喫茶 輪

コーヒーカップの耳

平和資料館

2013-08-14 18:55:35 | 戦争
図書館に隣接して「平和資料館」というのがあります。
http://www.nishi.or.jp/contents/00023815000400097.html

Cimg5848

規模は小さいです。「館」というより「室」ですね。西宮はひどい空襲を受けた町ですのでもっと充<wbr></wbr>実した施設が欲しいですね。
「資料の寄贈を受け付けております」ということでした。
うちにある父親の形見の食器も時期を見てここに寄贈しようかと思<wbr></wbr>っています。
モンゴルに抑留された時に手づくりしたものです。

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須磨一弦琴

2013-08-12 12:58:15 | 戦争

先日の須磨寺で印象的な慰霊碑に出合った。
「シベリヤ満蒙戦没者慰霊碑」という。
もし、父が生きていて、これを知ったならすぐに駈けつけてお参りしたであろう。
戦友の魂に慰霊をしただろう。

Cimg5811

Cimg5812

添えられた地図にはウランバートルの地名も。

Cimg5813

ここでは、哀愁を帯びた須磨一弦琴の音色を聴くことができた。http://www.youtube.com/watch?v=frM1-0ilzmU&feature=c4-overview&list=UUy-KubFsgxH4o3zejC9erFA

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「兄弟のダモイ」13

2013-06-06 16:18:58 | 戦争

昨日の第13回で最終回だった。
Img085
Img085_2
この連載のお陰で、改めて父親のことを思い出して書きとめることになった。
連載の〆にこんなことが書かれている。
―厚生労働省は、旧ソ連軍によって約57万5千人の日本人捕虜が抑留されたと推計する。収容施設は、東はカムチャッカから西はウクライナまで1200~1300カ所に上り、約5万5千人が死亡したとされる。1991年の旧ソ連崩壊後、死亡者名簿など一部資料がロシア側から引き渡されているが、全容解明には至っていない。―

本当に辛い話だ。戦争で死んだ人には色々と遺族への補償制度がある。しかし、強制労働させられた人にはなにもない。労働賃金の支払いを求める裁判もあったようだが、ほとんど何も受けられていない。死ぬほど辛い思いの労働に対してなんの補償もされなかったのだ。http://amihappy.exblog.jp/11218485/
この連載の語り部の、細見竹雄さん、橋本信雄さんご兄弟には、長くお元気でいて頂きたいものだ。

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「兄弟のダモイ」12

2013-06-04 09:00:29 | 戦争

今日の記事には印象的な言葉がたくさん。
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Img081_2
先ず、
―「わしら、シベリアにおったから10年は寿命が縮んだんやないか」「でも、まだ生きとるのう。いつまで生きるんかいのう」―
この言葉はわたしの父も言っていた。事実、若死にした。ひとはわたしに「シベリアで身体を傷めてきはったから」と言った。
―「わしが思うのは、むごい死に方をした仲間たちのことなんや。素っ裸にしては、谷底へコンカラカーンとほかしてもうて。あんだけの人間、大勢死んで、魂はどうなったんかなあ」―
これも父から聞いた話である。父の場合は、谷底ではなく、宿舎から離れた林に、と言っていた。

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「兄弟のダモイ」11

2013-06-03 09:17:28 | 戦争

いよいよダモイ(帰国)の話に。
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Img070_2
この兄弟は昭和24年に帰国しておられる。
ということは厳寒の地で四冬も越されたのだ。
うちの父親は、ハッキリしたことは知らないが、わたしの弟が23年12月23日生まれなので、多分22年から23年初めにかけて帰国したのだと思う。
わたしが耳にしたところでは、みなさん舞鶴なのに父は北海道に帰って来たと言っていた。

さて、今日、6月3日は父の命日である。
昭和36年6月3日午後9時40分。
西宮市中央病院(当時、染殿町。現在は福祉センター)にて。
死んだあと、病院から借りた担架に乗せ、父の知人と二人で担いで家に連れて帰った。
今の国道43号線はまだ工事中だった。
あの情けなさは忘れられない。
今日、お墓参りに行く予定だ。


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「兄弟のダモイ」9

2013-06-01 11:04:17 | 戦争

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―器用なもんがマージャンの牌を作って楽しんだりな―
なんでも手づくりしてたんですね。
うちの父親だけではなかったんだ。
ちょっと前に、父親が持って帰ってきたものに、毛皮や長靴(ちょうか)があったのが不思議だと書いた。捕虜だった者がどうしてそんなものを持って帰れたのかと。
そのこと、今読んでいる『ウランバートル捕虜収容病院』に、それに関連することが書かれている。
ウランバートルには羊毛工場があり、捕虜はそこで働かされていたと。羊の毛皮がふんだんに有ったのだ。また皮革工場もあり、靴も作っていたのだ。だからと言って父親が簡単に持ち帰れたということにはならないが、半分は納得できる。

