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顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

仁王像…睨み顔いろいろ ②

2025年07月13日 | 歴史散歩

殺人的な暑さと寄る年波…歴史散歩に出かけることも減ってきました。
いままで「歴史散歩」で訪れた寺社の仁王像(金剛力士像)の続きです。特に仁王像を撮ったわけではありませんが、まとめてみると表情の違いなどがよく分かりました。

仁王像…睨み顔いろいろ ➀ は、 2024年8月9日に掲載しています。

仁王像は、平安時代末期の源平の戦いで多くの寺院が戦火に遭ったため、鎌倉時代に入ると寺を仏敵から守る守護神として多く造られたといわれています。

写真は、代表的な仁王門で鎌倉時代初め建仁3年(1203)に作られた奈良東大寺南大門金剛力士像です。運慶、快慶という仏師たちによって造られたと伝わる高さ8mを超える檜の寄木造りで国宝に指定されています。(出典:東大寺ウェブページ)

金剛杵(こんごうしょ)を手に持ち上半身は裸で筋骨隆々、腰に裳(も)という布をまとうだけで、右に口を開けた「阿形(あぎょう)」、左に閉じた「吽形(うんぎょう)」という配置が一般的ですが、左右逆や独鈷杵を持つもの、あるいは年月を経て欠落したものなどいろんな仁王像が残っています。



お寺は無くなっても石造りのため仁王像だけはそのまましっかりと残り、睨みを効かしていました。

小美玉市栗又四ケにある廃寺跡で、何もないところに二体の仁王像だけが残っています。
ここには安楽寺という大きな寺院があり、元禄5年(1692)ここより南の霞ケ浦河岸の高浜村にある河岸問屋の笹目八郎兵衛がここの阿弥陀堂に寄進した伊豆石の仁王像で、江戸から船で運ばれてきたと伝わっています。

寺院の方は江戸時代後期に焼失してしまいましたが、石造りのいいところでしょうか、1.7mの大きな仁王像だけが同じ場所に、守るべき仏閣が焼失しても強烈な存在感で残り、その歴史をしっかと伝えているようです。それにしても一体3トンというこの仁王像を舟で運んできたというのもスゴイですね。




引接寺(那珂市額田南郷)は、元禄9年(1696)水戸藩2代藩主徳川光圀公が、この地にあった広栄山心岸寺という寺を金砂郷に移し、元禄2年に水戸徳川家菩提寺として建立した浄土宗の向山浄鑑院常福寺の末寺として建立しました。


パワーあふれる仁王像、木目が際立っていました。正面から見て門の左側に阿形像、右側には吽形像が安置され、通常とは逆の配置になっています。


この寺は、光圀公をはじめ水戸徳川家歴代藩主の御神葬式に際し、瑞竜山徳川家墓所に埋葬の御霊柩の宿寺として明治初年までその役目を果たしてきました。水戸城から瑞竜山墓所までは約25キロ、その街道沿いのちょうど中間あたりに引接寺があるので、ここで葬送の行列が一泊したのでしょうか。
引接(いんじょう)とは仏が衆生を極楽へ導くことなので、寺の名前も一連の埋葬の儀式の意味を持つような気もします。




門の左右で金剛杵を携えて邪悪なものの侵入を防ぐ…、弘願寺(那珂市下大賀)の金剛力士像は、銅製でお堂の中に入ってないだけすごい迫力を増した表情です。佐竹氏の紋の付いた台座の上に立っています。


臨済宗円覚寺派の帝青山弘願寺は、中世に当地を治めた佐竹氏8代貞義(1287-1352)が静神社の神宮寺として弘願寺、西方寺、静宮寺を設けたと伝わっています。


その後水戸徳川家の治世になり、2代藩主徳川光圀の神仏分離を図った寺社改革により寛文8年(1668)現在の下大賀の地に移され、西方寺、静宮寺も弘願寺の塔頭の西方庵、静宮庵として移転されました。文政6年(1823)年には火災で焼失、天保年間(1830~44)には9代藩主斉昭の廃仏政策により廃寺となるも弘化3年(1846)再興…、と苦難の歴史が残っています。


東金砂神社(常陸太田市天下野町)は、延暦25年(806)の創建,平城天皇の勅願によって宝珠上人が社殿を造営、祭壇を設けて近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀し,国家安泰,五穀豊穣の祈願所としたのが始まりとされています。

