
殺人的な暑さと寄る年波…歴史散歩に出かけることも減ってきました。
いままで「歴史散歩」で訪れた寺社の仁王像(金剛力士像)の続きです。特に仁王像を撮ったわけではありませんが、まとめてみると表情の違いなどがよく分かりました。
仁王像…睨み顔いろいろ ➀ は、 2024年8月9日に掲載しています。
仁王像は、平安時代末期の源平の戦いで多くの寺院が戦火に遭ったため、鎌倉時代に入ると寺を仏敵から守る守護神として多く造られたといわれています。

写真は、代表的な仁王門で鎌倉時代初め建仁3年(1203)に作られた奈良東大寺南大門金剛力士像です。運慶、快慶という仏師たちによって造られたと伝わる高さ8mを超える檜の寄木造りで国宝に指定されています。(出典:東大寺ウェブページ)
金剛杵(こんごうしょ)を手に持ち上半身は裸で筋骨隆々、腰に裳(も)という布をまとうだけで、右に口を開けた「阿形(あぎょう)」、左に閉じた「吽形(うんぎょう)」という配置が一般的ですが、左右逆や独鈷杵を持つもの、あるいは年月を経て欠落したものなどいろんな仁王像が残っています。
お寺は無くなっても石造りのため仁王像だけはそのまましっかりと残り、睨みを効かしていました。

小美玉市栗又四ケにある廃寺跡で、何もないところに二体の仁王像だけが残っています。
ここには安楽寺という大きな寺院があり、元禄5年(1692)ここより南の霞ケ浦河岸の高浜村にある河岸問屋の笹目八郎兵衛がここの阿弥陀堂に寄進した伊豆石の仁王像で、江戸から船で運ばれてきたと伝わっています。

寺院の方は江戸時代後期に焼失してしまいましたが、石造りのいいところでしょうか、1.7mの大きな仁王像だけが同じ場所に、守るべき仏閣が焼失しても強烈な存在感で残り、その歴史をしっかと伝えているようです。それにしても一体3トンというこの仁王像を舟で運んできたというのもスゴイですね。

引接寺(那珂市額田南郷)は、元禄9年(1696)水戸藩2代藩主徳川光圀公が、この地にあった広栄山心岸寺という寺を金砂郷に移し、元禄2年に水戸徳川家菩提寺として建立した浄土宗の向山浄鑑院常福寺の末寺として建立しました。

パワーあふれる仁王像、木目が際立っていました。正面から見て門の左側に阿形像、右側には吽形像が安置され、通常とは逆の配置になっています。

この寺は、光圀公をはじめ水戸徳川家歴代藩主の御神葬式に際し、瑞竜山徳川家墓所に埋葬の御霊柩の宿寺として明治初年までその役目を果たしてきました。水戸城から瑞竜山墓所までは約25キロ、その街道沿いのちょうど中間あたりに引接寺があるので、ここで葬送の行列が一泊したのでしょうか。
引接(いんじょう)とは仏が衆生を極楽へ導くことなので、寺の名前も一連の埋葬の儀式の意味を持つような気もします。

門の左右で金剛杵を携えて邪悪なものの侵入を防ぐ…、弘願寺(那珂市下大賀)の金剛力士像は、銅製でお堂の中に入ってないだけすごい迫力を増した表情です。佐竹氏の紋の付いた台座の上に立っています。

臨済宗円覚寺派の帝青山弘願寺は、中世に当地を治めた佐竹氏8代貞義(1287-1352)が静神社の神宮寺として弘願寺、西方寺、静宮寺を設けたと伝わっています。

その後水戸徳川家の治世になり、2代藩主徳川光圀の神仏分離を図った寺社改革により寛文8年(1668)現在の下大賀の地に移され、西方寺、静宮寺も弘願寺の塔頭の西方庵、静宮庵として移転されました。文政6年(1823)年には火災で焼失、天保年間(1830~44)には9代藩主斉昭の廃仏政策により廃寺となるも弘化3年(1846)再興…、と苦難の歴史が残っています。
東金砂神社(常陸太田市天下野町)は、延暦25年(806)の創建,平城天皇の勅願によって宝珠上人が社殿を造営、祭壇を設けて近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀し,国家安泰,五穀豊穣の祈願所としたのが始まりとされています。

