2025年7月30日付をもってgooブログへの投稿を終了し、はてなブログ「神が宿るところ」に引越し手続を行いました。取り合えず引越ししただけで、見映えも何もありませんが、ボチボチ直していこうと思います。また、今後の投稿は、はてなブログに慣れてからと考えていますので、少し時間がかかるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
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境の明神(さかいのみょうじん)。
場所:(関東側)栃木県那須郡那須町寄居2242-1、(奥州側)福島県白河市白坂明神80。国道294号線「芦野駐在所前」交差点から北へ約10km。どちらの神社にも駐車場あり。
「境の明神」は、近世「奥州街道(奥州道中)」の現・栃木県と福島県の境の峠に2つの神社が並んでいるもので、通称として現・栃木県側を「関東明神」、現・福島県側を「奥州明神」ともいう。「関東明神」は、正式には「玉津島神社」で、天喜元年(1053年)に紀州和歌浦の「玉津島神社」(現・和歌山県和歌山市)の分霊を勧請したのが創祀という。主祭神は衣通姫命だが、明治時代になって大己貴命と木花開耶姫命を合祀している。延享元年(1744年)に黒羽藩主・大関氏により真言宗「宝珠院 聖観寺」が別当寺院として建立され、社殿も修復されたが、天保3年(1832年)に野火により焼失、天保年間後半に再建、明治39年に民家の火事に類焼して炎上、明治41年再建。現在の社殿は平成3年に新築されたもの。なお、「関東明神」側では、「奥州明神」を「住吉神社」であるとしている。一方、「奥州明神」は、延暦8年(789年)、紀伊国和歌浦から勧請して玉津島衣通姫命を祀ったとされる。現在の社殿は3つの神殿が並んでいるが、中央が主祭神の衣通姫命で、右が天満大自在天神(菅原道真)、左側が正一位稲荷大明神であるという。よって、「奥州明神」も「玉津島神社」であって、「関東明神」のことを「住吉神社」であるとしている。なお、こちらには別当寺院として天台宗「和光山 松林院 豊神寺」があった。会津の領主・蒲生氏により造営され、白河藩主・本多能登守が改修されたとされるが、こちらも天保3年の火事で焼失、現存する社殿は弘化元年(1844年)に再建されたものという。なお、別当寺院は、明治初年の神仏分離により、関東側・奥州側ともに廃絶した。
さて、互いに、自らを「玉津島神社」といい、他方を「住吉神社」であるというのは変な話だが、古代、国境を挟んで「玉津島神社」(衣通姫命)と「住吉神社」(中筒男命)を守護神として祀るのが習わしであったが、女神が内(国)を守り、男神が外(敵)を防ぐという信仰があったため、それぞれが内側を「玉津島神社」、外側を「住吉神社」と称したということらしい。
ところで、「境の明神」は、「関の明神」ともいわれ、江戸時代には「歌枕」としての「白河関」は当地であるとの認識が一般的だったらしい。俳人・松尾芭蕉も現・白河市旗宿の「白河関跡」(2025年7月26日記事参照)より先に当地を「白河関」跡だと思って訪れているし、同じく俳人・大伴大江丸の「能因に くさめさせたる 秋はここ」という句は、平安時代の歌人・能員法師の「都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」という有名な歌が、「白河関」に行った振りをして実は想像で作ったということを風刺したものである。古代の「白河関」であれば、古代官道「東山道」にあるのが当然と思われるし、「奥州街道」が開かれたのは16世紀以降だから、当地に「白河関」はなかっただろうと思う。因みに、徳川幕府は「武家諸法度」で私関の設置を禁じていて、「奥州街道(現・栃木県宇都宮までは「日光街道」と重複)」の関所は利根川渡河地点の「房川渡中田関所(通称:栗橋関所)」しかなく、当地の国境でも、特に出入りを制限されたということはなかったらしい(もちろん、国境警備のための検問所として「口留番所」はあったようだが。)