顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

涼しい杉木立…神仏習合の御岩神社(日立市)

2024年07月27日 | 歴史散歩
猛暑続きの毎日、ブログ取材は日向を避けて…ということで山深い幽遠な場所を探し、近年パワースポットとしても人気の高い御岩神社(おいわじんじゃ)を訪ねました。


創建時期は不明ですが、縄文後期の祭祀の遺跡や常陸国風土記(721)に「浄らかな山かびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」があり、古くから信仰の聖地だったようです。江戸時代には水戸藩初代徳川頼房公が出羽三山を勧請し水戸藩の国峰と位置づけ、2代光圀公ほか歴代藩主の参拝を常例とする祈願所でした。 


当時から神仏混淆による祭祀で境内に21の神社寺院がありましたが、明治の廃仏毀釈では寺院関連の建物は取り払われました。しかし他所に移して難をのがれた当時の仏像が残り、現在では神仏習合を標榜し、「神仏を祀る唯一の社として、他の神社、寺院に見られない独自の信仰」を伝えていると神社のホームページには載っています。いま全山の総祭神は神仏合わせて188柱になるそうです。


鬱蒼とした杉林の境内は下界より気温は相当低いような気がします。


大きな石灯篭の先には仁王門が見えます。


神社なのに仁王門? 明治の廃仏毀釈で建物は破壊されましたが平成3年に再建されました。


保管されていた江戸時代作の仁王像は、無事に平成の仁王門内に収まっています。


御神木の天然記念物「御岩山の三本杉」です。樹高39m、目通り幹囲8.4m、樹齢500年以上と案内板に書かれています。


水戸葵紋幕の斎神社…祭神は天御中主神などの5柱ですが、室町時代後期の作とされる木像阿弥陀如来座像も祀られている神仏習合の社です。参拝の仕方に迷いますが、ほとんどの方が神式でお詣りしていました。


斎神社の天井画は大きな竜が迫力いっぱいに描かれています。


前に来たときは小さな社でしたが、新しい大日堂が建っていました。室町後期作の木像大日如来坐像が祀られています。大日如来は真言密教の教主で根本仏とされています。


神橋を渡ると御岩神社です。


手水場は沢の水でしょうか、手を入れておけないほどの冷たさでした。


苔むした狛犬に護られた御岩神社の拝殿です。御祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)他の25柱ですので、ここは迷わず神式でお詣りできます。




いたるところに置かれた石仏が迎えてくれます。寛政8年(1796)の日付の入った如意輪観音です。


句碑が三つ建っていました。この神社の奥の峰の名に因んだ「かびれ」という俳誌の創設者大竹孤悠とその門人の句でした。調べてみると、創刊93年になる地元の俳誌で、結構名が知られた俳人の方々でした。


   
残り葉の人のけはいに散りかかる 大竹孤悠



大竹孤悠に師事し、師の亡きあと「かびれ」を主宰したと書かれています。

月の夜の石に還へりし道祖神 小松崎爽青


 大正11年大竹孤悠を師と仰ぎ「生活即俳道」の道に勤しむと書かれています。

春深し杉の何処に念佛鳥  久保紫雲郷 



陽のあまり射さない境内には、やっとタマアジサイが咲き始めていました。


ギボウシの色も一段と濃く感じました。

熱中症警戒情報の出ている平日の昼でしたが、参拝の方の多さに驚きました。

ここは188柱の神々が宿るとされる霊山、御岩山の強い生気にあふれているとされ、近年パワースポットとして都内からの日帰りバスツワーも企画されています。
宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めた時に、強い光が見える場所があるので調べてみたら御岩神社だった! と云う話しが広まったこともありました、真偽は分かりませんが…。

蕎麦4題…「ざる」と「もり」との違いなど

2024年07月20日 | 食べログ


ブログのネタ探しなど、たまの外出で特に暑い日などには、つい手軽に腹に入る蕎麦になってしまいます。食通ではないので気の利いた食レポをおとどけできませんが、訪れた4つの蕎麦店のご紹介です。訪問時期はずいぶん前のもありますが…


