見てもみえないか

2016年03月28日 | Weblog


心焉(こころここ)に在らざれぱ、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず。と言う言葉が中国の古い書物『大学』というのにあるそうですが、私はこのことをよく忘れることがあります。

 

先日、挨拶ばかりある会合に出ました。例によって挨拶というのはつまらない、退屈なものが多いです。ですが、中には大変勉強になることを言う人もいます。

いったん聞いているけど聞く耳を閉ざしてしまうと、自分の世界が目の前に大きく広がり、妄念やらメルヘンの世界に入り込んでいってしまうものです。人はいつの間にか、そういう癖がついてしまっています。何せ、子どもの頃から退屈な挨拶ばかりに遭遇してきましたからね。人と言うより、脳はけっこう器用なものです。

 

見てはいるのですが、気づかないことも多いし、考え事をしながら食べても何を食べたか味を覚えていないものです。まったく、気持次第ですね。
この頃、草むしりをする時間が少しずつ増えてきました。草むしりをしていると、いろいろなことを考えます。

暇なときに人はテレビを見ますが、テレビは与えてくれるものを受けるものです。ですが、草むしりをしていると、自分の脳が勝手にいろいろなことを展開してくれますから面白い。
十年前のことを、ふとどういう訳かひょっこり思い出してみたり、次の瞬間にはまったく別なことを思ったり。

 

ところでテレビといえば、ドラマなのでその通りのことがあったかどうかは疑問ですが、大河ドラマを見ていると、命がけの駆け引きのある中で真の心が見える人と、見ることが出来ない人がいることをうまく描いているなと思っています。忘れていたことを思い出させてくれます。

 

この頃、現役を退いて久しくなり、緊張感が緩みっぱなしのせいか、見れども見えないものが多くなり、聞けども聞いていない話が多く生ってきたようです。
やっぱり、あの朝のラッシュと職場での緊張感は大事だったのですね。自分で緊張できるものを見つけていかなければならないかなと思っていますが、これは難題でしょうね。大変だあ。