神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

尾崎前山遺跡製鉄炉跡地

2024-12-07 23:32:01 | 史跡・文化財
尾崎前山遺跡製鉄炉跡地(おさきまえやまいせきせいてつろあとち)。
場所:茨城県結城郡八千代町尾崎404ー3外。茨城県道20号線(結城坂東線)と同217号線(皆葉崎房線)終点(常総市崎房)の交差点(コンビニ「ファミリーマート常総崎房店」がある。)から北へ約550m、案内板が出ているところで右折(東へ)、約350m。遺跡前に駐車スペースはないが、更に東に約150m進むと「史跡見学者駐車場」がある。
「尾崎前山遺跡」は、台地下の斜面から水田にかけて鉄滓(てっさい。鉄を製錬する際に出る不純物)が散布していたことから、昭和53~55年に発掘調査が行われ、旧石器時代~奈良・平安時代の複合遺跡であることがわかった。特に、南側斜面から3基の製鉄炉跡や木炭・粘土などの材料置場・作業場などの製鉄施設が発見され、台地上では、平安時代の9世紀後半頃の竪穴住居跡や鍛冶工房跡が確認された。当初、製鉄炉は、住居・工房跡と同時期に操業された竪型の炉と考えられていたが、その後の研究の進展により、8世紀まで遡る箱型の炉であった可能性が指摘されているという。
さて、この製鉄炉跡が注目されるのは、平将門が支配していた可能性である。上記の通り、当地での製鉄の開始は将門の登場よりかなり早いとみられるが、将門の本拠地とされる下総国豊田郡(延喜4年(904年)に岡田郡から改称)に所在しているのがポイント。将門の居館があったとされる「石井営所」(「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事))は当地から南に直線距離で約8.5km、「鎌輪之宿」(「平将門公鎌輪之宿址」2021年3月27日記事))は北東に同じく約5kmという位置にある。そして、軍記物語「将門記」に次のような内容の記事がある。即ち、承平7年(937年)11月、敵方・平良兼は、将門の駈使(くし。雑役夫)である丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)を買収して、スパイとして使う。子春丸等は、将門の「石井営所」に偵察に出かける際、営所内に炭を搬入している。この炭について、居館の暖房用ではなく、製鉄炉で使用する木炭ではないか、と解する説があって、そうだとすれば、将門が製鉄のために大量に木炭を集めていたとも解されるという。この辺りの解釈は何とも言えないが、武器だけではなく、農業用にも鉄の需要が大きかったと思われるので、将門が当地の製鉄施設を活用したことは大いに考えられるだろう。
蛇足:古代の製鉄では、木炭もそうだが、砂鉄が大量に必要となる。「常陸国風土記」の香島(鹿島)郡の条に、慶雲元年(704年)に国司・采女朝臣が若松浜で(砂)鉄を採って剣を造った、という記事がある。当地は内陸だが、利根川と鬼怒川に挟まれた地域で、利根川・鬼怒川の砂地から砂鉄が採取できたらしい。


写真1:斜面に造られた「製鉄炉」跡。復元された「製鉄炉」は9世紀頃のものと想定された竪型炉のようだ。フェンスに囲まれ、扉に閂が掛かっているが、施錠されていない(見学後はきちんと閉めましょう。)。


写真2:同上。正面(南側)から見る。


写真3:同上、背後(北側)から見る。


写真4:同上、横(東側)から見る。


写真5:同上、上(北東側)から見下ろす。
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道楽山 地蔵院 永光寺

2024-11-30 23:32:03 | 寺院
道楽山 地蔵院 永光寺(どうらくさん じぞういん えいこうじ)。
場所:茨城県古河市尾崎954。国道125号線と茨城県道17号線(結城野田線)の「諸川」交差点から東へ約1.7km。駐車場あり。
寺伝によれば、承和10年(853年)、無善和尚によって開山。栄光が承久3年(1221年)に中興開山として入り、寺名を「栄(永)光寺」としたという。近世には、京都「醍醐寺 無量寿院」を法流本寺とし、現・古河市前林「東光寺」(2024年9月28日記事)の末寺になっている。天明2年(1782年)、第18世・宥覚の頃に伽藍が整って盛況を極め、多くの末寺を有していたという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は不動明王。
なお、当寺院は「花の寺」としても知られており、特に、5000株もの牡丹(ボタン)が有名で、4~5月頃の参詣者が多い。また、北関東三十六不動尊霊場第34番札所、関東八十八ヵ所霊場第39番霊場、茨城百八地蔵尊霊場第45番札所(水子地蔵尊)、葛飾坂東観音霊場番外(21番と22番の間)札所(十一面観世音菩薩)となっている。


北関東三十六不動尊霊場のHPから(34番札所:永光寺(通称:牡丹不動尊))

関東八十八ヵ所霊場のHPから(第三十九番霊場 道楽山 永光寺)