その翌年には,坂上田村麿が蝦夷征伐の際に多宝塔を建立。中世には源頼義とその子義家が奥州征討の際に勝利を祈願したほか,祈願所と定めた佐竹氏は神領1,200石を献じ,家紋の五本扇に月丸を社紋に使用することを認めました。


近世に入っても,徳川3代将軍家光が社領24石を寄進するなど,創建以来,手厚い保護を受けてきたことがわかります。(常陸太田市のホームページより)


神社なのに仁王門…、神仏習合時代のこの門は、幕末の天狗の乱などで破壊されましたが、近年仁王像が納められました。筋骨隆々とした従来の仁王でなく、リアルな像のため却って不思議な迫力で圧倒されます。近くでそばの名店「慈久庵」を営む地元出身の店主が、知人の仏像彫刻家、関頑亭氏に依頼、奈良時代に流行した漆を何度も塗り重ねる脱活乾漆造りという技法で5年の歳月をかけて完成し奉納されました。


鳳台院(笠間市箱田)は曹洞宗のお寺で、人が集まってこそお寺には意味があるという先代住職の思いを守り、大きな達磨像と2万株といわれるシャクナゲ、広い駐車場などを整備して近在で人気の仏閣になっています。

平安時代後期の永久年間(1113~1118)創建で片庭の国見山の麓にあった禅寺が前身とされ、争乱で廃寺になっていたものを、室町時代の文明8年(1476)に笠間城主笠間朝貞によって現在地に遷され、小田原の海蔵寺安叟和尚の十哲のひとりといわれた竺翁和尚を招き再興されたと伝わります。


江戸時代には寺運が隆盛し末寺が全国に110余寺、笠間藩領内でも35寺あったといわれ、寺領5石の朱印地が安堵されていました。しかしその後たびたびの火災にあい、寺宝もことごとく焼失し、現在は山門などに当時の面影を残しているだけですが、50年ほど前から広大な敷地に伽藍や墓地の整備拡張が続けられ重厚な寺域になっています。


大きく立派な仁王堂も最近の建立のようです。隙間から撮っても筋骨隆々の迫力は伝わっています。



太平寺(那須烏山市滝)は、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に戦勝祈願して千手観音を安置し、その後嘉祥元年(848)に慈覚大師が開創したと伝わります。
中世にはこの近辺の領主であった烏山城主那須氏の篤く崇敬する寺院となりました。


仁王門は寛文元年(1661)烏山城主堀親昌が父親良の菩提を弔うために東江寺を建立した時の建築で、寛文12年(1672)信州上田に移封の際太平寺に寄進移設されたものです。


足腰治癒や旅路安全の祈願で奉納された大草鞋が架かっています。
江戸時代中期頃の作と伝えられる迫力ある「仁王像」は、古色蒼然として300年の歴史を語っているようです。



來迎院(常陸太田市大里町)は、もともと真言宗の富貴山阿弥陀院安楽寺でしたが、江戸時代初期に当時の住職が大罪を犯して廃寺となっていたところに、天和3年(1683)、水戸藩主光圀公の神仏分離政策により大洗磯前神社(大洗明神)の別当寺、大洗山普賢院般若寺が移転されてきました。元禄5年(1688)には日光の輪王寺から来迎院の寺名を授かり光明山安養寺来迎院と改称しました。

仁王像の置かれた茅葺きの山門は宝暦10年(1760)に建てられた三間一戸の八脚楼門形式、2層目には高欄を廻した江戸時代中期の楼門建築の貴重な遺構となっています。
金網の間から撮った左右の仁王像が何とも親しみやすい顔でした。


享保3年(1718)に建てられ、移築再建されたと伝えられる茅葺きの阿弥陀堂は、桁行3間、梁間3間の正方形で、お堂と回廊を一体にした堂宇造りという様式です。


現在は天台宗の無住寺ですが、地元では「お阿弥陀様」と親しまれ、地域の方が保存会を立ちあげて管理しているということでした。

青い海と空と…大洗港第4埠頭

2025年07月05日 | 日記

夏はやっぱり青い海と空…仙人の散歩コースのひとつ、終の棲家から約5キロの大洗港にたまたま出かけた時に、第4埠頭に停泊していた船舶を撮った過去写真を集めてみました。


大洗港は、昭和60年(1985)首都圏と北海道を結ぶフェリー基地として岸壁が整備され、平成7年(1995)にはその南側に第4埠頭が完成し、毎年クルーズ船が寄港するなど物流機能に加えて人流拠点としても知られてきました。

