善知鳥神社には死節碑と海軍の碑が並んでいます。
死節碑は、西南戦争戦没者慰霊のため1878年(明治11年)に建てられたとのこと。
1882年(明治15年)森鴎外が訪れています。
海軍の碑は1986年(昭和61年)に建てられたそうです。
それにしても烏頭が善知鳥に変わったのはなぜ?
善知鳥について Wikipediaでは こちら
室町時代の(一説には世阿弥作の)能の演目でその名前が知られたとか。
陸奥湾沿岸の外ヶ浜については こちら
西行や藤原定家の歌に取り上げられていた、ということもあっての「善知鳥」なんでしょうか。
今の長野県塩尻市に善知鳥峠という地名があるのが気になります。
このあたりでは南北朝時代に桔梗ヶ原の戦いというものがあったようです。→ こちら
芭蕉の「おくのほそ道」に随行したのは曽良でした。→ こちら
宗良親王の行方について示したいということでもあったのでしょうか。
南北朝問題は、日本にとってずっと深層にあるもののようです。
見えないところで煽られて戦争への道に踏み込まないようにするべきだと思います。