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SARAのブログ

日々のことあれこれ

対人関係6

2018-05-18 12:04:52 | メンタル関係
心療内科で病名をつけてくれるのだろうかと
いう話をしたが、
今のところ自分なりにネットや本であれこれ
調べて
自分なりに「これが一番近いかな?」と思えるものが
ある。
「回避性パーソナリティ障害」というものだ。
これだけに限定してるわけではないだろうし
たぶんいろんなものが複合しているのだと思うけど
これの症例が今まで調べてきた中では
一番近くて良くあてはまっているなと感じる。

そこで、この障害についてのいろんな記事も最近良く読んだし
いろんな著書も検索した。
そしたらこの「回避性パーソナリティ障害」の著書の中には
「生きるのが面倒臭い人」というタイトルが
ついているものもあり、
まだ自分がこれだと診断されたわけではないけど
これにはとても傷ついた。
確かにこの障害には
積極性にかけ、いろんなことを避けてしまう症状があるが
それにはきちんとした致し方ない理由があり、
結果そうなってしまったということなのに
この障害を知らない人に例えばこの障害なんですと
打ち明けて、その人がたまたまネットで調べてこの本の
タイトルを見たら
「あぁ、あの人は生きるのが面倒な人なのね。
そんな病気あるの?ただ怠けてるだけなんじゃないの?」
と誤解されることもあると思う。
この本の内容自体は良さそうだけど、
このタイトルはどうなのかなぁと思った。


続く

対人関係5

2018-05-18 11:16:51 | メンタル関係
小さいころから母親に守られ、
受け入れられ、自分には自分の居場所があるという
安心感を持って育った人は
例え社会に出て自分を受け入れてくれない人に
出会ってもそれはそれと思える。
乗り越えられる。
だけど、母親に嫌われ、排除され、非難され批判された
人は、
そんな安全地帯がないまま、
そして他に仲間も作ることもできず、
たった1人危険な戦場でずっと闘い続けるような人生に
なる。


最近になって
義姉に会った時、
やはり正直とても羨ましく思った。
3人の子供にも久しぶりに会ったが、みんな20代になり
ほぼ全員社会人になった。
そしてみんなとても立派でいい子に育った。
そんな子育てに成功した義姉もまた立派だとは思うし、
義姉はこれからも何かあった時にはこの子供達と
いずれできるであろう孫たちに囲まれて
守られて生きていくのだとうと思ったら
何とも言えない気持ちになった。
「私は一人だ・・」と。
もちろん私にも旦那という存在はいる。
だけど、じゃあ旦那に何かあった時は
どうするの?と。
深刻な病気になったら?余命宣告されたら?
旦那が亡くなったら?
そんなことまで考えた。
だけど、また加藤諦三さんの本の話になるが、
加藤さんいわく、
その、まともな親に育てられた人たちの人生と
冷酷な親に育てられた自分の人生は
まったく違うものになるのは当たり前のことだと。
漠然と
ただただ何故こんなにも違うのかと考えると
ただただ辛いが
囲まれてきた環境がそこまで違うのだから
違って当たり前だと考えれば
まだ少しは楽に感じるかなとは思った。
そして加藤さんは
「むしろ、そんな環境で劣悪な育ち、
普通の人とは違う生き辛い人生になっても
それでも今まで
生き延びてきたことは賞賛に値する」と。

だから私は、
普通の人と比べて物凄く落ち込んだりもするし、
普通の人とはまったく違う人生にはなってしまったけど
それでもこれからも自分なりに自分の人生を
少しでも楽しく生きていかなきゃなと。
いや、調子の良い今は^^;
少しはそう思えるけど
調子悪くなったりすると
これからもまた自分の人生を呪うような精神状態になることも
しばしばあるとは思う。^^;



