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顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

夏の木陰で…猛暑で蚊も少ない

2025年08月27日 | 季節の花
殺人的な暑さで外出も自粛してしまいますが、ちょっと涼しい日の午前中に公園の散策路の日陰を歩きました。セミが猛暑であまり鳴かないという話を前回取り上げましたが、この時期に襲ってくるやぶ蚊、正式名ヒトスジシマカもほとんどいないのに気が付きました。※写真は国立感染症研究所ホームページよりお借りしました

調べると蚊も25℃から30℃くらいで活発に動きますが、やはり35℃の猛暑では活動がにぶるそうです。猛暑も役に立つことがあると喜びましたがとんでもない、残暑が長く9月中旬以降には一気に襲ってくるそうですよ。

さて、短い時間で撮った野草です。

キツネノカミソリはヒガンバナの仲間の球根植物、花の色が狐の体色に似て葉が剃刀のような形というのが命名由来のようです。

何にもない地面から突然花茎が出て来るので狐に化かされたみたいだという説もありました。

ところで、キツネの名が付く植物ですが、仙人の在庫写真にも他に3種ありました。※名の由来は異説もあります


キツネノボタン:葉の形が牡丹の葉に似ている   
キツネノマゴ:花が狐の孫のようにかわいい、花の出ている花序が狐の尾っぽのよう
キツネアザミ:アザミに似ているけど葉に棘が無く狐に騙されたよう


半日陰が好きなアキノタムラソウ(秋の田村草)はシソ科、田村草という名の由来は確定できないというのが一般的ですが、花が群れて咲く様子を人が集まる「たむろ(屯)」としそれが転訛したという説もあります。


なお、春の田村草、秋の田村草も西日本に生息しているので、最初にタムラソウと名付けられた花があり、それに似ている花が咲く季節の違いから、それぞれの名が付けられたのでしょうか。※写真はお借りしました。


似たようなシソ科の花を撮って調べたらニガクサ(苦草)と出ていました。まだまだ身の回りにも知らない花ばかりです。


ヒヨドリが鳴く頃に咲くというヒヨドリバナ(鵯花)はキク科ヒヨドリバナ属、この時期によく眼にします。


同じヒヨドリバナ属の仲間では、秋の七草のフジバカマ(藤袴)、園芸種のユーパトリウム(西洋藤袴)が似ていることで知られています。




8月も末になりましたが、予報では凄まじい残暑がまだまだ続くようです。四季に恵まれた日本なのに、夏と冬に挟まれた過ごしやすい秋がなくなってしまうような気がします。

セミの鳴き声が聞こえない…猛暑の影響?

2025年08月20日 | 日記

最近セミの鳴いているのを聞いたことがないという話をよく耳にします。

あらためて市内の公園を歩いてみました。涼しかったお盆休みにはセミの鳴き声は少し聞こえましたが以前のような凄まじいものではありません。

えっと驚いたのは、ものすごい数のセミの抜け殻がぶら下がっていました。


これは桂の木、ハート形の葉と芳香から人気の樹木で、特に川口松太郎原作の「愛染かつら」が昭和13年に映画や歌で大ヒットしたことから、今でも縁結びの霊木とされている所もあります。


隣のモミジには数個しか付いていません。
セミが好む木があるかどうか調べても、サクラ、スギ、ケヤキとか一般的なものしか載っていませんので、セミがたまたまハート形の葉をもつ桂の木が気に入ったということにしておきましょう。


いずれにしてもセミはちゃんといるわけですから、セミが鳴かない理由を調べてみると、セミは夏の平均的な気温30~33℃くらいで活動が活発になりますが、35℃以上の猛暑日になるとセミの体力も低下し鳴くことをやめてしまうという説が出ていました。