そば吉(水戸市萱場町)は、30年以上も前からの馴染みの店ですが、20年ぶりくらいの訪問です。

海藻そば、きのこそばで知られた名店で、広い店内ですが昼時はすぐ満席になります。



太めの田舎そばが少し細目になったのは、代変わりしたからでしょうか。本当はもり蕎麦でいいのですが見得張って50円高いざるそば650円、値上がりはしても価格の安さは周辺の店をしのいでいます。あまり気取らないのがここの特徴で、卓上に天かすが置いてあり、そば湯もポットに入って温かさを保っています。


近くの匠庵(しょうあん)は、店舗前の道路が水戸市との境になっていて、住所は茨城町大戸です。


常陸秋そばを石臼挽きでの十割そばがこの店の売りのようですが、のど越しを優先して二八のもりそばを頼み、川海老のかき揚げを付けてもらいました。


細切りを謳うだけあって、細めの蕎麦が好みの仙人もさすがにびっくり、もちろんのど越しもよく、細切りでも噛み応えもあり美味しくいただきました。


こちらも常陸秋そばを看板に掲げた三六庵(みろくあん)、都内の料亭で板前をしていた店主が、「常陸秋そば」という全国ブランドの産地に近い那珂市菅谷に出店しました。

民家を改築したという店内は、天井が高く、黒光りする梁と間接照明が雰囲気を出しています。


玄そばを脱穀し石臼で自家製粉するそばは細切りで、食感がよく香りが感じられました。
夜は予約限定で新鮮な魚介類のコース料理も出して板前時代の腕を振るっていると聞きました。


2年前に築70年の古民家を改装したそば処里美(常陸太田市大中町)は、保養所にする予定の埼玉の会社が、広い庭が見事なため、多くの人に楽しんでもらおうと蕎麦店を開きました。

製材業を営んでいた前の所有者の造った見事な庭は大きな石や築山を配し、周りの山里の四季に違和感なく収まっています。


地元産の常陸秋そばを自家製粉し、二八の割合で打っています。細めの麺と少し辛めのツユは仙人の好みでした。


あまり大きな改装はしない店内は、テーブル席と座敷を合わせて24席、独り客向きの廊下の窓際席は見事な庭を眺めながらそばを啜れました。


ところでざる蕎麦ともり蕎麦の違いは、海苔がのっているかどうかと認識していましたが、調べてみるとそばの長い歴史がありました。



そばが中国から日本に伝わったのは、奈良時代以前といわれ、当時は主食ではなく雑穀として「粥」や、「そばがき」にして食べていました。その後室町時代には麺状に切った「そば切り」を汁につけて食べるようになりますが、江戸時代になると麺に直接汁をかけた「ぶっかけそば」が流行したので、区別するために汁に付けて食べるのは「もりそば」と呼ぶようになったそうです。江戸中期には、深川の伊勢屋で水が切れるよう、竹のざるにのせて供したことから、「ざるそば」が名付けられました。



明治になると「ざるそば」を少し高級なそばとして「もりそば」と区別するため、そばつゆにみりんを加えたり、のりを乗せるようになりました。現在では約50円~100円の価格差がありますが、材料や味の違いはほとんどないところが多く、両方を区別してメニューに載せてない店もありますし、セットメニューでは海苔なしが多いような気がします。



