出久根達郎さんから新著をお贈りいただいた。
『随筆 人に麗句あり』(藤吾堂出版・1500円)。
出久根さんは拙著『湯気の向こうから』に度々登場していただいている。
添えられていたわたしへのメッセージに感動。
短い文だが、はじめ意味が解らなかった。
しばらくああだこうだと考えて、パッと解った時に「ああ!」と大きな感動を受けた。
わたしだけへの私信なので公開はできない。
さて、ページを開いて先ず「まえがき」といっても、これも随筆になっている。
これには驚いた。
やはり出久根さんは普通ではなかった。その努力がだ。
次のページにより詳しく書かれている。そして、
《このノートが古本屋をやめて文筆業に転じた現在、大いに役立っているのである。150冊余の「読書往来」ノートが、わたしの蔵書ということになる。本の種類は雑多である。何しろ目につく物でこれはという本は、好奇にかられて読んでいる。ノートそのものが古書店の書棚である。物書きにとって、こんな便利な虎の巻はない。私は「ネタ」探しで
「読書往来」をめくる。》以下略。
これは面白すぎて、あとの随筆を読むのを止めるのが難しい。
出久根さんの『随筆 一千字の行きつ戻りつ』だが。
こんなことが書いてあった。
恥ずかしながら初めて知った。
《膝栗毛とは、徒歩旅行のこと。膝が栗毛の馬の代わり、という意味である。》。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、まだ読んだことがない。面白そうだが大長編とのこと。
読めるかな?
こんなことが書いてあった。
恥ずかしながら初めて知った。
《膝栗毛とは、徒歩旅行のこと。膝が栗毛の馬の代わり、という意味である。》。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、まだ読んだことがない。面白そうだが大長編とのこと。
読めるかな?
出久根達郎さんの『随筆 一千字の行きつ戻りつ』(2024年1月6日発行)を読み始めました。

これがめっぽう面白い。本好きにはたまりません。さすが出久根さんだ。
100人余りの文人の、人と作品の紹介です。
誰でも知っている作家から、聞いたことのない人のものまで多彩。
この本、ネットでは購入できません、と思います。
もちろん一般書店にもない。
先日、出久根さんの奥様との電話で「私家版なのです」とおっしゃっていました。
友情出版なのですね。
ごく少数しか出てないのです。
出久根ファン垂涎の本というわけです。
どうしても欲しい出久根ファンのために奥付を上げておきましょう。直接申し込んでください。
定価1500円と書いてありますので、残部があれば売って下さるでしょう。

これがめっぽう面白い。本好きにはたまりません。さすが出久根さんだ。
100人余りの文人の、人と作品の紹介です。
誰でも知っている作家から、聞いたことのない人のものまで多彩。
この本、ネットでは購入できません、と思います。
もちろん一般書店にもない。
先日、出久根さんの奥様との電話で「私家版なのです」とおっしゃっていました。
友情出版なのですね。
ごく少数しか出てないのです。
出久根ファン垂涎の本というわけです。
どうしても欲しい出久根ファンのために奥付を上げておきましょう。直接申し込んでください。
定価1500円と書いてありますので、残部があれば売って下さるでしょう。

『出久根達郎の古本屋小説集』を先日読み終えた。

その解説を南陀楼綾繁さんが書いておられる。
その中にこんな文がある。 南陀楼さんが高校生のころの話である。
《当時の私にとって『古本綺譚』は宝物のような一冊だった。》
この本は出久根さんの処女出版本。
新泉社というマイナーなところから出たもの。
わたしは後年に出た中公文庫を所持している。
奥付には1996年10版とあって、もうずっと昔に読んだものだ。

もう一度読んでみようと思って二階の書庫から出してきた。
読み始めたが、内容をほぼ忘れてしまっている。
うっすらと覚えはあるがストーリーは全く初めて読むような感じ。
ああ情けない。
『触媒のうた』 出久根さん推薦の本。

その解説を南陀楼綾繁さんが書いておられる。
その中にこんな文がある。 南陀楼さんが高校生のころの話である。
《当時の私にとって『古本綺譚』は宝物のような一冊だった。》
この本は出久根さんの処女出版本。
新泉社というマイナーなところから出たもの。
わたしは後年に出た中公文庫を所持している。
奥付には1996年10版とあって、もうずっと昔に読んだものだ。

