すごい浅田真央さんの演技。自らも信じられないといったショートブログラムの16位からフリーで一気に6位にまで引き上げた彼女の演技には、ライバルたちさえも深い感動を与え、世界中の観覧者にも感涙の満足感を漂わせた。徹夜してでも観る価値は十分にあった。プレーした後の落ち着いた感想は、さらにまた真央ファンを魅了した。
ところがいけないのがオリンピック組織の会長の森元首相の軽々しい言葉だった。案の定批判の声が上がった。「あの子は大事なときにミスをするんだなあ」と講演で述べたというのだ。こともあろうに東京オリンピックの総元締めの言葉だ。
ダルビッシュ投手が、スポーツ選手の本質を何もわかっていないとコメントしていた。ただ本人は柔道で鍛えたかもしれないが、必ずしもスポーツマンではなかったのではないか。もっとも今は、しがないステイツマンではあるが。
日夜懸命に鍛練と努力を続け、心身がボロボロになるまで鍛えぬいても、結果は必ずしも思うようにいかないものだ、ということは素人でもわかっている。にもかかわらずだ。不謹慎を超えて人間の心を読めない人物なんだろうね。そんな人が世界の大会の最高位に位置づけたいと思った人たちの思惑は、われわれとは違う感性を持っているのかもしれない。情けなくなってしまう。
どうも最近、この手の軽率な無配慮な発言が目立っている。ことに政府関係者や知名度の高い人物ほどかさにきた発言が際立っている。靖国参拝以降、「失望」発言に輪をかけて「失望声明に失望した」という政府高官、天下のNHK会長の居丈高で居直るような発言、著名作家の差別発言などなど、どうしてこうも軽業を起こすのだろうか。
これも一つの政府の体質からきていることがわかる。無数に作られる審議会などの委員に、首相の[お友達」が推挙されているそうだから、何を言っても安心という思い上がりがあるのかもしれない。
人間には立場をわきまえることや言っていいことと悪いことを峻別できる精度の高い姿勢と人格を求める。そんなお友達気分で選ばれる委員たちで、様々な分野の方向を決められてはたまったものではない。
直木賞作家の中島京子さんの「小さいおうち」という本が映画化されたのは知る人には知られているのだが、もう一度読み直してみた。小さなおうちの幸せをじょじょに壊していくもの、それはまさに政治の誘導なのだということがわかる。事実を知らず、のんびりと小さなおうちで過ごしているうちに、政治の分野は敵対国を作り、戦争を仕掛けていたのだ。気が付いた時には家族は渦中にはまり、兵隊に「とられて」しまっていた。
この小説は次第に蝕んでいく過程があるのだが、民意など組み上げる必要などないといった為政者たちの思い上がりの結果なのである。今、そんなにおいを感じさせる。要注意だ。「私が責任者だ」という安倍さんの発言も危ない。そんなことを言って責任をとった人などいないではないか。45年の敗戦の責任は一体誰だったのか、だれが責任者だと名乗っているのか、そんなことを反芻しながら、今回の言葉の重さと軽さを考えてみた。
やさしいタイガー