江戸の内

2012年04月19日 | 
本郷も かねやすまでは 江戸の内
なんてぇ川柳がございまいて。

この「かねやす」てぇのは、小間物屋、
今で申しますてぇと、雑貨屋さんなんでございますな。

もともと京の都で口中医、つまり歯医者をしていたんですが
家康さんの入府にあわせて、この江戸へ出てめぇりやして
乳散香てぇものを売り出した。
これは、何かと申しますてぇと、歯磨き粉のことでございまして
これが江戸の連中に爆発的に売れまして大繁盛。

ところが、いつの世も大店になりますと
内紛なんぞがおこりまして
当主の弟が暖簾分けで芝神明前に店をだしまして
結局「うちが元祖だ」なんてぇ喧嘩をおっぱじめちまいまして
時の町奉行、御案内でございます大岡忠相様が
仲裁処分をくだしたわけでございます。

今で申しますところの商標をめぐる裁判なわけでございますな。

で、どうなったのかと申しますと
芝は、元々の「兼康」、本郷を「かねやす」とせよ
なんてぇ、粋なお裁きをいたしました。

最初の川柳にあるように
1700年代ごろは本郷までが「江戸」なんてぇ認識だったようでございますが
度重なる大火や人口増加でどんどん江戸の範囲が広がりまして
1800年代には本郷よりも更に先、駒込染井あたりまでを墨引き
王子瀧ノ川三軒家あたり、板橋宿近辺までを朱引きとして
江戸の内に入れることになったわけでございます。

ちなみに、東海道方面では
当初、芝・高輪あたりまでが江戸。
時代が下りますてぇと御殿山までを墨引き
品川宿あたりまでを朱引きにしたようですな。


かねやすのございます本郷3丁目交差点を境に
都心側にはビルが立ち並び
東大側は一気にビルが減るのは
そんな、江戸時代からの事情もあるのかもしれません。


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