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飛鳥山あたり

2015年03月31日 | 
(飛鳥山公園)

德川吉宗によって、江戸市民の行楽地として整備された飛鳥山公園は
現代の都民にとっても、花見の名所でもあります。

(飛鳥山と都電)

石神井川の旧流路に作られた音無親水公園にも桜が植えられ
飛鳥山公園と同じように花見客で賑わっています。

(音無親水公園)

普段は並ばずに乗れる斜行エレベーター「アスカルゴ」も
かなり待たないと乗れないようです。

(アスカルゴ)

この季節は、地方から上京してきた、北区への転入者も多いので
音無親水公園に架かる音無橋の袂、北区役所も大混雑。

(音無橋)

王子駅周辺は、一年の内で一番賑わっています。

(北とぴあから見た飛鳥山公園)

神田川

2015年03月30日 | 


神田川は、三鷹市の井の頭池を水源と
する現延長24.6kmの河川。
現在は隅田川水系の河川だが、江戸時代以前は平川(平河)という単独河川で
そのまま日比谷入江に流れ込んでいた。

(井の頭池)

桃園川や善福寺川、妙正寺川などの支流を集めたあと、高田と戸塚の間を流れ
椿山荘の谷からの水が合流するすぐ下流で、江戸時代に神田上水が分流された。

(椿山荘内の流れ)

(椿山下)

分水堰のあった付近は、現在「関口」と呼ばれ、
川はこれより飯田橋付近まで「江戸川」と呼ばれた。

(分水堰付近)

(大洗堰由来碑)

分流付近には大滝とよばれる滝が過去にはあり、
現在でも満潮時にはこの付近まで東京湾の海水が遡上してくる。

(大滝付近)

(江戸川橋)

(左の道が上水道、右が本流)

池袋からの2つの流れ、弦巻川と水窪川を江戸川橋で合流すると
高速道路の下を流れながら、途中で90度のカーブで右折し南下する。
この付近を大曲というが、江戸時代以前は白鳥池と呼ばれる大きな池が
この付近にあったとされている。

飯田橋で江戸城外濠と合流するが、本来の流れはそのまま現在の首都高下を南下し
一ツ橋付近で小石川と合流したのちに平川として
現在の大手濠付近を流れて日比谷入江に流れていた。

德川家康入府以降は、平川の流れを濠として利用し、和田倉門付近から道三堀を掘り
洪水対策と江戸城の護りを固め、さらには神田山に人工河道を開削し
新たに神田川として河口を隅田川(当時は大川と呼ばれた荒川本流)に付け替え
平川は埋めたてて分離することで江戸市内の洪水を制した。

(江戸城平川門)

のちに平川を再度開削し、逆に道三堀を埋めたてて日本橋川を水路とした。
飯田橋より下流は斯様にして、人工開削と埋めたてが繰り返された
河川土木工事の歴史が詰まった川なのである。

また昭和の人間は、神田川といえば洪水を思い浮かべる。
平成に入ってから、それどころか21世紀に入ってからも
何度か洪水を起こしているが、そのために中流域では分水路が作られ、
洪水のリスクを軽減する策が練られている。

面影橋と山吹の里

2015年03月29日 | 
面影橋は、神田川に架かる橋で、都電の停留所名にもなっている。
その名の由来は諸説あり、また「姿見の橋」という名が
この橋の別名である説、否それは別の橋である、という説など
今ひとつはっきりしないことの多い橋でもある。

この橋は、古道のひとつである鎌倉街道上の橋でもある。

(面影橋)

橋の北側、豊島区高田は太田道灌ゆかりの「山吹の里」とされ
橋のたもとに山吹の里の碑が建ち、少し離れて
豊島区立山吹の里公園がある。

(山吹の里の碑)

(山吹の里公園)

公園には
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」
の歌が刻まれた石碑が建っている。

(歌碑)

(説明板)

面影橋周辺は現在、桜が咲き誇っている。

(都電 面影橋停留所と桜)