もう一度読んでみようと思って二階の書庫から出してきた。
読み始めたが、内容をほぼ忘れてしまっている。
うっすらと覚えはあるがストーリーは全く初めて読むような感じ。
ああ情けない。
『触媒のうた』 出久根さん推薦の本。
出久根達郎さんの『出久根達郎の古本屋小説集』(筑摩書房)を読んでいる。

その中のこのページに驚きま した。

出てくる言葉にです。
凄いですね。
「憫察」「尊翰」「蕪雑」「弁疏」「感佩」など。
わたしなんかは一生使わないのでは?と思うような言葉です。
昔の知識人は偉いですね。
その隣のページにこんなことが。
《彼は貧しい家庭の少年でした。小生の生家は精米業でかたわら食品を販売しておりました。毎日彼が使いで乾麺を一把ずつ買いにくるのです。中本の一家は米を食べたことがないのだと小生は思い込んでいました。》
ここを読んで昔を思い出しました。
わたしが子どものころですからもう七十何年も昔です。
父親が米屋をしていました。そこに近所のSさんの家の子どもが使いにやってくるのです。
「お米一升と麦一キロください」と言って、鍋を差し出すのです。。
ご夫婦と子ども6人の8人家族が6畳一間に暮らしておられました。
お米一升と麦一キロを混ぜて持って帰るのです。
これを炊くと、すべてが麦に見えてしまうと思います。
そんな時代がありました。

その中のこのページに驚きま した。

出てくる言葉にです。
凄いですね。
「憫察」「尊翰」「蕪雑」「弁疏」「感佩」など。
わたしなんかは一生使わないのでは?と思うような言葉です。
昔の知識人は偉いですね。
その隣のページにこんなことが。
《彼は貧しい家庭の少年でした。小生の生家は精米業でかたわら食品を販売しておりました。毎日彼が使いで乾麺を一把ずつ買いにくるのです。中本の一家は米を食べたことがないのだと小生は思い込んでいました。》
ここを読んで昔を思い出しました。
わたしが子どものころですからもう七十何年も昔です。
父親が米屋をしていました。そこに近所のSさんの家の子どもが使いにやってくるのです。
「お米一升と麦一キロください」と言って、鍋を差し出すのです。。
ご夫婦と子ども6人の8人家族が6畳一間に暮らしておられました。
お米一升と麦一キロを混ぜて持って帰るのです。
これを炊くと、すべてが麦に見えてしまうと思います。
そんな時代がありました。
出久根達郎さんの『一千字のあとや先』。
田山花袋の「田舎教師」の項にこんな一行が。
「鉛筆を倒(さかさ)にして、ゴムでゴシゴシ消したら」。
出久根さんはこんな風に解説しておられる。
「小説は明治三十四、五年を描いている。消しゴム付きの鉛筆が、すでにあったのだ。」
そういえば最近はあまり見なくなったなあ、と思って、ふと傍らの筆立てを見たら、あった。
田山花袋の「田舎教師」の項にこんな一行が。
「鉛筆を倒(さかさ)にして、ゴムでゴシゴシ消したら」。
出久根さんはこんな風に解説しておられる。
「小説は明治三十四、五年を描いている。消しゴム付きの鉛筆が、すでにあったのだ。」
そういえば最近はあまり見なくなったなあ、と思って、ふと傍らの筆立てを見たら、あった。

最近、先に読まねばならない本が次々と現れましたので後回しになっていたこの本をやっとちゃんと読み始めました。

出久根達郎さんの『一千字のあとや先』です。
大手出版社からのものではありません。
出久根さんの友情から生まれた本。
これが今年三冊目のこの種の本でした。

その友情のことはこちらに書いてます。
さて、今回の本です。
不審なページがありました。

初めて開いたページです。
誤植が直してあるのです。
これは誰の字?
もしかしたら出久根さん自ら?と思いましたが、そうではありません、多分。
恐らくこの本を編集して発行した人、井原修さんなのでしょう。
この修正は、発行部数が少ないからこそ出来たことと思います。
今さらながら貴重な本をお送りいただいたのだと感謝します。
実は誤植のこと、二冊目にも一カ所ありました。
そのこと以前に書きました。
「出久根さんの本に誤植」。
「字」とあるべきが「宇」となっているのです。
やはり少人数での校正には限界があるのでしょうね。
それだけ貴重な本というわけです。
この本に興味のある方のために奥付を載せておきます。