また、雨不足で固くなった地中から幼虫が出て来るのが困難になるとも出ていましたが、別な場所ではセミの出てきた穴がたくさん見つかりました。

穴は結構大きく抜け殻の幅と同じ直径15ミリくらいあります。この写真だけでも8個の穴が数えられました。硬い地面を太い前脚で掘って出て来る労力は凄いものです。


仙人の棲み処は郊外にある山を切り開いた団地で、緑に囲まれ庭先でもいろんなセミの合唱が聞こえ、我が部屋の窓にも挨拶の顔を出してくれましたが、最近では鳴き声も聞こえません。そういえば孫たちが良く捕りに来たカブトムシも、街灯に寄っているのを何年も見たことありません。
いずれにしても、昆虫や生物がいちばん先に地球温暖化の警鐘を鳴らしているのでしょうか。

耳奥にニイニイゼミの二つ棲む  顎鬚仙人


ずいぶん前に早朝の庭で撮った蝉の羽化の一枚です。羽化する数時間が鳥などに襲われる危険があるため、暗くなってから地上に這い出て殻を脱ぎましたが朝までには完了しなかった個体のようです。

閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
蝉鳴くや我が家も石になるやうに  小林一茶

やがて土の中で3~5年くらい、地上生活2~3週間の天命を全うして仰向けに死骸をさらし、間もなく鳥や昆虫の糧となります。

樹皮に産み付けられた卵は、翌年の初夏に孵化し、地上に降りた幼虫は土を掘って養分を吸う根のもとに潜っていき、またセミの一生を繰り返します。

サルスベリ(百日紅)…ミソハギの仲間

2025年08月14日 | 季節の花

立秋を過ぎたとはいえまだ暑さ真っ盛り…この時期にふさわしい花、サルスベリ(猿滑・百日紅)が垣根越しや公園などでよく目にするようになりました。


サルスベリの漢字は、木肌が滑らかで猿でも滑ってしまうという由来で付いた「猿滑」よりも、長い間咲いているという由来の「百日紅」が圧倒的に多く使われていますが、漢字そのままにヒャクジツコウと読むこともあるようです。


花期が7月初めから10月くらいまで咲き続け、花は1日花でも次々と開くので、まさしく「百日紅」です。最近白花のサルスベリもよく見かけますが、これは「百日紅」(ひゃくじつこう)に対して「百日白」(ひゃくじつはく)と呼ばれるそうです。


サルスベリというと思い出すのは、水上勉原作の映画「五番町夕霧楼」のラストシーン、海を見下ろす丘の上の墓地に咲く真っ赤なサルスベリ、金閣寺炎上のストーリーに重ねて50年以上前の映像がなぜか目に浮かびます。


殺人的な暑さで外出を控えざるを得ない毎日、庭のサルスベリをアップで撮ってみました。


調べてみると花の底にある黄色い雄しべは虫を呼び寄せる餌の役目をして、そこに寄った虫の背中に長い花糸の雄しべから花粉が付きます。また出入りする虫の背中に付いている他所の花の花粉がU字型に下向きの雌しべに付いて他家受粉をするようになっています。

ところでこのサルスベリは、ミソハギ科でした。

ミソハギは今ちょうど咲いていて、萩に似た花を水に浸して振りかけ「禊(みそぎ)」をする風習から「禊萩」とよばれたといわれています。※溝に生えるから「溝萩」という説もあります。マメ科の萩には似てないような気がしますが…。


ついでにこの同じ科のミソハギをアップで撮って調べてみると、自家受粉を防ぐ巧妙な仕掛けが仕組まれていました。雌しべ(1本)と雄しべ(6本+6本)が個体によりそれぞれ長・中・短の3つのタイプがありその組み合わせで雄しべと雌しべの距離を離して自家受粉を防いでいました。※右側の写真はネットからお借りしました。



てらてらと百日紅の旱かな  正岡子規
炎天の地上花あり百日紅  高浜虚子
枝先へ枝先へ花百日紅  星野立子
百日紅すこし離れて百日白  博多永楽

多くの俳人の方が、「猿滑」でなく、「百日紅」の漢字で「さるすべり」と読ませているのは、多分俳句的にはより適していると感じるのでしょうか。
また、句によっては「百日紅」を「サルスベリ」より「ヒャクジツコウ」と読んだ方がリズム的にはいいように感じました。