被災地のこと 番外編 神戸

2015年03月22日 | 
今を去ること20年前、海と山に挟まれた風光明媚な大都市、神戸が未曾有の震災に見舞われた。

朝、起き抜けにテレビを点けると、神戸の街のあちらこちらから煙が立ち昇っていた。

まだ、夢の中にいるのかと錯覚するほど、この世の光景とは思えない画だった。
どのチャンネルに回しても、同じような画面で、これが映画ではなく現実の「今」なんだと気付いた。

ビルは傾き、高速道路は倒れ、商店街からは火柱が上がった。

全国から警察や消防、自衛隊の隊員たちが救助に駆けつけた。
神戸に本部のある有名な極道の人たちも、率先して炊き出しを行っていた。
当時、動かなかったのは首相官邸だけとも言われた。

この時の警察や消防、自衛隊の人たちは、「官」としてではなく、一人一人の人間として活動した。
一人でも多くの人を救うため、住民と一丸となって活動した。
それは、その後の災害でも活かされた。

復興した神戸の街は、昔とかわらず活気に溢れている。
震災を知らない世代が成人になった。

3.11の震災では、神戸からも多くの援助や応援、祈りの声が
東北地方へ向けられた。

いま、神戸近郊の山に登ると、宝石を散りばめたような夜景が広がっている。
かつてこの街を襲った災害が、まるで嘘のように復興を遂げた。
美しい夜景は、失われた魂たちへの献灯のように今日も輝いている。



被災地のこと 山田線

2015年03月21日 | 
JR山田線は岩手県内陸の県庁所在地、盛岡から東行し、
三陸海岸の宮古からはリアス式海岸沿いを鉄の街、釜石まで南下する
延長157.5kmのローカル線である。



震災では、宮古・釜石間の沿線55.4kmのうち、21.7kmが津波で浸水し
駅舎や鉄橋、盛り土が破壊され流された。
(トンネルは無事であった)

(大槌駅)

沿線には、井上ひさしの「吉里吉里人」の舞台になっている大槌町の「吉里吉里駅」がある。

(吉里吉里駅)

震災前の車窓には、眼下の集落を守る為の高い防潮堤が目についた。
しかし、その防潮堤すら、津波は越えてしまったのだ。

(津波防波堤が見えたかつての車窓)

4年経ったいまでも、宮古から釜石の区間は不通が続いている。
しかし、今年3月に復旧工事が始まり、2018年度までに
三陸鉄道の路線として再開業させる計画である。

(釜石駅の山田線と三陸鉄道)

被災地のこと 奇跡の一本松 後編

2015年03月20日 | 
10m以上という、想像を絶する津波にも耐えた後、根が腐り始めていた
唯一本の松の樹は、色々な施策も功を得ず、最終的に一旦伐採したのちに防腐処理をし、金属製心棒を通して
元の場所に戻すという方法によって後世に遺されることになった。



付近では、街の高台移転の工事が進んでいて、土砂運搬のトラックが多く行き交う。



その道路には、津波で曲げられた道路標識や倒された木が所々に残っている。



道の駅があった場所の正面には追悼施設が作られている。



松原のそばには、土産物屋が復活して、BRTのバス停もある。
自家用車で観光に来る人が多く、まだまだBRTも空いているが
バス車両もガラスルーフに海側向き座席の車両を導入するなど
もっと観光に来て欲しいという姿勢が現れている。



荒涼とした風景は、この一本の松が残っていなければ、
立ち直ることができなかったんじゃないかと思う位に、
悲しい風景であった。




被災地のこと 奇跡の一本松 前編

2015年03月19日 | 
岩手県沿岸南部、陸前高田市には、かつて高田松原という
7万本もの松が植えられた松原があった。

あの日、この街を襲った大きな揺れと、その後、海からやってきた大きな黒い波が
家も車も人も、そして松の木も流していってしまった。



あとに遺されたのは、ひしゃげた標識、流されたコンクリートブロック、破壊された建物、そして悲しみだけだった。



しかし、その中に一本だけ、松原の松が立って残っていた。
おそらくは、背後の陸前高田ユースホステルが、10m以上もあった津波の威力を和らげたのだろう
奇跡的にこの松だけが残った。