。とはいえ、関の守護神として「境の明神」の2つ並立した神社は「二所ノ関」と呼ばれ、有名だった。「奥州明神」の道路向かいに「南部屋七兵衛」という茶屋があり(この茶屋のことは芭蕉に随行した曾良の日記にも出てくる。)、その主人は元南部藩士だが訳あって白河関の関守になったとされるが、その子孫・石井氏が当地にこそ「白河関」があったとの研究を行っていた。そして、東京学芸大学の岩田幸三名誉教授が考証を行い、「奥州明神」前の道路脇から「関屋跡」が発見されたとして、昭和57年、石井氏の庭に「白河二所之関跡」碑が建てられた。なお、大相撲の「二所ノ関部屋」は、元は南部藩お抱えの相撲部屋で、「境の明神」の通称「二所ノ関」がその名の由来であるとのこと。
江戸時代には「奥州街道」が本街道だったので往来も多かったが、近代になると更に西に新道が開かれ、「陸羽街道」と称した。現在の国道4号線であり、東北自動車道・JR東北本線・東北新幹線もそちらを通るようになり、当地は衰退していくことになった。
とちぎ いにしえの回廊のHPから(境の明神)
白河市のHPから(境の明神)
写真1:「境の明神」(関東明神)。標柱には「那須町指定史跡 境の明神(玉津島神社)」とある。
写真2:同上、社殿
写真3:石造大日如来像
写真4:明治41年再建の記念碑
写真5:「従是北白川領」石柱。2つの神社の間、道路の向かい側にある。
写真6:「境の明神」(奥州明神)
写真7:同上、社号標(「境神社」)
写真8:同上、社殿。額は「鎮国社」となっている。
写真9:同上、境内の句碑。右側が大伴大江丸の句碑「能因に くさめさせたる 秋はここ」。
写真10:同上、最も奥の大きな石が松尾芭蕉の句碑「風流の はじめや奥の 田うへ唄」。「おくのほそ道」で、現・福島県須賀川市に着いてから詠んだもの。
写真11:「境の明神」(奥州明神)の道路向かい側にある「白河二所之関址」碑
追分の明神(おいわけのみょうじん)。住吉玉津島神社。
場所:栃木県那須郡那須町蓑沢1352栃木県道60号線(黒石棚倉線)から同76号線(伊王野白河線)への分岐点から北東へ約6.9km。駐車場なし。なお、「白河関跡」からは南に約2.7km。
社伝によれば、延暦10年(791年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中、当地で休息したとき、白髪の翁が現れ、田村麻呂と問答した。翁の正体は中筒男命で、田村麻呂が祠を建て、峠の神として中筒男命と衣通姫命を祀ったという。
ここは、古代官道「東山道」の関東最北端にあり(「追分」は街道の分岐点によくある地名)、福島県白河市との境となっている峠上にある。かつては、栃木・福島県に跨って2つの神社があったといわれているが、現在は栃木県側だけにあり、そのため「関東宮」ともいう。地元では「住吉玉津島神社」と称しているが、これは「住吉神社」と「玉津島神社」の2社が合併したものとみられ、祭神は中筒男命と衣通姫命。古代には国境に「住吉神社」と「玉津島神社」を祀る習わしがあったが、国境の内側に「玉津島神社」を祀るため、栃木県側の「玉津島神社」に福島県側の神社が吸収されたものだろう(なお「住吉神社」と「玉津島神社」については次項予定「境の明神」で書く予定)。「東山道」は、江戸時代に五街道の1つとして「奥州街道(奥州道中)」が本街道(那須町伊王野からは現・国道294号線のルート)で整備されたため、旧(古代)「東山道」は脇街道となり、当神社は次第に衰退していったものと思われる。
写真1:「追分の明神」
写真2:社号標(「玉津島神社」)
写真3:鳥居、参道石段脇の杉の巨木。この3本の杉は、いずれも樹高40m、幹回りがそれぞれ120cm・240cm・360cmとされ、「那須の名木」に選定されている。