Gooブログのサービス終了を受けて、はてなブログに引っ越しました。終了まではgooブログも更新しようと思っていますので、よろしくお願いいたします。
顎鬚仙人残日録  https://yoshiharu-n-2025.hatenablog.com/

常陸平氏…興亡の歴史600年

2025年08月08日 | 歴史散歩

桓武天皇には多くの皇子女がおり、親王(皇子)が14人、内親王(皇女)が19人ともいわれております。その曾孫にあたる高望(たかもち)王は、寛平元年(889)に「平」の姓を賜って上総の国司となり、その子孫たちは関東に活路を見い出だして勢力を広め、約100年後には、上総、下総、常陸、武蔵、相模などの地に、「坂東平氏」と呼ばれる武士団を形成しました。


承平5年(935)、坂東平氏の内紛から起こった平将門の乱では、叔父の平国香を焼死させた将門が自ら新皇を名乗り反乱を起こしましたが、これを討伐したのが将門のいとこに当たる貞盛と繁盛の兄弟です。兄の貞盛は後に伊勢に赴いて子孫は「伊勢平氏」と呼ばれ、やがて日本で初めて武家政権を樹立する平清盛を世に出しました。


水戸市にある平戸の館は、平将門との初戦に敗れた平貞盛が探索の手を逃れて潜伏していたと伝わります。後に常陸平氏吉田氏の一族平戸氏の居城になりました。


一方弟の繁盛の子孫たちは常陸の国司になり、11世紀以降は現在の水戸、霞ケ浦沿岸、筑波山麓などで勢力を広げて、16世紀に佐竹氏に滅ぼされるまでの約600年もの間「常陸平氏」の時代をつくり上げました。系図で分かるように大半が名前に通字「幹」の字を用いています。

常陸大掾職に任ぜられた維幹が祖となった多気氏は、5代後の多気義幹が失脚したため、大掾職を吉田氏系の馬場資幹が継ぎ代々その子孫が大掾職を世襲し、職名から「大掾氏」と呼ばれるようにりました。


馬場資幹の館は、現在の水戸城址本丸の東側先端辺りにあったという説が一般的です。そこには水戸明神の馬場があり、その近くに住んだので馬場を名乗ったといわれます。

応永33年※異説あり(1426)には大掾満幹が府中へ出かけて留守にしている時に、河和田城を拠点に勢力拡大を狙っていた江戸通房に水戸城を攻め落とされ、その後の大掾氏は府中城に拠点を移さざるを得なくなりました。

※写真は府中城(石岡市)の三の丸跡、古代には常陸国府が置かれた一画です。


近隣の江戸氏、小田氏、佐竹氏などとの争いで大掾氏は勢力を次第に削がれていきますが、鹿島行方地方に勢力を拡げた一族などは地元に密接に結びついた独立した存在で領地を守っていました。一族間の争いもあり、麻生氏、永山氏などは隣接する嶋崎氏に攻められて滅亡しています。

※写真は嶋崎城址、地元の方に守られて整備されています。

やがて天正18年(1590)に小田原征伐の後に秀吉より常陸国の領土を安堵された佐竹義宣は、すぐに江戸氏の水戸城をを攻め落とし、そのまま南下して大掾氏の府中城も攻略、あえなく落城の憂き目を見た大掾清幹は自害し常陸大掾の歴史を閉じました。

歴代大掾氏の墓所が府中城の700m南にある曹洞宗の平福寺にあります。この大掾氏の菩提寺の平福寺は平国香の開基と伝わり、かっては奈良西大寺の末として府中5大寺のひとつでした。寺号に平家の「平」を付けたのでしょうか。