何度も大洗港で見かけた「にっぽん丸」は、商船三井クルーズが運航する外航クルーズ客船で、全長198.2m、全幅25.6m、32,477トン、定員458人です。

新しい情報では、このにっぽん丸が2026年5月10日に横浜へ帰着するクルーズをもって引退することが発表になりました。1990年の就航以来、35年にわたり国内外の多くのお客様にご乗船いただき、延べ60万人以上のお客様をお迎えしたと出ていました。


ずい分前ですが「ぱしっふぃくびーなす」も停泊していました。全長183.4m、全幅25m、26,594トン、定員680人です。


現在は中国系の会社の所有になり、イースタンビーナスという名で韓国を拠点に東南アジアクルーズを行っているそうです。


海上自衛隊の護衛艦やまぎりの停泊した時は一般公開され、地対空誘導弾ペトリオットや87式偵察警戒車などの自衛隊装備品も展示されていました。


この艦艇は2024年に大谷三穂1等海佐が艦長に就任し、海上自衛隊初めての女性護衛艦艦長として当時注目を集めました。全長137m、全幅14.6m、3500トン、定員220人、1989年就役で2027までに退役の予定になっているそうです。


海上保安庁の巡視船「ひたち PM55」は全長72m、全幅10m、650トンで、母港は茨城県の鹿島港です。船名は霞ケ浦から利根川に合流している「常陸利根川」に由来しています。


同じく巡視船「たかとり PM14」は全長68m、全幅7.9m、526トン、横須賀海上保安部所属で船名は横須賀市北部の鷹取山に因むそうです。


巡視船「いず PL31」です。優れた通信設備や物資運搬能力等を備え、病院船機能も有する災害対応大型巡視船で医療スタッフ,救援隊員120名分の居住設備や、ヘリコプター発着甲板などを備えています。横浜海上保安部所属、全長110m、全幅15m、3500トン


この港区を拠点とする「鹿島丸」は停泊している時が多いのでよく見かけます。全長41.19m、全幅8.3m、313トン、定員43名
茨城県所有の漁業実習船で県立海洋高校の実習に使用され、2016年建造の5代目、マグロ漁実習ではハワイや小笠原まででかけているそうです。


沿海一般貨物船の「清盛」、全長76.2m、全幅12m、313トン、母港は広島なので、厳島神社など広島と大きく関わった平清盛の名が付けられています。大洗マリンタワー(高さ60m)とのツーショットです。


浚渫船の一団が長い期間泊まって湾内の水底の土や砂を掘り取っていました。この船は大きな鉄製のグラブを底に落して泥をつかむグラブ式浚渫船、横浜に本社のある松浦企業㈱所有の第7金剛丸です。「浚渫船 第七金剛丸」 総トン数:2,200トン 全長:59.0m/全幅:24.0m/深さ:4.4m 喫水:2.5m


大型クルーザーを招致するため水深もさらに深くするためもあるのでしょうか。水深を現在の8mから9mに、第4埠頭岸壁も20m伸ばすという記事が出ていました。

なお浚渫船とすくい上げた土砂を運ぶ土運船は自航できないので、押曳船など合計6隻の船団になっていました。

「押船兼揚錨船 1こんごう丸」 「押船兼曳船 第十八南海丸」 「押船兼曳船 第38安藝丸」 「土運船 1701松山丸」 「土運船1702松山丸」



茨城県沿岸部の中央に位置する三つの港を日立港区、常陸那珂港区、大洗港区として構成された「茨城港」は、東京都心から北東約110kmに位置し、北関東を結ぶ北関東自動車道と直結しており、北関東地域の経済交流活動や東京湾沿岸地域の港湾物流機能等を補完する重要な役割を果たしています。


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一万本のアジサイ…涸沼自然公園(茨城町)

2025年06月28日 | 季節の花

アジサイの季節です。たやすく増殖ができ成長も早く、品種も多いアジサイの名所が近隣に増えていますが、平成4年(1992)開園のここも、アジサイで知られるようになってからまだ15年くらいです。


終の棲家より約5キロ、以前は自転車で出かけましたが、最近は無精してクルマになりました。汽水湖の涸沼を見下ろす34.5haという広大な敷地のなかに、小高い丘や谷、森林など自然の地形を生かして野趣あふれる公園が造られています。