また西日本では区別せずにどちらも「ざるそば」ということが多く、東日本や北海道では使い分けが多いという分析結果もあるそうです。

俳句では料理としての「蕎麦」は季語に無く、「蕎麦の花」や「蕎麦刈り」、「新蕎麦」「蕎麦掻き」などが秋や冬の季語として載っています。

新蕎麦やむぐらの宿の根来椀   与謝蕪村
痩山にぱっと咲けり蕎麦の花   小林一茶 
蕎麦がきやねりそこなふて曇る月   藤野古白 

新一万円札の顔…渋沢栄一と水戸弘道館

2024年07月14日 | 水戸の観光
我が手元にはなかなか届かない新一万円札ですが、40年親しんだ福沢諭吉から、明治大正期の実業家で「日本資本主義の父」とよばれる渋沢栄一に変わりました。(写真出典:財務省ウェブサイト)

渋沢栄一は天保11年(1840)年に武蔵国榛沢郡血洗島村(現:埼玉県深谷市血洗島)の藍栽培の富農の家に生まれました。
幼少の頃から学問を好み家業である農業や藍葉の生産にも携わりながら、学問や剣術を教わった従妹の尾高惇忠が早くから「水戸学」に傾倒していたため、栄一もその思想を受け継いだといわれます。

元治元年(1864)討幕派の志士として活動していく栄一は諸々の状況から水戸藩9代藩主徳川斉昭の7男の一橋慶喜の家臣として仕え、やがて最後の将軍となった慶喜と厚い信頼関係を築いていきます。

慶喜は慶応3年(1867)に開催されたパリ万国博覧会の政府派遣団の代表に弟の徳川昭武(後に水戸藩11代)を指名し、その随行員として選ばれた栄一は派遣団の会計係としてヨーロッパの経済と資本主義を体感し、その後の栄一の人生に大きな影響を与えます。(写真出典:戸定歴史館)

大政奉還後、謹慎生活の慶喜が弘道館から静岡に移ると、栄一も同地に留まりますがやがて明治政府の呼び出しを受け、民部省に奉職するも明治6年官を辞し、第一国立銀行をはじめとする多くの企業の設立に関わりました。その後も静岡の慶喜公のもとを何回も訪れて君臣の交流は続き、主君慶喜の名誉回復のために幕末における慶喜の果たした役割を再評価した「徳川慶喜公伝」の編さんを行いました。


渋沢栄一は大正5年(1916)、77歳のときに水戸を訪れ弘道館の孔子廟を見学し、館内で講演を行っています。

講演で栄一は、「元来私は水戸派の学問を多く修めた人から多少漢籍を学び」「一ツ橋家にて慶喜公に数年御奉公を致し」「水戸という土地には甚だ深い感情を持って居ります」と水戸への思いを披露しています。


天保8年(1837)生まれの慶喜と天保11年(1840)生まれの栄一は3つ違い、この3年前に慶喜は亡くなっておりますが、その慶喜が幼少期の学問と維新後に謹慎をしたこの場所をどんな思いで眺めたことでしょうか。


謹慎した「至善堂御座の間」には、謹慎時代の慶喜公を描いた羽石光志筆の肖像画が展示されていました。慶喜がここで謹慎した期間(4月15日から7月19日)だけの展示だそうです。


ところで、栄一の水戸訪問の直前に、地元有力者に贈った栄一直筆の書と関連書簡が水戸市の個人宅で見つかり、いま至善堂溜り間で一般公開されています。


「志士や仁者は、自分の生存のために、博愛の徳に背くようなことはしない。自分の生命を捨てても人道を全うするものである」  論語(衛霊公第十五09)より




慶喜公のもとに通った栄一が完成させた「徳川慶喜公伝」全8巻の復刻版や書に関する書簡なども展示されています。

弘道館は、水戸藩9代藩主徳川斉昭が、天保12年(1841)に開設した日本最大規模の藩校です。

最後の将軍徳川慶喜は、幼少期に弘道館で学び、大政奉還後ここで謹慎生活をおくりその後駿府(静岡)に移りました。藩内抗争や水戸大空襲などの戦火を免れた正門、正庁、至善堂は国の重要文化財に指定されています。


