2月15日の午前中に、青森市幸畑にある八甲田山雪中行軍遭難資料館に出かけました。
仮死状態で生き残った後藤房之介伍長の大きな銅像(レプリカ)がありました。
展示は1階の1つの部屋にまとめられ、わかりやすいものとなっていました。
まず驚いたことは、犠牲者は青森出身者よりも岩手出身者が多かったということでした。
第5連隊は青森高校のところにあったため、犠牲者のほとんどは青森出身者だと思い込んでいたんですね。
2月15日の午前中に、青森市幸畑にある八甲田山雪中行軍遭難資料館に出かけました。
仮死状態で生き残った後藤房之介伍長の大きな銅像(レプリカ)がありました。
展示は1階の1つの部屋にまとめられ、わかりやすいものとなっていました。
まず驚いたことは、犠牲者は青森出身者よりも岩手出身者が多かったということでした。
第5連隊は青森高校のところにあったため、犠牲者のほとんどは青森出身者だと思い込んでいたんですね。
100年以上経っても、あるいは経ったから「新事実」が出てきたりするので、よく考えてみたいと思います。
青森出身の婆さんの視点から、ということで。
しかし、戦争を重ねるたびに
もやもやしたものが残っていくことになったのかもしれません。
これは他の国でも同じ事であったはず。
主人と友人のようになったインデアンだという米兵は朝鮮戦争で亡くなった・・・・
戦争の見逃しがちな残酷さというものを感じてしまいます。
日露戦争の前線で何を見て何を感じたのか、そういった読み方をあまりしてこなかった・・・・
ドイツの恋人のほうに関心が寄せられたりして?