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クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CD◇クラウディオ・アバド&ベルリン・フィルのマーラー:交響曲第9番

2014-02-18 10:54:41 | 交響曲

マーラー:交響曲第9番

指揮:クラウディオ・アバド

管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

録音:1999年9月、ベルリン(ライヴ録音)

CD:ユニバーサルミュージック UCCG1106

 指揮者のクラウディオ・アバド(1933年―2014年)が亡くなってもうひと月が経とうとしている。昨年予定されていた来日が急遽取り止めになっただけに、残念な思いをされた方も多くいるのではなかろうか。アバドは、イタリア、ミラノの出身。1956年からウィーン音楽院で指揮を学び、1959年に指揮者としてデビューを果たした。以後着実にキャリアを重ね、1968年にミラノ・スカラ座の指揮者となり、1972年には音楽監督、1977年には芸術監督に就任する。この間、スカラ・フィルハーモニー管弦楽団を設立して、楽団のレベルを引き上げることに成功を収める。そして、ロンドン交響楽団の首席指揮者を経て、1983年同楽団の音楽監督となる。1986年には、ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。さらに1990年、カラヤンの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督に就任し、これによりアバドは世界の指揮者の頂点を極めることになったのである。2000年に胃癌で倒れるが、以後回復しフリーの指揮者として、ルツェルン祝祭管弦楽団などを指揮していた。昨年予定されていた際も、ルツェルン祝祭管弦楽団と共に来日するはずであった。日本とのつながりとしては、2003年にアバドは、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞している。

 今回のCDは、アバドがマーラー:交響曲第9番を、1999年9月ベルリンでベルリン・フィルを指揮した時のライヴ録音盤である。マーラー:交響曲第9番は、これまでもバルビローリ指揮ベルリン・フィル盤、ワルター指揮ウィーン・フィル盤、バーンスタイン指揮ベルリン・フィル盤など数多くの名盤が残され、いわば指揮者の激戦区といった趣がある曲であるが、このアバド指揮ベルリン・フィル盤は、数あるマーラー:交響曲第9番の録音の中でも、その存在感を充分に発揮している名盤の一つといってもいいであろう。ここでのアバドは、決して無闇にオーケストラを引っ張ろうとはせずに、自然の流れの中に身を委ね、オーケストラのメンバーの自発性を誘い、そして全体としては自らの語り口で曲を締めくくっている。特に印象的なのは、マーラーが自らの死を暗示していると言われる第4楽章の指揮ぶりで、淡々とした流れの中に深い精神性を込めたものとなっており、マーラーとアバド、そしてオーケストラのメンバーの一体感が極限まで高まり、それを聴くリスナーは、その陶酔感の中に一体となり身を置くことになる。アバドが亡くなった今、この第4楽章を聴くと、アバドの現世との別れの思いが込められているようにも感じられてくる。

 マーラーは、交響曲として第1番~第9番のほかに「大地の歌」と未完の第10番があるので、全部で11曲の交響曲を作曲したことになる。このうち、声楽が入ったものが、第2番、第3番、第8番、「大地の歌」、一方、純器楽作品が第1番、第5番、第6番、第7番、そしてこの第9番である。第9番は、4楽章構成をとり、第1楽章と第4楽章が、静寂さを持った古典的で正統制を保った楽章となっている。一方で、第2楽章と第3楽章は、マーラー特有のアイロニー(皮肉っぽさ)に満ち溢れ、結果としてその対比が極めて印象的な交響曲になっているといえる。特にマーラーは、この曲に標題を付けなかったようであるが、第4楽章の最後の小節に「死に絶えるように」と書かれていることでも分るように、曲全体が「別れ」あるいは「死」というテーマに貫かれている。そして曲を聴いた印象は、崇高さが感じられ、そのこともあり、数ある交響曲の中でも最高傑作の一つとして、特別な時に演奏されることが多い曲である。ただ、マーラー自身は、この曲の初演の前に亡くなったため、演奏を聴くことができなかったという。

 この録音でアバドは、内省的な第1楽章を、実に柔らかく、しかも深遠さと荘厳さ持って、淡々と指揮を進める。何か遠い昔を回想するかのようででもあり、マーラーが自らの死を予感して、過ぎ去リ日の追憶に耽っているような雰囲気を巧みに演出する腕は、さすが世界の頂点を極めた指揮者であることを実感させる。第2楽章と第3楽章は、いつものマーラーが戻ってくる楽章である。マーラー&ベルリン・フィルは、そのことを意識してメリハリのある演奏に終始する。それでも他の曲のマーラーのアイロニーさとは一味異なり、抑制のあるアイロニーとでも言ったらよいのであろうか。アバドもその辺のところは、お見通しかのようにさらりと指揮するので、聴いていて不快感はない。むしろ、第1楽章と第4楽章を際立たせる役割を果たしているかのように感じられる。そして最後の第4楽章を迎える。ここでアバドは、あたかも息を止めて、天上から聴こえてくる音楽を聴き取ろうとするかのように指揮する。中庸を踏まえ、しかも秘めた荘厳さが印象的だ。ここには交響曲の美しさを極限にまで昇華させた演奏がある。そして、「死に絶えるように」と書かれた最後の小節へと向かうに従い、静寂さが辺りを覆う。アバドが亡くなってひと月経った今この録音を聴くと、あたかもアバド自身が別れの挨拶をしているかのように感じてしまう。(蔵 志津久)


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