「ホジルボラン」でワード検索していたら、あるページにこんな記述が。

ホジルボラン着く
大型トラックで運ばれて着いた所は、モンゴルの首
都ウランバートル近郊の■瓦工場のある収容所だっ
た。建ち並ぶ半地下式の丸太材を組み合せた兵舎だっ
た。あとで聞いた話だが、その兵舎は、日本軍抑留者
のわれわれより先に、ドイツ軍の抑留者を入れた収容
所の兵舎とのことだった。その証拠に、ドイツ軍の着
用した軍服らしい一部が、兵舎のそばにぼろぼろにな
って捨てられていたのがあとで発見された。
ホジルボ
ランには、仮りの病院もあり
、右足指の凍傷も一回治
療を受け、今は爪は右斜めに生えている。
零下四十度はあろう。ここで、ふた冬にわたる強制
労働が待っているとは、神ならぬ身の知るよしもなか
った。
ホジルボランは地理がよくわからないがモンゴルの
ほぼ中央のウランバートルの周辺に位置している、始
めに着いた、モンゴルとソ連国境から七~八百キロぐ


父のいうホジロブロン病院は仮の病院だったのだ。

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「兄弟のダモイ」8

2013-05-30 14:43:40 | 戦争

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Img068_2
―体重も30キロ台に落ちとった。―
―ノルマが達成できなければ食事量を減らされた。―
―もう人間やない。カメ、ネズミ、ヘビ、モグラ、みんな焼いて食べました。―

などが文中に見える。
これ、みな、うちの父親も話してました。
「復員してきた時、16貫目あった体重が8貫目になっていた」
「ネズミを見つけたら取り合い。ごちそうやった」
そして、「パンはコバが欲しかった。食べでがあるから」と。
コバとは食パンの端のことである。中は柔らかくて食べ応えがないが、端は固いので少しでも腹の足しになる気がしたと。
春になって草が生えてくるのが待ち遠しかったと。木の皮まで削って食べたと。
本当に人間やないですね。

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「ダモイ」

2013-05-29 08:59:48 | 戦争

『ウランバートル捕虜収容病院』の中に、こんな記述が。

―(略)兵隊は、私の時計を耳に当ててから右腕に巻いた。その太い腕にはすでに二個の時計が巻いてあり、更に左腕の三箇の時計を見せて、満足そうな足取りで去って行った。―

わたしの父も言っていた。
「露助が日本兵の時計を奪って、いっぱい腕に巻いていた。時間も読めないくせに」と。
彼らは他に万年筆やライターなど光りものを欲しがったと。
そんなことを言っていたのを思い出した。

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「兄弟のダモイ」7

2013-05-28 15:13:32 | 戦争

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弟の信雄さん87歳の話である。
抑留中に二十歳の誕生日を迎えたという。
話の中に「家族がおる兵隊は特に落ち込んどったね」と。
すぐには内地へ帰れないと分かった時のことである。
うちのオヤジはその家族持ちだった。

先日注文していた本が昨日届いた。
Img0651991年1月発行。
「ウランバートル 病院」で検索してこの本に出会うことができた。
こんな本が出てたことは全く知らなかった。当時、話題にもならなかったのだろう。
知っていれば買ったに違いない。
読み始めて驚いた。
父が言っていた「ホジロブロン病院」というのは「ホジルボラン」だったのだ。
「ホジロブロン」ではいくらワード検索しても出ないはずだ。
父は現地の人が話す言葉を聞き違えていたのである。よくあることだ。
ボチボチ読み進めているが、昔、父が話していたことを次々と思い出すことが書いてある。
しかも、不思議に思っていたことが、「あ、それで」と納得させられるようなことも。
これまで父の抑留体験を漠然としか認識していなかったが、これを読むとその情景が具体性を帯びて胸に迫ってくる。

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「兄弟のダモイ」6

2013-05-27 13:50:06 | 戦争

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Img064_2
このご兄弟、91歳と87歳。
いいなあ、ご健在なのだ。
うちのオヤジは生きていれば丁度100歳だと思う。
昭和36年、47歳で死んだ。
召集されたのは、昭和19年、30歳の時だ。
その時の遺言状がある。
Cimg4732