その翌年には,坂上田村麿が蝦夷征伐の際に多宝塔を建立。中世には源頼義とその子義家が奥州征討の際に勝利を祈願したほか,祈願所と定めた佐竹氏は神領1,200石を献じ,家紋の五本扇に月丸を社紋に使用することを認めました。

近世に入っても,徳川3代将軍家光が社領24石を寄進するなど,創建以来,手厚い保護を受けてきたことがわかります。(常陸太田市のホームページより)

神社なのに仁王門…、神仏習合時代のこの門は、幕末の天狗の乱などで破壊されましたが、近年仁王像が納められました。筋骨隆々とした従来の仁王でなく、リアルな像のため却って不思議な迫力で圧倒されます。近くでそばの名店「慈久庵」を営む地元出身の店主が、知人の仏像彫刻家、関頑亭氏に依頼、奈良時代に流行した漆を何度も塗り重ねる脱活乾漆造りという技法で5年の歳月をかけて完成し奉納されました。
鳳台院(笠間市箱田)は曹洞宗のお寺で、人が集まってこそお寺には意味があるという先代住職の思いを守り、大きな達磨像と2万株といわれるシャクナゲ、広い駐車場などを整備して近在で人気の仏閣になっています。

平安時代後期の永久年間(1113~1118)創建で片庭の国見山の麓にあった禅寺が前身とされ、争乱で廃寺になっていたものを、室町時代の文明8年(1476)に笠間城主笠間朝貞によって現在地に遷され、小田原の海蔵寺安叟和尚の十哲のひとりといわれた竺翁和尚を招き再興されたと伝わります。

江戸時代には寺運が隆盛し末寺が全国に110余寺、笠間藩領内でも35寺あったといわれ、寺領5石の朱印地が安堵されていました。しかしその後たびたびの火災にあい、寺宝もことごとく焼失し、現在は山門などに当時の面影を残しているだけですが、50年ほど前から広大な敷地に伽藍や墓地の整備拡張が続けられ重厚な寺域になっています。

大きく立派な仁王堂も最近の建立のようです。隙間から撮っても筋骨隆々の迫力は伝わっています。

太平寺(那須烏山市滝)は、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に戦勝祈願して千手観音を安置し、その後嘉祥元年(848)に慈覚大師が開創したと伝わります。
中世にはこの近辺の領主であった烏山城主那須氏の篤く崇敬する寺院となりました。

仁王門は寛文元年(1661)烏山城主堀親昌が父親良の菩提を弔うために東江寺を建立した時の建築で、寛文12年(1672)信州上田に移封の際太平寺に寄進移設されたものです。

足腰治癒や旅路安全の祈願で奉納された大草鞋が架かっています。
江戸時代中期頃の作と伝えられる迫力ある「仁王像」は、古色蒼然として300年の歴史を語っているようです。
來迎院(常陸太田市大里町)は、もともと真言宗の富貴山阿弥陀院安楽寺でしたが、江戸時代初期に当時の住職が大罪を犯して廃寺となっていたところに、天和3年(1683)、水戸藩主光圀公の神仏分離政策により大洗磯前神社(大洗明神)の別当寺、大洗山普賢院般若寺が移転されてきました。元禄5年(1688)には日光の輪王寺から来迎院の寺名を授かり光明山安養寺来迎院と改称しました。

仁王像の置かれた茅葺きの山門は宝暦10年(1760)に建てられた三間一戸の八脚楼門形式、2層目には高欄を廻した江戸時代中期の楼門建築の貴重な遺構となっています。
金網の間から撮った左右の仁王像が何とも親しみやすい顔でした。

享保3年(1718)に建てられ、移築再建されたと伝えられる茅葺きの阿弥陀堂は、桁行3間、梁間3間の正方形で、お堂と回廊を一体にした堂宇造りという様式です。

現在は天台宗の無住寺ですが、地元では「お阿弥陀様」と親しまれ、地域の方が保存会を立ちあげて管理しているということでした。