どうも近年日本語の乱れが際立っているとの記事を目にすることが多いが、これは若者が使う言葉への批判ではないように思う。むしろ知性豊かだと思われる人が使う言葉に信頼を置きかねる発言が多いようにみえる。多くの企業の経営者が自社の不正や不祥事に対して記者団を通じて「わび」を入れる場面での言葉を思い出してみる。決まって「再発防止に努める」という。しかし、こうした言葉を使う経営者の真意は軽いのではないか。少しも謙虚な姿勢が伝わってかないし、「善処します」という言葉は何もしないということらしい。つまり本気度が低いということだ。
ことに言葉の貧疎さが目立つのは政界の要人たちの言葉だ。官僚たちは自分たちの失言のしっぽを掴まれないように政権の顔色を伺う不遜さを感じるが、それ以上に許容を超えているのは閣僚や議員たちの傲慢な態度から出る言葉の低さだ。
首相の軽率で感情的な忌み嫌われる発言、甘利氏に端を発した不正に対する言葉、丸川、島袋、高市氏などの威圧的な言葉や無知、いったいどうなっているのか、と怒りを越して失笑したくなるほどの非常識な言動が続く。このように頻繁に物議を醸す要人が発する一つ一つを取り上げると切がないほどで、僕たちも、「またか」といった呆れ顔で済ませてしまう通過語にしてしまいがちだ。
どうやら今の時代、立場が違うと私たちがおかしいと指摘したり感じる言葉がかえって非常識になり、不正や法律違反、あるいは倫理的に問題を持つ人の発言や行動が常識なのだと思わせてしまうので、いささか狂ってしまう。時には使う言葉によってその人の人格の評点にもなることを思うと、人格に問題があるのだろうか。
報道機関を通して知る目立つ人々は、僕たちの模範であってほしいし、教育的配慮を日ごろから意識して、勉強してほしいと思う。非常識が常識にならないよう日本語を磨き、誇り高い心を養って僕たちに向いてほしいものだ。
やさしいタイガー