続く

対人関係3

2018-05-17 09:07:36 | メンタル関係
私は旦那に何でも譲ってきた。
「あなたがそうしたいなら、私は嫌だけど
どうぞ」と。
子供がいないから旦那に負い目があるんだなと
思ってきた。
それも一理あるが、
たとえ私に子供がいたとしても
私が旦那に従順になり、そして一方的に尽くし、
何でも旦那に合わせようとしていれば
それでは相手のことを嫌いになると
加藤諦三さんは言っている。
自己主張しなければいけないらしい。
「自己主張」という言葉を聞くと
一見悪い言葉のように聞こえる。
だけど、加藤さんいわく、
自己主張とは自分のことをきちんと説明する、
ということらしい。
もちろん相手の意思や事情を無視して
自分だけの意見を通すのはただのわがままだが、
自分の意思や自分の事情を相手にきちんと
伝えるということが大切で
なんでもかんでも他人に譲らない、
相手に合わせないことが大事らしい。

私がなんで人になんでもかんでも合わせてしまうのか、
その答えはただ一つ。
嫌われたくないからだ。
見捨てられたくない。
そして「絶対に見捨てない」「なんでそんなことができるのか」
「結婚してから一度も気持ちは変わったことはない」
「別れたいなんて一度も思ったことない」
と言っている旦那の気持ちでさえも
私は信じられないのだ。
「例え今はそうでも、いつ変わるかわからない」
「ある日突然私のことが嫌になるかもしれない」
という不安がぬぐえない。
それは自分の自信のなさからきている。
こんな女、いつか捨てられるだろうと
思っている。


続く

対人関係2

2018-05-14 22:17:53 | メンタル関係
私は寂しい寂しいと言っておきながら
実際は人と一緒にいると早く一人になりたくなってしまう。
1人になると自分に戻れる。
誰の顔色も見ず、
誰に見放される不安もなく、
安定して過ごせる。
ところがひとたび誰かと一緒に過ごすと
良く思われたかったり嫌われたりするのが怖くて
自分を見失ってしまう。
相手の気に入る方に振る舞おうとしてしまう。
そして結果犠牲を払ってしまう。
それが苦しい。
私は確かに母親との関係に問題を抱えてるのは
事実だが、
今の生活の中で苦しくなるのは
やはり旦那との関係にも問題はあるのだと思う。
私は旦那のことを心からは愛してはいないのかもしれない。
旦那に対して情はある。
好きか嫌いかと言われたら
好きなのかもしれない。
けど、ずっと一緒にいると苦しくなる。
早く一人になりたくなってしまう。
私はやはり旦那の前でも自分でいられないのだと思う。
同じ家の中にいても
旦那の機嫌を損ねないように無意識に行動していて
自分の好きなように過ごしていないからだと思う。
旦那が家にいると
旦那と一緒にいなければと思ってしまう。
平日の夜は「早く帰ってきて~」とか言いながら
実際は旦那が連休でずっと家にいたりすると
夫婦2人だけなのに
同じ家の中にいるのに
別々に行動したくなってしまうという矛盾が生じてしまう。
私がそれほど旦那とベッタリ一緒にいたいわけではないと
いうことが旦那にバレることがいけないことのように思っていた。
でもそれが正直なところだ。
たまにはどこかへ連れてってもらいたかったり
一緒にテレビを見たい時もあるが
旦那が休みだからって
いつもいつも一緒にいたかったわけではなかったのだ。



3へ続く

対人関係1

2018-05-14 21:06:22 | メンタル関係
最近いろんなことがあって、
こうして、
人と多く接する場があると、
そして
「私はこの人に受け入れられていないな」と
感じるような言動を誰かから受けると
私は激しく落ち込む。
もう消えてなくなりたくなるくらい、
そのことが耐えられない。