さて、大掾氏を滅ぼした翌年天正19年(1591)2月に、佐竹義宣は常陸平氏一族などの鹿島、行方地方の領主たちを常陸太田城に呼び寄せて謀殺したといわれる「南方三十三館の仕置き」を行いました。各領主たちの大半を謀殺してすぐに、それぞれの領地に侵攻した佐竹勢の圧倒的な軍事力の前に、短期間で終わった戦闘が多かったと伝わります。

その詳細は、和光院(水戸市)過去帳に、「天正十九季辛卯二月九日 於佐竹太田生害衆、鹿島殿父子、カミ、嶋崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、3武田殿已上十六人」と書かれた2行が大元になる資料として知られています。

※和光院は康安元年(1361)開基の真言宗智山派の古刹です。

ただ嶋崎氏親子については、六地蔵寺(水戸市)の過去帳に、嶋崎安定は「上ノ小河ニテ横死」、長子徳一丸は「上ノ小川ニテ生害」という記述があり、またそれぞれの土地に残る伝承などから、三十三館の一部の領主は佐竹氏がその家臣に預けて殺させたという説も出ています。

※六地蔵寺は光圀公ゆかりの真言宗の古刹で、所蔵する典籍1975冊・文書479通は県指定文化財です。

それらによると、頃藤城主小川大和守義定は嶋崎安定(義幹)、徳一丸親子を預かって居城に戻ると家臣の清水信濃守に命じ、信濃守は親子を居宅に招き鉄砲にて討ったとされています。

頃藤城址に残る小祠には、末裔の方が平成29年10月に建てた慰霊碑があり、「嶋崎城主安定公・長子徳一丸終焉の地」、建立者として「次子吉晴裔孫」、その方々の名前が刻まれています。
嶋崎安定の次子、吉晴は嶋崎城落城の際、幼少のため家臣佐藤豊後守に守られて逃れ、後に多賀郡に土着し、その地区に多く残る島崎氏の祖となったそうです。

このように源平の戦い(1180~1185)から400年後、その子孫たちの戦いはまた源氏の勝利になりましたが、勝者の佐竹氏も関ヶ原の戦いで徳川方として積極的に動かなかったことが疑われ、常陸54万石から秋田20万石への移封になり常陸国での400年の歴史を閉じました。

※馬坂城は,平安時代の末期に新羅三郎義光(源義家の弟)の孫で,佐竹氏の祖とされる昌義が築いた(1133年頃)城郭です。上記系図によると母は常陸平氏から嫁いでいます。

大掾氏の一族ながら、北条、足利、小田の勢力の中で鬼真壁の異名を持つ武勇の真壁氏は、佐竹氏に同盟者として臣属していたので、秋田移封に従いますが家臣数を減らされたため、多くの家臣が地元に残ったといわれています。秋田の真壁氏は秋田家老を輩出するなど佐竹氏の外様ながら重用されたと伝わります。

※写真は400年間この地を治めた真壁氏の真壁城址です。

鹿島、行方の常陸平氏一族の鹿島氏のように鹿島神宮の神職の惣代行事家として復活した例もありますが、烟田氏のように地元で帰農した一族も多かったようです。



長い歴史を持つ常陸平氏と佐竹氏の去った地には、御三家水戸徳川家と御連枝の府中、宍戸、松川藩と、天領(幕府領)、旗本領などが配置され江戸時代を迎えました。

下野国益子氏…名族「紀氏」の末裔

2025年07月31日 | 歴史散歩
手元に小冊子があります。仙人の育ったのは北関東の小さな町、帰省した20年くらい前に一歳年上で子供のころの遊び仲間だった数軒先の酒屋の当主から、先祖は紀貫之だよといただいたものでした。そういえば彼の身内の名前に「紀」の字が付いた方が多かったのを思い出しました。

末裔の方が経営する益子醤油(株)の自費出版のようですが、今回あらためて読み直してみました。

時は大和朝廷が近隣を制圧したころ、紀ノ川一帯を治める豪族紀氏も従属して大和朝廷内部で名族、有力者としての地位を確立していきます。紀一族の紀貫之は古今和歌集(延喜5年(905))の選者として文人で知られており、武人では紀古佐美が延暦8年(789)に第一次征東大将軍として大規模な蝦夷征討を率いています。