写真4:社殿(覆い屋)
写真5:社殿
写真6:修復記念碑と石祠
写真7:神社の道路向かい側にある「従是北白川領」碑
白河関跡と白河神社(しらかわのせきあと と しらかわじんじゃ)。
場所:福島県白河市旗宿関ノ森120(「白河神社」の住所)。国道294号線「伊王野」交差点から栃木県道28号線(大子那須線)・同60号線(黒磯棚倉線)で北東へ、約4.2kmで左折して栃木県道・福島県道76号線に入り(白河方面へ)、約9.6km。駐車場あり。
「白河関」は、古代、「東山道」の下野国(現・栃木県)と陸奥国(現・福島県ほか)との国境付近に設けられた関門で、「鼠ヶ関」(「古代鼠ヶ関址」2016年3月12日記事)・「勿来関」とともに『奥州三古関』の1つに数えられている。「類聚三代格」の承和2年(835年)太政官符によれば、「白河・菊多(勿来)の剗(関)を設置して以来400余年」という趣旨の記述が見えるので、5世紀前半頃に設置されたとみられる。「剗」の字が使われているが、これは、江戸時代の関所のように旅行者を改め、取り締まるというよりは、東北地方の蝦夷が南下してくるのを防ぐために設置され、柵や土塁などを備えた軍事施設であったようである。よって、ヤマト政権による東北地方支配が進むと、その機能は失われ、平安時代末期頃には廃関になったとされる。しかし、古くから文人らの憧れの地となり、歌枕として、多くの歌や俳句に詠まれている。俳人・松尾芭蕉も「おくのほそ道」紀行で、「白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と記している。ただし、芭蕉が当地を訪れたときには、実際には関がどこにあったのかすら分からない状態だったらしい。これを現在の場所に特定したのは白河藩主・松平定信で、寛政12年(1800年)に「古関蹟碑」を建立した。この考証には異論もあったようだが、昭和34年から発掘調査が行われた結果、空堀・土塁・柵列・門跡・掘立柱建物跡などが確認されたことから、昭和41年に「白河関跡」として国史跡に指定された。
さて、「白河関跡」の丘の上に「白河神社」が鎮座している。社伝によれば、成務天皇5年(315年?)に白河国造・鹽伊乃自直命(シオイノコジノアタイ)と天太玉命を祀ったのを創始とする。白河国は、律令制度以前、現・福島県白河市・西白河郡・東白川郡・石川郡辺りを範囲とする国で、「先代旧事本紀」(偽書説あり)に「成務朝5年に天降天由都彦命11世孫である鹽伊乃己自直 を白河国造に定めた」とされるので、あるいは、当神社の創建伝承はこれによるのかもしれない。宝亀2年(771年)、住吉明神(中筒男命)・玉津島明神(衣通姫命)を合わせ祀った。これは、律令制度下で白河国が陸奥国の一部となり、白河国造一族の祖神というよりも白河関の関神としての信仰の方が中心となったことを意味すると思われる。永承7年(1053年)に、平兼盛・源頼義・源義家等が稲田を奉献、寿永3年(1184年)に源義経、文治5年(1189年)に源頼朝等が金弊を奉献。元和元年(1615年)、伊達政宗が社殿を改修造営した。江戸時代には「境の明神」、「二所関明神」、「住吉明神」などと称されていたが、明治2年に「白河神社」と改称。旧社格は村社。現在の祭神は白河国造命(鹽伊乃自直命)・天太玉命・中筒男命・衣通姫命。なお、延喜式神明帳に登載された、陸奥国白河郡鎮座の式内社「白河神社」を称している(現・白河市の「鹿嶋神社」も同様の主張をしているため、論社ということになる。)。
蛇足:古代官道「東山道」は、当地付近では現・栃木県道・福島県道76号線のルートとみられており、「白河関」があったことから、後に「関街道」と通称されるようになった。また、当地付近に「東山道」の「雄野(おの)」駅家があったとみられている。「和名類聚抄」に「小野郷」「駅家郷」と並んで記されているが、これは重複と考えられており、前後の駅家との距離等も勘案した推定で、概ね通説となっているようである。ただし、具体的な場所は不明とのことで、あるいは、関としての機能が薄れた「白河関」が転用されたかもしれない。