出久根達郎さんの『一千字のあとや先』です。
大手出版社からのものではありません。
出久根さんの友情から生まれた本。
これが今年三冊目のこの種の本でした。

その友情のことはこちらに書いてます。
さて、今回の本です。
不審なページがありました。

初めて開いたページです。
誤植が直してあるのです。
これは誰の字?
もしかしたら出久根さん自ら?と思いましたが、そうではありません、多分。
恐らくこの本を編集して発行した人、井原修さんなのでしょう。
この修正は、発行部数が少ないからこそ出来たことと思います。
今さらながら貴重な本をお送りいただいたのだと感謝します。
実は誤植のこと、二冊目にも一カ所ありました。
そのこと以前に書きました。
「出久根さんの本に誤植」。
「字」とあるべきが「宇」となっているのです。
やはり少人数での校正には限界があるのでしょうね。
それだけ貴重な本というわけです。
この本に興味のある方のために奥付を載せておきます。

出久根達郎さんからお贈りいただきました。

随想『一千字のあとや先』(出久根達郎著・興文社刊)。
今年になってから同じ体裁の本を三冊お贈りいただいています。

6月1日、10月1日、12月1日。
ありがたいことです。
『触媒のうた』出久根達郎さん推奨の本。

随想『一千字のあとや先』(出久根達郎著・興文社刊)。
今年になってから同じ体裁の本を三冊お贈りいただいています。

6月1日、10月1日、12月1日。
ありがたいことです。
『触媒のうた』出久根達郎さん推奨の本。
なんという偶然だろうか!
今日、『KOBECCO』10月号が届いた。

今回の「喫茶店の書斎から」には、出久根達郎さんに深く関わることを書いている。
そこにまた別に届いたのが、出久根達郎さんがお贈りくださった『一千字の表うら』。

これだけでもその偶然に驚くが、この本を開いてまた驚いた。
目次に「佐多稲子」さんの項が載っているのだ。
佐多さんについては、やはり丁度10月号!「六甲」にわたしが「佐多稲子」と題して書いている。

この原稿も出久根さんの本「百貌百言」を元に書いたもの。
こんなことがあるだろうか!
因みに、佐多稲子から宮崎翁への直筆ハガキを上げておこう。

これは「六甲」に載せたハガキとは違うもの。
いや、今日は朝からびっくりしました。
今日、『KOBECCO』10月号が届いた。

今回の「喫茶店の書斎から」には、出久根達郎さんに深く関わることを書いている。
そこにまた別に届いたのが、出久根達郎さんがお贈りくださった『一千字の表うら』。

これだけでもその偶然に驚くが、この本を開いてまた驚いた。
目次に「佐多稲子」さんの項が載っているのだ。
佐多さんについては、やはり丁度10月号!「六甲」にわたしが「佐多稲子」と題して書いている。