約600mの散策路沿いに植えられた株も大きくなっています。


海抜0mの涸沼から標高約25mの台地にいたる高低差を利用した斜面のアジサイは、周りの自然と溶け合ってまるで野性のような趣を味わえます。


散策路には急坂もあり雨の日などは注意が必要です。


アジサイは、挿し木で簡単に数が増やせて成長も早い植物ですので、近隣のアジサイ園も総本数や品種の数を大々的に宣伝していますが、ここは約30種10,000本といわれています。


万葉集でも詠まれ古くから親しまれてきたアジサイは、18世紀に欧米に渡って世界中で品種改良がおこなわれ毎年新品種が誕生しているため、その品種は2,000とも3,000ともいわれていますが、正確な数字は分からないというのが現状のようです。


農林水産省のホームページをみると品種登録しているアジサイはわずか418種(2023年)しかありません。因みに栽培の歴史の古いバラは、40,000種以上の品種が登録されているそうです。
登録品種のものは増やして販売することは違法になりますが、自家増殖で自家使用は問題がないようです。


この「アナベル」は、北米に自生のアメリカノリノキの変種をオランダで品種改良されたもので、アメリカアジサイともよばれ最近人気の品種です。


最近増えてきたカシワバ(柏葉)アジサイが両側に植えられたアジサイロードです。


アジサイの花びらのように見える部分は「装飾花」と呼ばれる萼(ガク)が発達したもので、その下に小さく隠れているのが種子を作る真花(しんか)です。このアジサイでも周りの白い「装飾花」に囲まれて、地味な緑色の「真花」が見えます。




紫陽花やきのふの誠けふの嘘  正岡子規
紫陽花に夏痩せ人の足袋白し  西島麦南
紫陽花の夕の藍に羽織りたり  阿部みどり女
罪ありしは桃色時代七変化  香西照雄
老境や四葩を映す水の底  三橋鷹女

※七変化(しちへんげ)、四葩(よひら)はいずれもアジサイの別称




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今どきの花など…空梅雨が心配です

2025年06月22日 | 季節の花
Gooブログの終了を機に引退も考えましたが、惚け防止もかねてもう少し拙いブログを細々と続けることにしました。フォローさせていただいている方の多くの方がお引越しされたはてなブログに引っ越しましたのでよろしくお願いいたします。

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なお、gooブログの顎鬚仙人残日録は、ブログ閉鎖までこのままにしておき、しばらくの間このgooブログでも更新を続けようと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。



さて、梅雨入りしたと思ったら真夏日の好天が続き、湖沼の水不足のニュースもチラホラ…コメ不足が騒がれている状況なので、今年米の収穫に影響が出ないように願うばかりです。


このサクランボはソメイヨシノの実です。仙人が子供のころは、木に登って口を紫にして食べたものです。黒く熟した実は果柄から離れて地面に落ち、一面が濃紫色になっていました。


紅葉したような葉を雑草の間に見つけました。調べたら北米原産の外来種アメリカフウロ(アメリカ風露)の実でした。赤い縁取りの葉が目を惹き、上向きの鞘のような実は熟すとめくれ上がりその勢いでタネを飛ばすそうです。

アメリカフウロの花です。日本古来の薬草ゲンノショウコに似ていませんか、同じフウロソウ属の多年草で、いまは各地で野性化しています。


海岸の波音が聞こえる場所でムラサキカタバミ(紫片喰)が咲いていました。黄色いのはコマツヨイグサ(小待宵草)、別名月見草の小型種でどちらも外来種です。


ホタルブクロ(蛍袋)が朝露に濡れていました。地下茎とこぼれ種による結構強い繁殖力のようで庭のあちこちで姿を出します。


こぼれ種が飛んできたのでしょうか、植えた覚えのない場所に咲いていた花を調べてみたらカンパニュラアルペンブルー、こぼれ種で勝手に増えると出ていましたが、どこから飛んできたのでしょうか。


シノグロッサムは中国原産の園芸種、ワスレナグサと同じムラサキ科です。やせ地や乾燥に強く、こぼれ種でもよく殖えるというので、そのうち野性化してしまうかもしれません。


最近眼にするようになったマンテナは、ヨーロッパ原産の帰化植物で、江戸時代末期に園芸用として渡来しましたが、いまは完全に野性化し雑草の中で勢力を拡げています。


雄しべと雌しべの形が面白いニゲラ(クロタネソウ黒種草)です。地中海沿岸などに自生するキンポウゲ科の一年草、花弁は退化し花弁のように見えるのは萼片で、茎苞と呼ばれるトゲのような葉が花を包んでいます。