そして「奇跡の一本松」と呼ばれるようになった。

しかし、地震によって地盤が沈下したこの場所に生える松の寿命はすでに消えかかっていた。
根が海水によって腐りはじめていたのだった。

被災地のこと 気仙沼 後編

2015年03月18日 | 
気仙沼は今、次第に観光客を取り戻しつつある。
残念なのは、外国人観光客の少なさと、平日の観光客の少なさ。
もっともこれは震災前もそうではあったのだが…。

気仙沼の復興市場の人は
「物見遊山でいいんだよ。来てくれて、うまいもん食ってもらって、“美味しい”って言ってくれりゃ、それだけで嬉しんだよ。」
と言う。

気仙沼産のフカヒレは、中国人や台湾人も買い求める、上級品なのである。

(あたみ屋のフカヒレラーメン)

駅から漁港までは、1.5kmほどあるので、ちょっと不便に感じるかもしれないが
駅前にはレンタサイクルもある。

(駅から漁港へ向かう途中に市役所がある)

港からみる風景は、典型的な「日本の漁港」の風情が残っていて
今にも寅さんが歩いて来そうな、そんな街並みだ。



復興途上で、悲しみと力強さが同居している気仙沼は
観光客が来れば来るほど力強くなれそうである。

ちなみに気仙沼は冷蔵庫創業の地でもある。マニアにはたまらない蛇足の情報。



被災地のこと 福島

2015年03月15日 | 
地理好きや気象好きなら、当然ご案内ではあるが
福島県は「会津」「中通り」「浜通り」の3つの地域に分けられる。

会津は、猪苗代湖や磐梯山、会津若松といった西側山間部、
中通りは福島市などの盆地を中心とした東北本線沿線の中央部、
浜通りは東側沿岸部である。

福島の震災は津波と原発による被害以上に、風評被害が大きい。
原発反対派と自称する人達による流言飛語や言葉のレトリックによって、
福島の多くの農林水産業が被害を受けた。
住民たちも、放射線以上にそれらの被害、つまり偏見などの被害を受けた。

実際には、津波も原発周辺の避難区域から遠く離れた会津の人たちも
「福島県」というだけで被害を受けている。

当時の政権は何もしていないだけでなく、全ての責任を原発に押し付けて逃げてしまった。

福島の人々は自分たちの力で復興を目指した。
レジャー施設や交通機関も、何とかして復活させようとがんばっている。

スパリゾートハワイアンズは、あの日から1年も経たない
平成24年2月に、全面再開している。

福島臨海鉄道も、スパリゾートと同じく24年2月に全線復旧した。



JR常磐線も、平成30年までに、不通区間の大半を復旧させるとしていて
全線復旧の時期は未定としながらも将来の復旧を見据えた計画方針を
安倍晋三首相が発表するなど、少しずつ前進している。


いわきの街の中心部は、揺れや津波の被害が少なかった事から
震災前とかわらなず、地方都市らしい、賑やかながらのんびりした時間が流れている。

郊外には仮設住宅が建ち並んでいる。
50kmも離れていないふるさとへ、みんなで帰れる日を待ち望む人々を
今日も「復興支援バス」(新常磐交通)は運んでいる。


新幹線

2015年03月14日 | 
今日、北陸新幹線が開業した。

(北陸新幹線)

私はもともと新幹線が大好きだ。
生まれた時にはすでに東海道新幹線は開通していて
幼稚園に入る前から、毎年夏には熱海の別荘へ
こだま号に乗って出かけていた。
いつもミッフィーの絵(当時は「うさこちゃん」と呼ばれていた)の書かれたバッグに
新幹線のおもちゃを入れて持ち歩いていたくらい
新幹線が好きだった。

小学生になってからは、正月に家族で京都へ行くのが
お決まりの行事になった。
こだま号からひかり号にランクアップされたわけである。

(新幹線0系)

中学高校では、夏に大阪で開かれるコンクールへ出場するため
2階建て食堂車の付いた、100系という車両のひかり号の
16号車(団体用指定席は16号車だった)で行き来した。

