桓武天皇には多くの皇子女がおり、親王(皇子)が14人、内親王(皇女)が19人ともいわれております。その曾孫にあたる高望(たかもち)王は、寛平元年(889)に「平」の姓を賜って上総の国司となり、その子孫たちは関東に活路を見い出だして勢力を広め、約100年後には、上総、下総、常陸、武蔵、相模などの地に、「坂東平氏」と呼ばれる武士団を形成しました。
承平5年(935)、坂東平氏の内紛から起こった平将門の乱では、叔父の平国香を焼死させた将門が自ら新皇を名乗り反乱を起こしましたが、これを討伐したのが将門のいとこに当たる貞盛と繁盛の兄弟です。兄の貞盛は後に伊勢に赴いて子孫は「伊勢平氏」と呼ばれ、やがて日本で初めて武家政権を樹立する平清盛を世に出しました。
水戸市にある平戸の館は、平将門との初戦に敗れた平貞盛が探索の手を逃れて潜伏していたと伝わります。後に常陸平氏吉田氏の一族平戸氏の居城になりました。
一方弟の繁盛の子孫たちは常陸の国司になり、11世紀以降は現在の水戸、霞ケ浦沿岸、筑波山麓などで勢力を広げて、16世紀に佐竹氏に滅ぼされるまでの約600年もの間「常陸平氏」の時代をつくり上げました。系図で分かるように大半が名前に通字「幹」の字を用いています。
常陸大掾職に任ぜられた維幹が祖となった多気氏は、5代後の多気義幹が失脚したため、大掾職を吉田氏系の馬場資幹が継ぎ代々その子孫が大掾職を世襲し、職名から「大掾氏」と呼ばれるようにりました。
馬場資幹の館は、現在の水戸城址本丸の東側先端辺りにあったという説が一般的です。そこには水戸明神の馬場があり、その近くに住んだので馬場を名乗ったといわれます。
応永33年※異説あり(1426)には大掾満幹が府中へ出かけて留守にしている時に、河和田城を拠点に勢力拡大を狙っていた江戸通房に水戸城を攻め落とされ、その後の大掾氏は府中城に拠点を移さざるを得なくなりました。
※写真は府中城(石岡市)の三の丸跡、古代には常陸国府が置かれた一画です。
近隣の江戸氏、小田氏、佐竹氏などとの争いで大掾氏は勢力を次第に削がれていきますが、鹿島行方地方に勢力を拡げた一族などは地元に密接に結びついた独立した存在で領地を守っていました。一族間の争いもあり、麻生氏、永山氏などは隣接する嶋崎氏に攻められて滅亡しています。
※写真は嶋崎城址、地元の方に守られて整備されています。
やがて天正18年(1590)に小田原征伐の後に秀吉より常陸国の領土を安堵された佐竹義宣は、すぐに江戸氏の水戸城をを攻め落とし、そのまま南下して大掾氏の府中城も攻略、あえなく落城の憂き目を見た大掾清幹は自害し常陸大掾の歴史を閉じました。
歴代大掾氏の墓所が府中城の700m南にある曹洞宗の平福寺にあります。この大掾氏の菩提寺の平福寺は平国香の開基と伝わり、かっては奈良西大寺の末として府中5大寺のひとつでした。寺号に平家の「平」を付けたのでしょうか。
さて、大掾氏を滅ぼした翌年天正19年(1591)2月に、佐竹義宣は常陸平氏一族などの鹿島、行方地方の領主たちを常陸太田城に呼び寄せて謀殺したといわれる「南方三十三館の仕置き」を行いました。各領主たちの大半を謀殺してすぐに、それぞれの領地に侵攻した佐竹勢の圧倒的な軍事力の前に、短期間で終わった戦闘が多かったと伝わります。
その詳細は、和光院(水戸市)過去帳に、「天正十九季辛卯二月九日 於佐竹太田生害衆、鹿島殿父子、カミ、嶋崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、3武田殿已上十六人」と書かれた2行が大元になる資料として知られています。
※和光院は康安元年(1361)開基の真言宗智山派の古刹です。
ただ嶋崎氏親子については、六地蔵寺(水戸市)の過去帳に、嶋崎安定は「上ノ小河ニテ横死」、長子徳一丸は「上ノ小川ニテ生害」という記述があり、またそれぞれの土地に残る伝承などから、三十三館の一部の領主は佐竹氏がその家臣に預けて殺させたという説も出ています。
※六地蔵寺は光圀公ゆかりの真言宗の古刹で、所蔵する典籍1975冊・文書479通は県指定文化財です。
それらによると、頃藤城主小川大和守義定は嶋崎安定(義幹)、徳一丸親子を預かって居城に戻ると家臣の清水信濃守に命じ、信濃守は親子を居宅に招き鉄砲にて討ったとされています。
頃藤城址に残る小祠には、末裔の方が平成29年10月に建てた慰霊碑があり、「嶋崎城主安定公・長子徳一丸終焉の地」、建立者として「次子吉晴裔孫」、その方々の名前が刻まれています。
嶋崎安定の次子、吉晴は嶋崎城落城の際、幼少のため家臣佐藤豊後守に守られて逃れ、後に多賀郡に土着し、その地区に多く残る島崎氏の祖となったそうです。
このように源平の戦い(1180~1185)から400年後、その子孫たちの戦いはまた源氏の勝利になりましたが、勝者の佐竹氏も関ヶ原の戦いで徳川方として積極的に動かなかったことが疑われ、常陸54万石から秋田20万石への移封になり常陸国での400年の歴史を閉じました。
※馬坂城は,平安時代の末期に新羅三郎義光(源義家の弟)の孫で,佐竹氏の祖とされる昌義が築いた(1133年頃)城郭です。上記系図によると母は常陸平氏から嫁いでいます。
大掾氏の一族ながら、北条、足利、小田の勢力の中で鬼真壁の異名を持つ武勇の真壁氏は、佐竹氏に同盟者として臣属していたので、秋田移封に従いますが家臣数を減らされたため、多くの家臣が地元に残ったといわれています。秋田の真壁氏は秋田家老を輩出するなど佐竹氏の外様ながら重用されたと伝わります。
※写真は400年間この地を治めた真壁氏の真壁城址です。
鹿島、行方の常陸平氏一族の鹿島氏のように鹿島神宮の神職の惣代行事家として復活した例もありますが、烟田氏のように地元で帰農した一族も多かったようです。
長い歴史を持つ常陸平氏と佐竹氏の去った地には、御三家水戸徳川家と御連枝の府中、宍戸、松川藩と、天領(幕府領)、旗本領などが配置され江戸時代を迎えました。