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◇クラシック音楽CDレビュー◇ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団のプロコフィエフ:交響曲第1、5、4、6、7番/管弦楽組曲「3つのオレンジの恋」、「キージェ中尉」

2019-09-10 09:39:03 | 交響曲


プロコフィエフ:交響曲第1番 「古典」                   
        交響曲第5番                    
        
        管弦楽組曲「3つのオレンジの恋」(歌劇「3つのオレンジの恋」から)
        管弦楽組曲「キージェ中尉」(映画「キージェ中尉」から)                    
        交響曲第4番 [改訂版]                   
        交響曲第6番                    
        交響曲第7番「青春」

指揮:ユージン・オーマンディ

管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団

CD:ソニーミュージック SICC1587~9(3枚組)

 ユージン・オーマンディ(1899年―1985年)は、ハンガリー出身のアメリカ人指揮者。1905年、ブダペスト王立音楽院に入学。1908年から名ヴァイオリニストのフーバイに師事。1917年にヴァイオリン教授の資格を得て音楽院卒業後、ヴァイオリニストとして本格的な演奏活動を開始。1921年、アメリカ演奏旅行をきっかけにアメリカに定住することとなり、ニューヨーク・キャピトル劇場オーケストラのヴァイオリン奏者となる。1924年、同オーケストラの指揮者としてデビュー。1931年、病気のトスカニーニの代役として、フィラデルフィア管弦楽団定期公演を指揮。この代演を成功させて評判を高め、同年、ミネアポリス交響楽団(現・ミネソタ管弦楽団)の常任指揮者に就任。1936年、レオポルド・ストコフスキーと共にフィラデルフィア管弦楽団の共同指揮者となる。 1938年、ストコフスキーの辞任により後任としてフィラデルフィア管弦楽団音楽監督に就任。以後、音楽監督として1980年に勇退するまで42年の長期にわたって在任。来日公演も4度(1967年、1972年、1978年、1981年)行った。 オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団の音色は、“フィラデルフィア・サウンド”として多くのファンから親しまれた。

 フィラデルフィア管弦楽団は、アメリカ合衆国のペンシルベニア州フィラデルフィアを本拠地とするオーケストラで1900年に創立され、現在では「アメリカ5大オーケストラ」の一つとして知られている。1912年に首席指揮者となったレオポルド・ストコフスキーによって名声が築かれたが、1936年から1938年までユージン・オーマンディが首席指揮者の座をストコフスキーと分かち合い、それ以降はユージン・オーマンディが単独で音楽監督となった。同楽団の奏者のほとんどはカーティス音楽学校のトップ卒業生によって占められている。カーティス音楽学校は、同楽団の水準を満たすような楽団員の養成機関をめざして設立され、その教授陣は同楽団のメンバーまたは元メンバーで構成され、伝統の途切れない継承が行われている。ユージン・オーマンディ以降の音楽監督・首席指揮者は次の通り。リッカルド・ムーティ(1980年―1992年)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(1993年―2003年)、クリストフ・エッシェンバッハ(2003年―2008年)、シャルル・デュトワ(2008年―2012年)、ヤニック・ネゼ=セガン (2012年― )。

 このCDは、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団が、プロコフィエフの交響曲と管弦楽組曲を収めた3枚組のアルバムだ。プロコフィエフの交響曲と言うと、多くの人が直ぐに思い当たるのが第1番「古典」であろう。プロコフィエフが古典派の交響曲を擬え、現代風の感覚で作曲した作品で、プロコフィエフの天衣無縫とも言える天才ぶりを如何なく発揮した傑作である。ほかの交響曲というと第5番が挙げられるくらいで、そのほかの交響曲は現在あまり演奏される機会はない。何故、そうなったかを物語るのがこの3枚組のCDアルバムなのである。プロコフィエフは、若いころからその才能を世界から認められる存在であった。そのため、旧ソ連体制になった後でも、例外的にアメリカへの出国が認められた(事実上の亡命である)。その旅の途中、プロコフィエフは日本にも立ち寄りピアノ演奏会を開催している(日本でプロコフィエフが弾いたピアノは遺され、復元され現在演奏できる状態にある)。ところが当時、旧ソ連政府は、労働者階級に基づく芸術作品しか認めず(ジュダーノフによる芸術家への弾圧)、それまで黙認されていたプロコフィエフも帰国を促された。そして帰国後、書かれたのが、交響曲第5番、交響曲第4番 [改訂版]、交響曲第6番 、交響曲第7番「青春」なのである。そこでは、プロコフィエフ本来の天衣無縫さは失せ、どことなく抑うつ的な作品(第5番、第6番)か、明るさだけが目だつ作品(第4番[改訂版]、第7番)が生み出されることになった。現在では、交響曲作品は、第1番と第5番を除いては、ほとんど演奏機会が無い状態なっている。

 ところが、ありがたいことに録音という技術は、これらの交響曲を何回も聴き直すことを可能にする。何回も聴いていると、プロコフィエフが、スターリンの抑圧をかいくぐり作曲した、これらの曲の真価がじわじわと伝わってくるのだ。これを実現したのがこのCDのユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団である。華麗であると同時に真摯に曲と向き合うその演奏姿勢によって、これまであまり顧みられることのなかった作品に新たな光を投げかけている。交響曲第5番は、私には、当時のソ連が祖国防衛のために戦った独ソ戦を交響曲にまとめ上げたように聴こえる。ショスタコーヴィチの交響曲第5番を意識して書かれたのではないかとも感じられる。そこには戦争そのものを否定するのではなく、祖国防衛という崇高な使命に燃えたドラマがある。そして、これを受けるように作曲されたのが、交響曲第6番であり、ここには第5番には盛り込めなかった戦争の悲惨さが込められていると私には聴こえる。一方、交響曲第4番[改訂版]は、アメリカ時代に作曲した明るい曲想の作品を、雄大なシンフォニーに書き改めた作品。そして最後の交響曲7番「青春」は、若人の明るい将来を賛美した作品。この曲を「体制に迎合した交響曲」と批判する向きもあるが、私には、プロコフィエフが政治体制の違いを越えて辿りついた、理想の社会への夢が込められた作品と思えてならない。プロコフィエフは独裁者に対し気づかれないよう静かに抵抗するタイプの芸術家であった。ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏は、これら性格の異なる交響曲を一曲一曲丁寧に辿って演奏している。いたずらに表面的な効果を追うのではなく、プロコフィエフの心に寄り添うような演奏を聴くと尊敬の念すら覚える。なお、プロコフィエフは、1953年3月5日午後6時に脳出血により亡くなったが、偶然にもスターリンは同年同月同日の3時間前に死去した。スターリンが亡くなると同時にその知らせは瞬時に国中に伝わったが、プロコフィエフの死は、しばらくの間、誰にも気づかれなかったほど寂しいものだったという。(蔵 志津久)


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