白河市のHPから(ここからみちのく「白河関跡」)
写真1:福島交通「白河の関」バス停留所のところに「白河神社」の社号標(「式内 白河神社」)。なお、路線バスは便数が少ないので、注意。
写真2:「史跡 白河関跡」石碑
写真3:「白河神社」境内(鳥居前)の「古関蹟の碑」(松平定信建立)。
写真4:「幌掛の楓」。源義家が幌を掛けて休息したという。
写真5:「白河神社」鳥居。右手前に太い藤の古木がある。
写真6:同上、参道石段
写真7:「矢立の松」。源義経が矢を射立てたという松だが、実際には何も残っていないようだ。
写真8:「白河神社」拝殿
写真9:同上、本殿
写真10:社殿脇の「古歌碑」。
平兼盛「便りあらば いかで都へ告げやらむ 今日白河の 関は越えねど」
能因法師「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞふく 白河の関」
梶原景季「秋風に 草木の露を はらわせて 君が越ゆれば 関守もなし」
梶原景季の歌は、主君・源頼朝が来たからには関守も不要だ、というお追従のような歌だが、実際には、その頃には既に廃関になっていただろうと思われる。
写真11:ご神木
写真12:土塁跡と空堀跡
写真13:「従二位の杉」。鎌倉初期の歌人で「新古今和歌集」の撰者の一人である従二位・藤原家隆が手植えした杉といわれ、推定樹齢約800年・樹高約47m・目通り幹囲約6.1mという。
写真14:「旗立の桜」。源義経が戦勝を祈願して源氏の旗を立てたという。
写真15:「白河神社」社務所脇にある芭蕉の句碑と「白河関越達成」石碑。前者は「関守の宿を 水鶏に 問はふもの」(「おくのほそ道」途中の須賀川で詠んだ句という。)、後者は2022年「夏の甲子園」で仙台育英高校(宮城県)が優勝し、深紅の大優勝旗が初めて東北地方へ齎されたことを記念したもの。
写真16:芭蕉の句碑「西か東か 先(まず)早苗にも 風の音」。「白河神社」前から県道を北へ約90mのところにある。なお、この句は、最初「早苗にも 我色黒き 日数哉」と詠んだのを改作したもの。
矢の根石(やのねいし)。
場所:栃木県那須郡那須町蓑沢。栃木県道60号線(黒石棚倉線)から同76号線(伊王野白川線)の分岐から、76号線を北東へ約4.4km。駐車場なし。
「矢の根石」源義経一行が奥州から鎌倉に向かう折に当地に差し掛かり、弁慶が「わが願い吉ならば、この石に立てよ」といって矢を道の傍らにあった大きな石に突き立てると、矢の根(鏃)が石に食い込んだというもの。いくら矢の根が金属でも、矢を押し込んでも石に突き刺さるはずはない。要は、弁慶の超人的な力に加え、奇跡によって吉の占いを得たことを示したものと言える。ただ、治承4年(1180年)、兄・源頼朝の挙兵に参加して、平家との戦いに活躍したものの、文治5年(1189年)には頼朝のために殺されることになったのは、果たして「吉」だったのか...。さて、伝説の「矢の根石」は、道路改修の時に埋められてしまったが、平成24年に復元されたものという(なお、元の「矢の根石」は道路の反対側にあったらしい。)。
蛇足:「矢の根」は鏃・矢尻(やじり)ともいい、矢の先端に取り付けた尖った利器をいう。「矢の根石」というとき、縄文~弥生時代に使われた石鏃(せきぞく)を指す場合や、鏃が突き刺さったような傷や穴がある石を指す場合などがある。当地の「矢の根石」は後者で、義経・弁慶の伝説に結び付けたものと思われる。それでも、どのように矢の根が刺さっていたのか、現物が無くなってしまったのは、とても残念なことである。それにしても、実際に鉄の矢を石に突き刺したオブジェを「復元」というのは、なかなか面白い。
写真:「矢の根石」