(100系)


母との最期の旅行も、新幹線での京都旅行だった。

(母との最期の京都旅行はN700系のぞみ)

仕事でも遊びでも、週に何回も新幹線に乗れる身分になったけれど
東海道新幹線はもちろん、山陽、九州、東北、上越、山形、秋田、北陸、台湾高鐵、
どの新幹線、どの区間でも、いまだに発車する時のあのワクワク感は
堪らなく好きである。

(台湾高鐵でも、そのワクワクは変わらない)

もちろん、あのカッチカチのアイスも、コーヒーも、海鞘(ほや)の燻製も
飛行機の機内で飲むコーヒーとは比べものにならないくらい
私には贅沢なご馳走である。
(もっとも飛行機のドリンクは無料、新幹線のは車内販売だが)

(一番の贅沢は足湯に浸かれる“とれいゆ")

今のところ、開業したての北陸新幹線の長野から金沢の間が未乗車区間である。
近いうちに乗るべく、無理矢理北陸方面への用事を作るつもりでいる。

(ちなみに昨日はE6系に乗車)

西湖

2014年11月09日 | 

西湖は富士五湖の一つで
剗の海と呼ばれる大きな湖が
貞観の噴火による溶岩流によって
精進湖と分断されたものである。

さらに紀元前3000年ごろには
本栖湖とも一体となっていたと考えられている。

現在でもこの3つの湖の水位は同期しているため
地下では繋がっていると言われている。


白糸の滝

2014年11月08日 | 
富士山の麓、富士宮市に
芝川水系の川と、溶岩断層から噴き出す水が
幅200m、落差20mの断崖から絹糸のように流れる
国内有数の名瀑が白糸の滝です。



古富士泥流と、山頂噴火による玄武岩質の溶岩「白糸溶岩」の境界から
1日15万立方メートル(毎秒1.5トン以上)という水量で湧き出て、
そのまま滝となって滝壺に落ちていきます。



忍野八海

2014年11月07日 | 


忍野八海は富士山東麓の湧水群である。
かつて忍野湖と呼ばれる湖があった一帯が
火山活動などの影響で干上がって盆地となり
湧水だけが残った場所である。
(かつて山中湖と一体の宇津湖という湖があって
それが溶岩で云々という伝承はボーリング調査などによって
現在は否定されている。)

忍野の湧水は、富士山に降った雨や雪が
山体に染み込んで20年という歳月をぁけて
溶岩の中を濾過されながら流れこの場所に湧いているのである。

20年前。
私が本格的に写真の勉強を始めた頃である。

その頃に撮った富士山の写真。
そこに写る雪がもしかしたら今日湧き出た水なのかもしれない。





殿ヶ谷戸庭園

2014年11月04日 | 

東京都西部には先史時代に多摩川が侵食した立川面と呼ばれる地層と
武蔵野面と呼ばれる一段高い地層の境界に
ハケと呼ばれる段丘崖「国分寺崖線」がある。
聖武天皇の詔によって建立された國分寺はこの崖線の下にあって
これは武蔵野面では水利を得ることが難しかった為でもある。

殿ヶ谷戸庭園は、そんな国分寺崖線の地形と
そこから湧出する水を利用した回遊式庭園で
三菱の岩崎彦彌太が昭和9年に完成させた。

中央線という高頻度運行路線の線路際にあって
澄んだ湧水と多くの樹木に囲まれた庭園は
大地の作用がもたらした美しい恩恵でもある。


試衛館跡

2014年10月30日 | 
幕末、近藤勇の養父近藤周助が
市谷甲良屋敷、柳町に開いた
天然理心流の道場が試衛館である。

ここに門弟や食客として集った
土方や沖田、山南、永倉と云う面々が
のちに新撰組として近藤勇とともに
活躍することになる。

現在ではビルと住宅の谷間の路地の奥に

小さなお社と、道場があったことを伝える表示が
ひっそりと建っているだけである。


住所:新宿区市谷柳町25