    
       人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける    
          紀貫之   百人一首(035番)  古今集(春42)

益子氏となった紀氏の系統ついては異説もあるようですが、「宇都宮興廃記」には紀貞頼は後冷泉院(在位1045~1068)の怒りに触れ常陸国信太郡の郡司となって下向したと載っており、その信太の地は一族の紀長谷雄(845-912)を祖とする信太氏の所領地でした。ここで勢力を伸ばしてきた一族はやがて、近隣の勢力特に常陸大掾の圧力に屈し、宇都宮氏の初代といわれる宗円との縁を頼りに下野国益子の地へ移り益子氏を名乗ります。それから約500年、宇都宮氏の武士団の中でも「紀党」の益子軍と、芳賀氏の本姓である清原氏「清党」の芳賀軍の「紀清両党」は、東国武士団の武勇を代表する存在として知られました。
戦国時代になると一族の内紛や宇都宮家との離反が繰り返され、天正17年(1589)には北条氏に内通し、一族の笠間氏、芳賀氏の領地を侵略したとして主家宇都宮氏に攻められ名族益子氏は滅亡しました。子孫は周辺の勢力を頼って仕えたり、また水戸藩の郷士に取り立てられたものもおりました。


さらに主家宇都宮氏も8年後の慶長2年(1597)、秀吉より突然改易処分を受け備前国へ配流されました。改易の理由は所領石高の虚偽や家督相続の争いなどの諸説があり確定されていないようです。※写真は宇都宮氏の居城宇都宮城(復元)です

西明寺城とよばれた益子氏の居城は高館山(302m)に築かれた山城で、当初は初期の西明寺があったといわれる権現平のすぐ北に館を築いたといわれます。

南北朝期には後醍醐天皇を中心とした南朝方の城として、関東六城のひとつに数えられ、この頃に高館山山頂部を主郭とした大規模な城に改造しています。北朝方の攻撃を何度か耐えるものの、正平7年(1352)、関東六城の中で最後に落城しました。その後、安土桃山時代には益子勝宗が高館城に居城を移すなど、16世紀まで使用された形跡があります。(益子町ホームページ


城域は高館山山頂を中心として、北・南・西の三方に伸びる尾根に郭を設け、南西側は西明寺のある辺りまで城郭遺構が残っています。


城郭の一部、高館山の麓に位置する西明寺の正式名称は「獨鈷山普門院西明寺」、真言宗豊山派に属し築城より300年以上前の天平9年(737)行基菩薩の草創で、天平11年(739)落慶供養が行われたと伝えられますが、たびたび兵火に遭って建物は消失しています。※獨鈷山は高館山の別名です。


天文7年(1538)に益子家宗によって建立されたものだとされる三重塔は、九輪の上の水煙が独特の形をしており、関東甲信越四大古塔とされ、国指定の重要文化財なっています。


同じく重要文化財の楼門は入母屋瓦葺き、阿吽の仁王像が配置されており、明応元年(1492)の建立、室町時代の特色をよく表しています。


この寄棟茅葺きの閻魔堂は正徳4年(1714)建立、寛保3年(1743)再建されたもので、中には5体の仏像が並んでおり、主役の怖い閻魔様が笑っているので「笑い閻魔」として知られています。


確かに右の善童子は笑みを浮かべ、中央の閻魔大王もつられて笑っているように見えます。鎌倉の円応寺にある運慶作の笑い閻魔も有名だそうですが、西明寺のホームページによると、「閻魔の横には地蔵菩薩が立っていますが、閻魔はそのお地蔵の化身といわれます。他人のためなら地獄にも行くという、お地蔵は決して怒りません。いつも笑みを浮かべており、その真言は「ハハハ」という笑い声。だから、その化身である閻魔は笑っていると書かれていました。