正庁は学校御殿とも呼ばれる弘道館の中心的な建物で、藩主臨席のもとで行われた文武の大試験や、諸儀式に用いられました。


藩主臨席の正席の間には、弘道館の建学精神が示された弘道館記碑の拓本が掲げられています。


明治元年(1868)10月2日、天狗派と諸生派の藩内抗争最後の戦いの生々しい銃痕が正門の柱や正庁の長押と柱などに残っています。


正庁の奥にある至善堂は藩主の休息所と諸公子の勉学所で、二つの建物を結ぶ10間畳廊下の手前右手には、警護の侍が詰める大番組控室がありました。


謹慎の部屋を周る畳廊下…どこを向いても青々と葉を茂らせた梅の樹に囲まれていました。

山中薬師…廃寺に残った朱塗りの堂宇

2024年07月09日 | 歴史散歩

小美玉市西郷地の廃寺跡にある山中薬師本堂です。


ここには山中山東光院広諦(こうたい)寺という天台宗の寺院があり、旧水戸街道約1キロ北にある天台宗法円寺(茨城町)の末寺として隆盛を極めていました。開基の詳細は不明ですが享禄時代(1530年頃)とも伝わります。明治の廃仏毀釈により明治2年(1869)に無住のため廃寺となりました。


明治10年(1877)に広諦寺本堂(間口12間半22.5m・奥行6間10.8m)を校舎として西郷地小学校が開校、当時の児童数は32名で約10年間使用されています。明治末期には火災により本堂、仁王門が消失し、残ったのは薬師堂だけになってしまいました。


かっての広諦寺本堂は、水戸の天台宗薬王院と同じ形だったという話が残っていますので、規模は少し違いますが室町時代建築とされる水戸の天台宗薬王院本堂の写真です。


仁王門にあった江戸末期の作と伝わる仁王像は、持ち出して焼失を免れたので薬師堂に安置されています。格子と網の間から拝ませていただきました。阿形像183㎝、吽形像190㎝で、頭部、胸部の平面的な形が特徴の桧寄木造りです。


菊のご紋の付いた厨子の中にある薬師如来ご本尊は盗難にあったとされ、光背と連華台のみが残されているそうです。


当初、屋根は茅葦の寄棟造でしたが、昭和23年に瓦葺、平成3年には銅板葺に改修しています。覗いた内部は格天丼となっていました。


建築年代不詳ですが、桁行3間、梁間3間、円柱12本の方形造りで、内陣も円柱、組み物を乗せた造りになっています。


左手にある池は、心という字に掘られたと伝えられ、古来より目の病にご利益があるとされ平癒を祈願して「め」と書かれた布などが奉納されていたそうです。


薬師本堂の南側にある高さ約2.5mの塚は皇諦寺開山初代の高僧の墓と伝わります。石仏類が残っていました。




この山中薬師本堂があった広諦寺の本山は、水戸街道千住宿から17番目の小幡宿の中心にある天台宗の古刹、神明山等覚院法円寺です。


寺伝では天安元年(857)慈覚大師圓仁の開基にして大師の法孫惠海この地に一宇を建立したとされます。

この小幡宿は水戸藩領で陣、脇本陣は置かれず、問屋場(といやば)1軒だけの小規模宿場でした。ただこの法円寺が水戸藩の定宿として使われ、山門や本堂には水戸葵紋が付いています。
※問屋場とは宿場の人馬の継ぎ立てや宿泊に関する業務をしました。


山門や本堂大棟には水戸葵紋の他に菊の紋が見えましたのでアップしてみたのがこの写真です。

調べてみると天台宗は天帝のいる紫微星を支える三つの星の真下にある天台山で開かれたといい、日本国を表す16菊の中央に三ツ星(三諦章・さんたいしょう)を配したのが天台宗の宗紋で、16菊の使用は許されているそうです。


この山中薬師堂は150年前の廃寺ですが、最近でも無住寺や廃寺跡を見かけることがあります。いま全国には77,000くらいの寺院がある中で、そのうち住職のいない無住寺は約17,000になるという数字があります。

