たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

平成最後の墓参

2019年04月26日 | 日記

今日は天候も回復し、かあさんの月命日だったので、喫茶の後バローの開店を待ち、いつもの安い、小菊250円のをケチって2束買い、1束はお墓へ、1束は仏壇へ飾り平成最後の墓参をした。

折からこの時期お墓に山側のナラの木から、枯れ花が墓や玉砂利に振りかかり、雨でべっとりくっついたのを、喫茶店で耳に挟んできた爪楊枝で丁寧に掃除した。
線香は持参していなかったので、燃え残りの蝋燭に点火してお参りした。

平成年代も後5日を残すのみとなった。自分にとって平成年代はどんな時代だったろうか。
平成5年12月31日をもって、40数年を勤めた公共事業会社を57歳で退職した。
その2年前の55歳の時、上司が辞めてほしい旨説得されたが、断固拒否したら通勤不能の僻地へ飛ばされた。退職条件は再就職を関連工事会社に斡旋する習わしだったが、首尾よく再就職できるかは保証されなかった。

その2年後ダブついた人員を整理する全国的に大規模な退職勧奨を会社が実施し、少し退職金を上増ししたので、これを機にこれ幸いと退職した。
第2の就職のお誘いもあったが、そんな経緯で辞退し、かあさんと孫の守をやることになった。

息子夫婦が共働きでアパートに住み、第1子を2歳から保育所に預け、かあさんと夕方迎えに行き、嫁が帰宅するまで子守した。

失業保険が切れた頃、発足したばかりの人材派遣会社に頼まれ、未知の名古屋の中電子会社と、名鉄子会社へ半年づつ勤めた。

孫も2人目が生まれ、2歳から預かった。退職した年のお盆過ぎ母さんに乳がんが見つかり手術した。そのせいか腰痛を発症し子守は難儀した。

そして退職5年目63歳の時、母さんは57歳で帰らぬ人になった。嫁は退職を余儀なくし子育て専任になった。

それから独居生活が始まり、精神的に不安定になりアルコール依存症治療や断酒会のお世話になった。70歳を幾つか過ぎると癌があちこち見つかり、7年間で7回手術する羽目になった。

未だにその後遺症で難儀している。昨夜から今日にかけても排泄障害に苦しむ始末。

さて、令和の年代を何年生きれるだろうか。3年でも1年でもいいと腹は括っている。