こちらは↓そのことを書いたもの。「火曜日」80号2004年10月号より。
Img063_2
ここに書かれていることが全部本音とは思えない。
複雑です。










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「兄弟のダモイ」5

2013-05-25 12:34:31 | 戦争

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Img054_2
わたしの父が戦地から持ち帰ったものは、先に上げた食器だけではなかった。
覚えているものをここに書いておく。
飯盒が二個あった。
そのうち一つには、彫刻というほどのものではなかったが、絵と文字が彫り込んであった。父の手になるもの。
自分の干支のトラの絵が彫ってあったのをハッキリと覚えている。
文字はなにだったか覚えていない。
長くうちにあったが、いつのころだったか、誰かに貸したまま返って来なかった。
他に、やはり食器で、これもブリキの手づくりの四角いもの(ブリキを折り紙のように折り畳んで作ってあった)で、それで高粱飯を食べたと言っていた。わたしが子どもの頃、それは、外での石鹸箱として使っていた。
ある日、家の前の庭に置いてあったそれを、拾い屋さんが通りがかりに持って行った。それを父が家の中から見ていて、血相変えて飛んで出て行き、追いかけて行って、とっ捕まえて「お前は拾い屋か泥棒か!」と叫ぶと同時に殴って取りかえした。拾い屋は「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」と言っていた。彼も不思議だったかもしれない。そんなしょうもない物を血相変えて取り戻した父を。
その石鹸箱もいつの頃かなくなってしまった。
他に、毛皮のいいのを自慢していた。父は羊の毛皮だと言っていたが、あれは多分、羚羊(れいよう)だったと思う。大きく立派なもので、後に大峰山の修験道を始めた時に尻あてに作りなおして自慢していた。これもその後、父が死んでから、じっと押し入れに置いていて手入れをせずダメにしてしまった。
もう一つ覚えているのが、長靴(ちょうか)だった。これは二足持っていた。長いのと短いのと。
これも今ではもうない。しかし抑留されていたのに、どうしてそんな物を持ちかえれたのか今は不思議だが、確かめる術がない。

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「兄弟のダモイ」4

2013-05-24 14:49:19 | 戦争

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語り部は細見竹雄さん91歳。
偶然、うちの父親とタケオという名が同じだ。但し、漢字は違う。
うちは武男。生きていたら、丁度100歳になる。

昨日紹介した写真。Cimg4686
武男が手づくりで作った食器である。
一番上のしゃもじ。金属でできている。どうして作ったのだろうか。
これについてこんなことを言っていた。
「おかゆなど熱いものを食べるのに困った。唇がやけどするから」と。
それで、木で作ったのが2番目のスプーン。
これ、ガラス片で削って作ってある。つまみの所の模様なんかもいじらしい。
その下の箸も木切れを削って作っている。堅そうな木である。
そして、一番下の小刀。鉄片を利用している。
父は話した。
「これはな、…」
この先はここには書けない。
人が究極で生きることの壮絶な話。


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「兄弟のダモイ」3

2013-05-23 16:15:02 | 戦争

「兄弟のダモイ」3です。
Img050
Img050_2
抑留中の病気のことが書いてある。
抑留中に病気になった者は死ぬしかなかった様子。
わたしの父も病気になったと聞いた。
そこで父が蒙古から持ち帰って来た遺品を。
Cimg4682

Cimg4683

Cimg4685

Cimg4686
全て手作りである。
抑留中に作ったものだ。
上から2番目、箸袋。
それに俳句が糸で縫い付けてある。
3番目の写真。読みにくいが、

「良兵の忍ぶ心や初日出」
貮拾貮年元日
於 ホジロブロン病院
          武男


とある。
父から聞いた話では、抑留中に病気になり入院したと。
ということは、父はまだ恵まれた方だったのだ。
で、このホジロブロン病院だが、自信はないが、たしかウランバートルと言っていたように思う。今でもあるのだろうか?

追記
こんなのがあった。
http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_0386.html
注文しました。




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「兄弟のダモイ」2

2013-05-23 08:25:24 | 戦争

昨日の記事です。「兄弟のダモイ」2
Img048
Img048_2
ここに書かれていることも、昔、父親が話していたこととほぼ同じだ。
飢えと寒さで仲間がドンドン死んでいったと。
周りは全て凍土で穴を掘れない。仕方なく林の中に捨てるように置いて帰ってきたと。明日は自分か?の気持で。
次に行ったら、狼にでも持って行かれたのかなくなっていたと。
もっと凄惨な話を聞いたがとてもここには書けない。



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「兄弟のダモイ」1

2013-05-22 08:27:39 | 戦争

昨日から神戸新聞で始まった連載「兄弟のダモイ」
Img046 ←画面をクリック。
Img047
約5万5千人の日本人が死んだ、旧ソビエトによるシベリア抑留の話である。
実は、わたしの父親も抑留された。
父はモンゴルだったが同じである。
わたしが子ども時代、自分の体験をよく話してくれた。
というより、人に話しているのを横で聞いた。
わたしに直接話したわけではない。
今のわたしなら、こちらからもっともっと詳しく尋ねたことと思うが、残念ながら父は昭和36年に47歳で死んだ。
わたしが覚えている歌がある。

 

 
 

 蒙古北風吹きすさぶ

 零下50のその中で

 宿舎に帰れば板の間に

 傷む身体も休まれず

たしか3番まであったが今は1番しか覚えていない。
抑留仲間の誰かが作ったのだと言っていた。
曲もはっきり覚えている。メロディーラインは、昔流行った「お座敷小唄」だったが、もっとスローで哀調を帯びた曲だった。

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