若い人のお寺離れによる檀家の減少や葬儀や法事の簡素化による収入減、そして寺院後継者の不足など時代の変化に伴う諸要因が押し寄せているようです。
地域の歴史と密接に結びついている寺社の消滅は寂しいことです。地域との結びつきを強め、いろんなアイディアで親しめる環境つくりに努力している若い住職さんたちにエールを送りたいと思います。

梅雨どきの花…ネムの花など

2024年07月03日 | 季節の花
公園の林の中にギボウシ(擬宝珠)の蕾を見つけました。

芽やつぼみを覆って花を保護する苞が大きく、花のイメージからかけ離れているので、一瞬名前が出ませんでした。

やがてこの苞と苞の間が長く伸びて見慣れた花になります。花になると蕾を抱えていた苞はほとんど目立たなくなります。

ギボウシの名は、蕾状態の花序の先端が、寺院や橋などの欄干の飾りの装飾「擬宝珠(ぎぼし)」に似ていることから付きました。(異説あり)

ギボウシの仲間は20種以上ありますが、この辺の山野に自生するオオバギボウシの新芽は特に山菜として珍重され、季節には里の物産店でも並んでいます。


庭のハンゲショウ(半夏生)はすでに花期を過ぎています。

季節の移り変わりの言葉として使われてきた「半夏生」は、二十四節気の夏至をさらに細かく分けた雑節の一つですが、今ではカラスビシャク(烏柄杓))という薬草が生える頃の季節や、半夏生(別名カタシログサ (片白草))という薬草の葉が半分白くなる頃の季節といわれています。


写真はこの後者の説の「半夏生」、ドクダミ科ハンゲショウ属の多年草です。これは葉の半分くらいが化粧したように白くなることから「半化粧」とも書かれ、こちらの方が親しみやすいかもしれません。白くなるのは葉の付け根の方からですが、同じように葉が白くなるマタタビ(木天蓼)は葉の先端からです。


花期が終わると、葉が目立つように白くなって昆虫を呼び寄せる役目が終わるので、再び緑色になりますが、これはマタタビと同じです。写真は以前に撮ったマタタビの白くなった葉です。


象潟や雨に西施がねぶの花  芭蕉 (奥の細道)

※西施とは中国の春秋時代に、戦いに敗れたため敵の王に献上されたという絶世の美女です。


ネム(合歓)の木はマメ科ネムノキ属の落葉高木で全国の山地や河岸に生え、ふわっとした淡い紅色の繊細な花は初夏を告げる代表的な花です。

花びらは見えず紅い刷毛のようなオシベと少し長めの白いメシベだけで花をかたどり、根元の緑色の筒状のものが花弁と萼です。

一つの花は30数本のオシベ、1~数本のメシベで構成され、これが10数個集まって1個の花のように見えます。真ん中に背の高い花(頂生花)があり、そこだけに蜜が含まれていて甘い香りを放ちます。

まず、つぼみの先から寝起きのようなじゃもじゃ髪のオシベが出てきて、やがて美容院に行ったようにストレート髪の花の形になってきます。

秋になると実が生りますが、マメ科独特の形の実が頂生花だけに付きます。

茨城県立歴史館の蓮池では、今年はハスの花がいつもより数少なく葉も疎らな生え方です。

この蓮池には、もともと千葉県の遺跡から発掘された2000年前の古代ハスの種を発芽させた大賀ハスが植えられましたが、その後在来種との交配が進んで純粋の大賀ハスとはいえなくなってしまったそうです。

ハスの花の寿命は短く約4日、いちばんの見頃は2日目しかも半開き位の状態の早朝がいいそうなので、なかなか根性がないと撮れません。

疎らな蓮が良かったのか白鳥の親子がくつろげる場所ができていました。親のいうことを素直に聞いている子供たち、いいですねぇ。そっぽを向いている子もいますが…