★ 私のクラシック音楽館 (MCM) ★ 蔵 志津久

クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CD◇イヴ・ナットのベートーヴェン:「悲愴」「月光」「ワルトシュタイン」「熱情」

2011-06-17 09:56:12 | 器楽曲(ピアノ)

ベートーヴェン:ピアノソナタ第8番「悲愴」
         ピアノソナタ第14番「月光」
         ピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」
         ピアノソナタ第23番「熱情」

ピアノ:イヴ・ナット

CD:東芝EMI CE30‐5534

 往年のフランスの名ピアニスト、イヴ・ナット(1890年―1956年)のベートーヴェンのピアノソナタの全曲録音(1951年―1955年)の中から、有名な「悲愴」、「月光」、「ワルトシュタイン」、「熱情」の4曲を1枚のCDに収めたのが今回のCDである。5歳でピアノを始め、8歳を前にしてピアニストとしてのデビューを果たしたというから、早くから才能を開花させたピアニストであったわけだ。その後、サン=サーンスとフォーレに認められ、その場でパリ音楽院へ入学を勧められ、そして即座に入学が認められたという。そして、ドビュッシーに連れられてイギリスを訪問したが、これが以後、世界的な名声を得るきっかけとなり、ヨーロッパや南北アメリカでの演奏活動を展開し始める。その後、1934年から18年間、作曲活動や教育活動に力を入れ、演奏活動から遠ざかっていたが1952年に再度ピアニストに復帰し、大歓迎を受けることになる。ナットが活躍していた時代は、大作曲家や大演奏家がひしめき合っていた、クラシック音楽の黄金時代ともいえる時期で、ナットは、エドウィン・フィッシャーやアルトゥール・シュナーベルと比べられる、当時のピアニストの頂点に存在していたのである。

 イヴ・ナットは、フランス人でありながら、ベートーヴェンやシューマンの曲を得意としていた。フランス人の演奏家には、時々、ドイツ・オーストリア系もそのレパートリーとし、それらの名録音を今に残している者も少なくない。指揮者のシャルル・ミュンシュやアンドレ・クリュイタンスなどは、その典型的事例だろう。イヴ・ナットのピアノ演奏は、決して表面的な華やかしさはないが、実に安定したその演奏は、聴いていて大きな満足感をリスナーに与えてくれる。ドイツ出身の演奏家が、ベートーヴェンを演奏すると、本場ものという意識が出過ぎるのだろうか、力が入リ過ぎて、何か論理的過ぎて、ぎすぎすとした印象が強く残る。それに対して、フランス人のイヴ・ナットは、ベートーヴェンのピアノソナタに真正面から取り組むのであるが、どことなく優美に演奏し、聴くものをいつものベートーヴェンとは異なる、別の次元へと誘ってくれる。しかし、だからといってナットの弾くベートーヴェンが異質な存在ではない。むしろ正統派的なベートーヴェン像そのものなのだが、それが客観的に完全にバランスの取れたものとなっているだけに、逆に新鮮な響きがするのだ。これが今でもイヴ・ナットの弾くベートーヴェンのピアノソナタの録音を不滅の存在にしている。このCDのライナーノートに「簡潔さと洗練、権威と自然な優美さとを結び付けたナット」(ジェレミー・シープマン)とあるが、正に言いえて妙である。

 「悲愴」の第1楽章は、こんなに真正面からベートーヴェンと対峙した演奏は珍しいほど正統的な演奏になっている。かといって、聴くものに少しの威圧感も与えない。ベートーヴェンの深遠な心境がリスナーに静かに入り込み、静かな感動を引き寄せる。第2楽章は、実に平穏な表現に終始する楽章であるが、ここでイヴ・ナットの真価が遺憾なく発揮される。優美な演奏とはこのことを言うのであろう。ベートーヴェンが泣き出しているかのようだ。そして、これまでの雰囲気を第3楽章の軽やかなテンポが吹き飛ばしてくれる。ここでも、ナットのセンスある演奏が光る。「月光」の第1楽章は、イヴ・ナットのために用意されたようなものだ。静かでいて、詩的な空間が温かく包んでくれるくれるようである。あまたある「月光」の第1楽章の演奏の中でも1、2を争う出来栄えと言って過言でない。第2楽章はからっと明るい曲。ナットのピアノは軽妙にしかも優雅に演奏する。そして激しい第3楽章に入るが、ナットはこれまで見せたことのないような力強いタッチを聴かせる。重々しいベートーヴェン像がそこにはあり、曲に深みを持たせるのに成功している。

 「ワルトシュタイン」の第1楽章ほど、ナットの特徴が出ている演奏はないであろう。あまり大上段に被らず、さらりと弾いているのではあるが、逆にこれが、聴く者の心にぐさりと突き刺さるような印象を与える、ナットならではの表現となっているのである。第2楽章は、夢想的な出だしから始まるが、ここでもナットは淡々と弾きこなす。妙なもって回ったところがないところがかえって好感が持てる。後期のベートーヴェンが顔を覗かせる曲だがナットそんなことはお構えなく、曲の本質だけを追い求め弾く。そして、徐々にエネルギーを高めて行き、最後はベートーヴェンならではの世界へと到達する演出力が一段と冴える。「熱情」の第1楽章は、何時もの雰囲気をかなぐり捨てて、ナットは情熱のあらん限りを鍵盤にぶつける。聴いていて小気味いい程である。第2楽章は、落ち着いた変奏曲であるが、ナットの温かみのあるピアノタッチが聴きものだ。そして最後の第3楽章は、がらりと一転してナットは、力強いベートーヴェンの演奏に終始する。その対比が曲の深みを引き立たせている。今回、イヴ・ナットのピアノ演奏を改めて聴いてみて、やはりこんなにベートーヴェンを直視し、しかも優美さをもって演奏できるのは、今に至るまでイヴ・ナットをおいて他にいない、というのが私の結論だ。(蔵 志津久)


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