こんな精神状態になると私はいつも
「心療内科に行きたい」と旦那に言う。
精神科でもいいのかもしれないけど
精神科というと
どこか敷居が高いので心療内科ということに
なるのだけど、
要は
私のこの苦しさを誰かにわかってほしい、
この生きづらさをわかってほしい、
そして救ってほしいというような気分になり
「行きたい」と思うのだと思う。
しかしいつも心療内科に行くには至らない。
ある程度、人とまた距離ができ、
誰とも接しない日常に自分が戻っていくと
徐々に徐々にどうでも良くなってくるからかも
しれない。
しかし、心療内科には辛うじて行かなくとも
こういう精神状態になった時、
良くする行動がある。
それは「加藤諦三さんの本を読むこと」だ。
今日も実は読んでしまった。
そしてその中に出てくる「対人恐怖症」の人と
いうのがまた自分にそっくりだった。
加藤さんの本を読むと
あぁ、私はやはり普通の人はないんだなと感じる。
今日手にした本を読んでいて
私はやはり、
人に認められたい、
受け入れてもらいたい、
気に入られたい、
と思っているらしかった。
加藤さんは「人に良く思われるかどうかは結果であって
それを目的にしてはいけない」と書いていたが
その通り、
私は人に良く思われることを目的として生きているなと
感じる。
そして人と話す時は
いかに相手に自分はいい人だという印象を残すかとか、
自分はこんな人間なんですよ~というプレゼンのような、
だから私のことを認めてくださいね~、
軽く見ないで下さいね~
そして気に入ってくださいね~と
アピールするようなことを話そうとしているなと。
相手のことを思ってとか
決してそんなんじゃなく、
ただただ自分が良く思われたい、
自分はそれほど相手のことが好きじゃないのに
むしろ嫌いなのに
自分は相手から好かれたくてしかたがない。
それが自分の価値のように感じていた。

加藤さんの本の中に出てくる
「神経症」と言われる人も
「対人恐怖症」の人も
その他精神的な障害を持っている人は
根っこの部分ではみんな繋がっていて、
結局親に愛されず、
劣等感が深刻で、
だからその分他人に賞賛や母親のような愛情を
無意識にうちに求めていたり、
無理な生き方をしてしまう・・
というのはだいたいみんな共通しているのかなと
感じる。

私自身も
誰かが、親のように自分のことを心配してくれたり
見守ってくれたりしたら
どんなにいいかと思うくらい、
何かが枯渇している。
誰かに
優しくされたい。
理解してもらいたい。
褒められたい。
そして今まで頑張って生きてきたねと言ってほしい。
でももういいんだよ、
そんなに頑張らなくても私はそのままのあなたが
大好きだよと言ってほしい。
本当は母親にそう思ってもらいたい。
けど、
それは一生叶わないことなのだ。

ついこの間まで
洋服が買いたい、キャンプに行きたいと
言っていたのに
気分的にはあっという間に奈落の底に
突き落とされてしまった。
自分のことが情けなくて嫌でたまらない。

加藤さんは
対人恐怖症の人は理想の自分を自分に求めれば
求めるほど
人の批判が堪えると言っていた。
私も確かに理想の自分を求めているなと感じていた。
そうしてはいけない、
そうすると余計に心理的に自分が追い込まれますよ、と
言っているけど、
自分にとっては理想の自分に近づいていくことが
唯一の救いの道のように感じてきたので
それをやめなさいと言われても
ピンとこないし、
それをやめたら自分には
本当に何もなくなってしまうじゃないかというのが
本当のところだ。
ただでさえ、今の自分に自信がないのに
自信をつけようと頑張っていることをやめろ、
そうすると余計に辛くなるぞと言われても
唯一一枚着ていた下着を脱がされるような思いなのだ。
それで自分に自信がつくのだろうか。
いや、でも確かに
私は外見をもっと良くしようとか
洋服をもっと買おうとか
親がいつか自分の家に来た時に
褒めてもらえるように家を綺麗にしておこうとか
そういった努力はしてきた。
家は本当にある程度は綺麗になった。
庭も綺麗になった。
自分自身はそれほど綺麗にはなってはいないと思うが
数年前の洋服難民で美容的なことには一切
注力してなかったころに比べると
恐らく少しはマシにはなってきてるのではないかと思う。
それでもやはり自分にその分自信が増したかというと
そうでもない。
1ヶ月ちょっと前、
実際本当にウチの両親が思いがけずウチに寄ることになった。
家の中は少し片づけた程度で見せられたが
締め切って出かけたあとにすぐに通したので
犬の匂いやその他家の匂いなどはたぶん両親は
感じたのではないかと帰ったあとに思った。
自分の中ではある程度綺麗にしたと思っていても
人の評価を気にしているうちは
「今度はここを言われるのではないか」
「ここを批判されるのではないか」と
不安になりキリがないものだなと思った。
それでもまたいつか両親がウチに来る時の為に
更にまた綺麗にしておかなければと思ってしまう私は
やはり普通ではない。

