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◇クラシック音楽CD◇カルロス・クライバーのベートーヴェン:交響曲第5番「運命」/第7番

2011-04-26 11:24:17 | 交響曲(ベートーヴェン)

ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」/第7番

指揮:カルロス・クライバー

管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ドイツグラモフォン 447 400‐2

 カルロス・クライバー(1930年―2004年)は、ドイツ(後にオーストリア国籍取得)生まれの名指揮者であり、父は世界的名指揮者として名高かかったエーリッヒ・クライバーである。年配のリスナーにとっては、クライバーと聴くと反射的にエーリッヒ・クライバー(1890年―1956年)の名前方を思い出してしまうほど偉大な指揮者であった。しかし、息子のカルロス・クライバーは、そんな偉大な父親の七光りで有名になった指揮者であったのではなく、毛並みに加え実力も兼ね備えた指揮者であったのである。アルゼンチンのブエノスアイレルで育ったカルロス(この時スペイン風に名前をカルロスとした。本来はカールであろう)は、1954年に指揮者デヴューを果たしている。世の常で、偉大なる父親との確執は常に付いて回っていたようだ。しかし、1968年にバイエルン国立歌劇場の指揮者となり、独力で指揮者としての地位を確固としたものにした。1974年にはバイロイト音楽祭にもデヴューを果たしている。さらに1987年には、シカゴ交響楽団を指揮し米国へも進出した。その後は、一般の指揮者がたどるように特定のオーケストラの音楽監督に就任することはなかった。この辺が、カルロス・クライバーという指揮者に、さらなるカリスマ性を与えることとは無縁ではないだろう。

 日本へは、1974年にバイエルン国立歌劇場とともに来日以来、1981年、1986年、1988年、1994年と全部で5回来日している。あのカリスマ性の濃い指揮者にしては、来日の機会が意外に多いのに気づく。この辺のいきさつについては昭和音楽大学教授の広渡 勳氏が日本経済新聞に「巨匠クライバー氏の素顔」に詳しく紹介しているいるので、一部を紹介したい。ここで広渡氏は「気難しいといわれる巨匠が5回の来日公演をキャンセルなしにこなしてくれたのは、日本が好きだったこと大きいと思う」と書いている。クライバーは来日する度に歌舞伎を見たり、秋葉原の電気街に自ら出かけ、スタッフに電卓や時計などをプレゼントしていたという。あの気難し屋でカリスマ性の濃い指揮者のこんな行動を知ると、やはりクライバーは日本が好きだったのだなと思えてくる。この文章でクライバーの指揮のヒントになることが書いてあるので紹介しよう。「『音楽を作ろうとしてはいけない』との言葉を何回か聞いた。音楽は自然に湧き出るもので、仕事として取り組んではいけないという意味だと思う。指揮者は『奏者にマジックをかけることが重要』とも言っていた」そうである。今回のCDを聴くと、この言葉の意味の真実味が俄然強く感じられる。

 早速、今回のCDを聴いてみよう。まず、ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」から。ベートーヴェンのこの曲は、ソナタ形式の極地とも言える交響曲で、その完成度の高さは、人類が生み出した音楽の中でも最高傑作であることに異論はあるまい。ただ、「運命」というニックネームが付けられたことによって、曲自体の運命も少々本来の姿と変えられてきたのではないかという感じを抱く。ベートーヴェンにはエピソードが数多く残されている。例えば、交響曲第3番「英雄」では、ナポレオンが皇帝に即位するとベートーヴェンは怒り、楽譜の表紙を破る捨てたというエピソードが残されているが、これは真っ赤な嘘。ベートーヴェンは一度もナポレオンに反感を持つようなことはなかったのである。交響曲第5番も「運命」というニックネームが付けられたお陰で、演奏する方も、リスナーも、聴くたびに運命を感じ取らねば拙いという負い目に晒されている。クライバーの演奏は、そんなこれまでのイメージを一新し、「運命」を真に“音楽的”に捉えて、無理やり聴くものに威圧的な印象を決して与えはしない。こんなナイーブで流れるような「運命」の第1楽章は、私はこれまで聴いたことがない。そこで思い出したのがクライバーの「音楽を作ろうとしてはいけない」という言葉である。クライバーは音楽を作ろうとはせずに、「運命」に新しい生命力吹き入ることに成功している。そして第4楽章の晴れ晴れとした表現は、これまでの重々しい「運命」のイメージを根底から覆す。そこには、あたかも今出来上がったばかりの交響曲のように、新鮮な息吹が溢れ返っているのだ。

 ベートーヴェン:交響曲第7番についても、クライバーならではの新鮮な演奏を聴くことができる。この交響曲にはニックネームは付けられてはいないが、ワーグナーが、リズム動機の活用を指して、この曲を“舞踏の聖化”と絶賛したことにより、“舞踏”という言葉が一人歩きを始め、この結果、必要以上に躍動的に演奏する指揮者がほとんどだ。聴く方も何か“舞踏”的な要素を無意識に追い求めてしまい、結果的に「運命」同様、その真の姿を見失うことにつながることが少なくない。ここでも「運命」同様クライバーは、必要以上に“舞踏”化に走らない。第1楽章は、むしろ静かなモノローグを聴いているかのように静々と始まり、終始が曲線を描いて行き、その優美な佇まいが聴いていて何とも好ましい。第2楽章も静かな音が交差する。こんな優美な7番の第2楽章は、私はこれまで聴いたことがない。第3楽章と第4楽章は、クライバーも演奏内容を、これまでの2楽章とはがらっと変え、あくまで軽快に、あらん限りの躍動感で空間を満たして行く。オーケストラの自発性というよりは、ぐいぐいとオーケストラを引っ張ってい行くのだが、けっして強引さではなく、リスナーはそこにある爽快感に酔いしれるのである。ここでもクライバーの次の言葉が思い浮かんだ。「指揮者は『奏者にマジックをかけることが重要』」であると。
(蔵 志津久)


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