花が終わった後のふくらんだ果実の中には。真っ黒い光沢のあるタネが入っているのが名の由来です。


ユウゲショウ(夕化粧)もいたるところで眼にしますが、これも北米南部などを原産とする帰化植物です。マツヨイグサの仲間で夕方近くに開花するので艶っぽい名が付きましたが、今は一日中咲いています。


イトバハルシャギク(糸葉春車菊)は北米原産の多年草、今はコレオプシス・ザグレブの名の方で知られています。


嬉しいことに在来種のドクダミです。古くから生薬や民間薬として利用されてきました。名前には毒矯め (どくため) の意味があり,また馬の十種の病に効くという言い伝えがあり、生薬名を「十薬(じゅうやく)」ともいいます。   ※矯める(ためる):悪いものをよくする

梅雨のころ目に付く…似たような花

2025年06月15日 | 季節の花

キョウカノコ(京鹿ノ子)は、シモツケソウ属の多年草で細かな花の集まりが京染めの鹿の子絞りに似ていることから名付けられました。


似ているシモツケ(下野)はシモツケ属の落葉低木、下野(栃木県)で見つかったことが名の由来とされています。


小さい花がびっしりと…よく似ています。


ヒルガオ(昼顔)は、朝咲いて昼に萎んでしまう朝顔に対して昼咲いているので名付けられました。


ほとんど見分け付かないハマヒルガオ(浜昼顔)は、自生地が海沿いなのと葉の違いで区別できます。


ノイバラ(野茨)はいわゆる野ばらで、日本に自生するバラの原種です。強健な性質のこのノイバラの棘なし品種が、バラ接ぎ木の台木に使われます。


テリハノイバラ(照葉野茨)は名前の通り、葉にツヤがある品種でこの辺では海沿いでよく見られます。

このキク科のお馴染みの花は、どちらもすっかり日本の自然に溶け込んでいますが、侵略的外来生物ワースト100に指定されています。

ハルジオン(春紫菀)はキク科ムカシヨモギ属、あまりにも各地で見慣れていますが、大正時代に渡来した北米原産の外来種です。


ヒメジヨオン(姫女菀)も北米原産で同属の植物、明治時代に渡来しました。3月くらいから咲き始めるハルジオンに対して遅れて5月頃からヒメジョオンは咲き出します。


よくいわれる見分け方は…茎が中空なのがハルジオン、ヒメジョオンの茎の中は白い髄(写真右)が入っています。二つを並べてみると白い舌状花のより細い方がハルジオンというのが分かります。


マツヨイグサ(待宵草)は月見草ともいわれていましたが、月見草は別種で赤い花が咲きます。また竹久夢二作詞の♪待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ♪から宵待草ともいわれます。南米原産で明治時代に渡来しいまは各地で蔓延っています。


コマツヨイグサ(小待宵草)も南米原産の外来種、小型の黄色い花を夜咲かせ朝には赤くなって萎んでしまいます。この辺では海沿いなどで群生をつくり要注意外来種として駆除対象になっています。
 

こちらは園芸種のヒメツキミソウ(姫月見草)、環境に馴染んでくれば間もなく野性化してくるかもしれません。


最近あちこちで眼にするヒルサキツキミソウ(昼咲月見草)、北米原産で観賞用として渡来し今では完全に野性化しています。アメリカ帰りの知人から現地でもよく見かけ、ライスボウル(rice boul ご飯茶碗)とよばれていたと聞いたことがあります。


番外編です。
公園のクロガネモチ(黒鉄黐)に赤い実と花が一緒に付いていました。去年生った実が鳥に食べられずに残ったところに今年の雌花がもう咲いています。


鳥類を捉えるトリモチ(鳥黐)が樹皮からとれるモチノキの仲間で、葉や幹がクロガネ(黒鉄)色というのが命名説ですが、語呂合わせで「苦労がなく金持ちになれる」として庭木などに人気の樹木です。


ところでクコロガネモチは、実が生るのは雌株だけの雌雄異株なので、観賞用に植える庭木や公園樹には雌株だけを植えますが、雄花の咲く雄株がないのに実が付くのは不思議です。遠くの雄株から花粉が運ばれるという説が載っていましたが、見渡す限り雄株は見当たりません…。