどくはないわよ…と桂が睨んだ。
聞こえちゃったぁ…ってか読まれちゃった。
ノエルはちろっと舌を出した。
クスッと桂が笑った。
あちらこちらでクスクス笑いが起こってノエルは怪訝そうに辺りを見回した。
あなたには負けるわ…無邪気というか…何というか…。
そういうキャラもいけるかもねぇ…。 今度使ってみようかしら…。
「…話を本題に戻すと…磯見の場合には…自分の記憶には違いないんだが…自分で実際に見たり体験したりした過去の記憶ではないと思うんだ…。
もっと…潜在的なもの…例えば…細胞レベルで…或いは遺伝子レベルで保存されている遠い過去の記憶…。
さらに非科学的なことまで考慮に入れるとすれば生まれ変わりなども考えられるが…まあ…それはおいといて…。
それが何かのきっかけで突然目の前に浮かんだ…。
突然のことで…本人にはまるきり何も分からないわけだから夢や幻を見ているような状態になる。
磯見のように海が陸地に見えれば…ドボンッ!
そんなとこだろ…怜雄…? 」
西沢が自分の見解を述べた。
まあ…そんなもんだ…と怜雄が答えた。
「問題は…そのきっかけが何だったか…ってことだな…?
磯見くんの件だけならともかく…全国的だぜ…。
僕の聞いたところじゃ…あっちこっちで噂話が出来上がってる…。
呪われた遺跡だの何だのって怪談話が…ね。 」
滝川がそう言って肩を竦めた。
そっちゃの方向へ向かっちゃってるわけよ…話が…。
「国際的だよ…。 親父が言ってた。 海外でもそんな小さな事件が起こってるんだって…。 あんまり小さ過ぎてニュースにもならないんだけど…。 」
亮が有から聞いた話をした。
ニュースには…ならんわなぁ…。 ぼんやりした人がこけたとか…迷子になるとこだったなんて話は…。
結果的には…真面目に考えている僕等の方が馬鹿だってことになるかもしれないような小さな出来事の積み重ねに過ぎないんだからね…。
それが事件であるという確かな証拠は何処にもない。
西沢やその仲間たちを駆り立てる不安以外には…何かが起きているという予感めいた思いに何の根拠もない。
「とにかく…あまりに漠然とした話なんで…まだ…どう動いていいかも分からない状態…だね…。
遺伝子レベルでの記憶が…なんて説明したところで…他の家門の人には何をわけの分からんことをと一笑に付されるのが落ちだからねぇ…。 」
英武が溜息をついた。
裁きの一族が動き出せば別だけれど…このくらいのことじゃあ…ねぇ…。
ふいに玄関のチャイムが鳴った。
ノエルが出て行くと…ドアの向こうに箱を抱えた小さな男の子が立っていた。
「パパ来てますかぁ? 」
パパ…? ノエルは首を傾げた。
ちょっと待っててね…と坊やに言ってから居間の方に顔を出した。
「あのねぇ…小さな坊やがパパを捜しに来てるんだけど…? 」
あ…僕だ…と怜雄が立ち上がった。 パパ…? ノエルの目が点になった。
やがて坊やを抱えて怜雄が戻ってきた。
「おや…有理(ゆうり)…お使いかい? 」
坊やは西沢に箱を渡した。 ママのケーキです…どうぞ…。
西沢は微笑んでわざと坊やの前で箱を開けて見せた。
「おいしそうなチェリーケーキだねぇ…有理偉いね…。 お使い有難う…。
今…有理にも分けてあげるね…。 」
坊やは嬉しそうにうんと頷いた。
「怜雄…奥さんいたんだ…。 知らなかった…。 」
ノエルがこそっと亮に耳打ちした。
僕も…と亮が頷きながら言った。
「奥さんどころか…有理の上に恵(メグ)って小学生の女の子が居るよ。
こいつ学生結婚だったからね。 」
滝川が笑った。
西沢が皿を持ってきて坊やのお土産を切り分けた。
西沢はまず…桂を始めとする大人から順に配った。
坊やはじっと待った。
西沢の皿を持つ手が坊やの前にやっと差し出されると…よほど待ち遠しかったと見えてにっこり笑った。
「さあ…有理…どうするんだっけ…? 」
西沢が訊ねると坊やはしっかりした声で大人たちに言った。
「ママのケーキです…。 どうぞ…食べてください…。 」
はい…頂きます…と桂が微笑みながら答えた…。
坊やはその声にまたにこっと笑った。
坊やの出現でその場の空気が和んだ。
怜雄の坊やを見つめる西沢の眼差しが本当に温かで…ノエルは切なかった。
紫苑さん…やっぱり…子ども欲しいんだ…。
輝さん…どうして嫌がるのかなぁ…? 子ども嫌いなのかなぁ…?
家門を持たないノエルには西沢と輝の背後にある複雑な事情を想像することさえできなかった。
好き嫌いだけではどうにもならないこともある…。
感情だけでは動けない…むしろ感情を捨てなければならないことの方が多い…家門を背負うとはそういうことだと…。
西沢もそれについては敢えて口に出すようなことはしなかったけれど…。
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