この原稿も出久根さんの本「百貌百言」を元に書いたもの。
こんなことがあるだろうか!
因みに、佐多稲子から宮崎翁への直筆ハガキを上げておこう。

これは「六甲」に載せたハガキとは違うもの。
いや、今日は朝からびっくりしました。

『ぼくもいくさに征くのだけれど』ですけど、わたしの知った人が多く関わっておられて驚きました。
そして極めつけは、解説を書いておられる出久根達郎さん。
本書を読み終って最後に出久根さんの解説を読ませていただきました。
なんでも読んでおられますねえ。
6ページにわたっての丁寧な解説です。
わたしが印象的だったところをかいつまんで記します。
《竹内浩三が、「骨のうたう」で脚光を浴びたことも、私は不幸な出発だったと思う。「戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ」で、反戦詩の代表作とレッテルを貼られた。竹内は反戦詩人とみなされ、そのように読まれた。間違っているわけではなく、悪いのではないけれど、読者を狭めた、という気がしないでもない。竹内浩三が「青春の詩人」と見られたなら、もう少し若い人たちに受け入れられたのではないか。》
《何よりこの全集(㊟2001年に発行された『竹内浩三全作品集 日本が見えない』)がすばらしいのは、2001年夏に発見された詩「日本が見えない」と、「よく生きてきたと思う」の二篇が読めることである。 稲泉連さんは、この全集で竹内浩三を知ったのである。そして、「日本が見えない」に感動した。その時、稲泉さんは23歳になろうとしていた。竹内が戦死した年である。(略)稲泉さんが竹内に興味を抱いたきっかけが、「日本が見えない」と知って、これぞ正統の竹内浩三入門と、ひそかに快哉を叫んだ。私の考える、「青春の詩人」への正しい入り方なのである。》
《竹内浩三の作品を、色眼鏡で読んでほしくない。色眼鏡は竹内の世界を狭めてしまう。何の先入観もなしに、ある一篇を読んでみる。自分の心に訴えるものがあったなら、もう一つ読んでみる。次第に竹内浩三という男に興味が湧いてくるはずだ。竹内が生きた時代を知りたくなる。その関係書を調べてみる。いつのまにか、戦争というものを勉強し、その実態に戦慄している。 稲泉さんが、そういう読み方をしたわけだ。いってみれば、竹内浩三という詩人の、正しい読み方を本書で伝授してくれたのである。戦争を知らない世代が、どのような形で戦争を知るのか、本書はその良き見本でもある。》
このあと、感動的な話があって解説は終わっている。
さすがに出久根さんだ。
『触媒のうた』出久根達郎さん絶賛の本。
この前「街の草」さんで買った本『まかふしぎ・猫の犬』(出久根達郎著・河出書房新社・2005年刊)です。

古い本ですが、味わい深い話が載ってます。
今読んだページ。

終わりの方にこんなことが書かれています。
《一度書いた文章は、声に出して読んでみる。黙読で気づかなかった欠点が、耳で聞くと、はっきりわかる。ぎこちない言いまわしなどは音読でしか気づかない。
声に出して読むと、何だか恥ずかしいと思う描写が見つかるはずである。》
これはわたしも日ごろ心がけていることですが、改めて心しよう。
カアチャン、また読み聞かせますので聞いて下さい。ただし、ブログは別です。音読しません。
わたしが書くものの第一読者はカアチャンです。
あ、読者じゃなく、聞者か。

古い本ですが、味わい深い話が載ってます。
今読んだページ。

終わりの方にこんなことが書かれています。
《一度書いた文章は、声に出して読んでみる。黙読で気づかなかった欠点が、耳で聞くと、はっきりわかる。ぎこちない言いまわしなどは音読でしか気づかない。
声に出して読むと、何だか恥ずかしいと思う描写が見つかるはずである。》
これはわたしも日ごろ心がけていることですが、改めて心しよう。
カアチャン、また読み聞かせますので聞いて下さい。ただし、ブログは別です。音読しません。
わたしが書くものの第一読者はカアチャンです。
あ、読者じゃなく、聞者か。
出久根さんからお贈りいただいた『随筆 達人の至言』を読み終えました。

この前、あとがきの前半部分を上げましたが、今日は後半も合わせて上げましょう。
前半
後半
そして、随筆を一篇。巻末の「宮沢賢治」です。

短い随筆ですが、当然とはいえ上手いものですねえ。
こんなに短いのに中身は豊富。読みごたえがあります。
この本、あとがきにあるような事情ですので、Amazonには登録されていません。
そこで奥付です。
『触媒のうた』 出久根さんが帯文を提供の本。

この前、あとがきの前半部分を上げましたが、今日は後半も合わせて上げましょう。
前半

後半

そして、随筆を一篇。巻末の「宮沢賢治」です。

短い随筆ですが、当然とはいえ上手いものですねえ。
こんなに短いのに中身は豊富。読みごたえがあります。
この本、あとがきにあるような事情ですので、Amazonには登録されていません。
そこで奥付です。

『触媒のうた』 出久根さんが帯文を提供の本。