人からの評価を気にしての行動ではなく、
実際の自分の感情が一番大事なのだということかもしれない。
が、それがなかなかできない。

そう、それで思い出した。
1人、好きなyoutuberさんがいる。
同年代で
シングルで娘さん1人を育てている方だ。
youtubeでもブログでもインスタでも昨今は
綺麗に見せよう見せようとする人が多い中、
彼女はできるだけありのままの日常を
見せようとしているところがとても好きだ。
格好つけてもいない。
作る食事もお弁当も正直
お世辞にも綺麗とは言えない。
でもそれが本当に好きで、
おいしいと思って作っているのは良くわかる。
私のように自分のことが嫌な人には
とても見せられないようなことも見せている。
ご本人自身もそう言っていた。
できるだけそういうyoutubeを目指していると。
自分が苛められていた過去や
今現在も気軽に相談できるような友達がいないことも
正直に打ち明けている。
最近は仕事でちょっとストレスを抱えてしまったようだが
彼女が普段から自分の日常を自分なりに楽しもうと
していることは十二分に伝わってくる。
無理もしていない。
そして話す内容も
興味のない人には興味ないだろうなというような内容でも
自分が本当に話したいことを話しているのがわかる。
そのことを話すことで決して
「自分を認めてほしい」というアピールでは
ないこともわかる。
本当にそう思って言っているということが伝わるから
彼女の話も面白く聞ける。
要はとても正直に生きているのだ。
気軽に相談できるような間柄の友達がいなくても
旦那さんがいなくても
娘さんとはそれなりに仲が良いことも動画を見ていれば
わかるし
そしてそれも決してアピールしてるわけでもなく、
ご両親ともそれなりに交流があり、
妹さんとも仲が良いことは伝わってくる。
それがリアルなことだとわかるから
嫉妬ではなく素直に羨ましいと思える。
だから好きでずっと見ていきたいと思うのかもしれない。
理想の立派な自分を作りこんでいこうというのではなく、
彼女のように正直に生きることを目標にするといいのかな。

反面教師として義姉は
アピールが凄い。
ま、それは私も人のことは言えないのかもしれないが。
義姉もまた劣等感を抱えているのだろうか。
一見すごく幸せそうで
すごく充実してそうには見えるのだけど。
見えるというか
子供が3人もいて
その子供たちも物凄く立派に成長しているし
お金にも困ってはいない。
健康上もすごく元気だと言っていた。
私にはない物ばかりに見える。
いや、実際ない物ばかりを持ってはいると思う。
しかしどこか彼女が「私、これが好きなの~」とか
言ってる言葉に芯がないように感じるというか、
彼女が他の人と接している姿を見ていると
懸命に演じているように何故か見えてしまう。
「あ、これは私達に対するアピールだな」
「そのように見せようとしているな」
「私達に対して対抗しようとしているな」というのが
不思議と伝わってくる。
それはたぶん私の思い違いではないと思う。
正直、みっともなく見えてしまう。
けど、
それはあちらからしてみれば私もそのように
見えているのかもしれないけど。

そうか、
でも加藤諦三さんの本を引用すれば
義姉が劣等感を感じていて
理想の自分を私達にアピールしようと
追い求めれば追い求めるほど
義姉もまた精神的には間違った方向に行っているのかもしれない。


その2に続きます