写真1:「永光寺」寺号標


写真2:境内入口参道


写真3:山門


写真4:巨大な石造不動明王像


写真5:中門。中に石造の毘沙門天像


写真6:本堂(鳳凰殿)


写真7:三仏堂


写真8:地蔵堂


写真9:石造の観音像


写真10:鐘楼
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青谷山 地蔵院 東漸寺

2024-11-23 23:33:21 | 寺院
青谷山 地蔵院 東漸寺(しょうこくさん じぞういん とうぜんじ)。
場所:茨城県古河市仁連126。茨城県道17号線(結城野田線)と筑西幹線道路の「宿」交差点から北~北東へ約350m。駐車場あり。
寺伝によれば、 文治5年(1189年)、覚法上人の開基で、「前林山 東光寺」(2024年9月28日記事)の会下にあったため、「東」の一字を採って寺号を「東禅(漸)寺」と名付けた。また、境外仏堂となっている「仲山観音堂」(前項)からの景観が深山幽谷を思わせたことから「青谷山」という山号にしたという。文明元年(1469年)に、時の住持・宥卯が醍醐松橋流の真言密教を伝授され、その後の歴代住僧が相承したとされる。延宝6年(1678年)、当地の大火により伽藍焼失するが、その後再興された。 現在の本堂は昭和58年の完成。 現在は真言宗豊山派に属し、本尊は大日如来。猿島坂東三十三観音霊場の第8番札所(「仲山観音堂」の十一面観世音菩薩)、茨城百八地蔵尊霊場第46番札所(延命地蔵尊)となっている。また、境内の菩提樹(ボダイジュ)は幹廻り(目通り)約2.5m・樹高約14mで、成長が遅いボダイジュとしては貴重な大木として茨城県指定天然記念物となっており、推定樹齢約500年という。
なお、当寺院の向かいに天台宗「鷲宮山 妙厳寺(じゅうぐうさん みょうごんじ)」がある。寺伝によれば、治安2年(1022年)、尊秀の開山とされるので、当寺院より開山時期は少し早い。本尊は釈迦如来。また、「妙厳寺」の北側~「仁連小学校」の東側に、詳細は不明で遺構も殆ど残っていないようだが、「関根豪族屋敷」という中世城館があったとされている。当寺院と「妙厳寺」の間の道路、現・茨城県道17号線(結城野田線)は、江戸時代に「日光東照宮」参詣のため整備された「日光街道」の脇往還である「日光東往還」であり、当地には「仁連宿」があった。当寺院などの歴史を考えると、当地が平安時代末~中世以来の交通の要衝であったと思われる。


古河市のHPから(【県指定文化財】ボダイジュ)


写真1:「東漸寺」境内入口、寺号標


写真2:同上、本堂


写真3:同上、本堂前に露座の青銅製釈迦如来像が安置されている。高さ5尺4寸(=164cm)、元禄8(1695年)の建立。


写真4:同上、「東漸寺の菩提樹」(茨城県指定天然記念物)


写真5:同上


写真6:同上


写真7:同上、境内(駐車場)にある「三峯神社」


写真8:「妙厳寺」境内入口、寺号標。正面に本堂。元は現・茨城県境町山崎にあったが、火災に遭い、現在地に移転してきたという。


写真9:同上、大きな「馬頭観世音」碑


写真10:「関根豪族跡地」碑。「東漸寺」前から北東へ約200mの民家の庭にある。
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仲山観音堂(茨城県古河市)

2024-11-16 23:30:05 | 寺院
仲山観音堂(なかやまかんのんどう)。
場所:茨城県古河市仁連557。茨城県道17号線(結城野田線)と筑西幹線道路の「宿」交差点から北へ約170m、県道が北東へカーヴしているところで右折(西へ)、約100mで右折(北へ)、約300m。駐車スペースあり。
真言宗「青谷山 東漸寺」の寺伝によれば、聖武天皇の皇后・光明皇后が懐妊のとき、行基に安産を祈らせた。行基は、摂津国仲山に夜々光明を放ち、異香が薫じた霊木があったのを取って、自ら数体の十一面観音像を刻して祈願したところ、無事に皇太子が誕生した。このため、摂津の仲山、宇田の仲山、佐代の仲山など、各地の仲山にこの観音像を勧請して、女人の安産の悩みを救うこととした。天平11年(739年)、鑑真が「下野薬師寺」(現・栃木県下野市)から遊行の折、当地で休憩したところ、笈に入れて背負ってきた行基作の観音像が急に重くなって動けなくなったので、当地に小庵を結んで観音像を安置した。これが「仲山観音堂」の創祀であり、当地の地名も「仲山」となったとされる。この観音の安産・子育ての御利益により、母親の死後、祖母が引き取った孫のために祈願すると、祖母から乳が出て孫を育てることができたという伝説がある。また、旱魃の折には、境内の「観音池」に請雨を祈念すると、雨が降ったという。現在は「東漸寺」の境外仏堂で、堂本尊の十一面観世音菩薩像は猿島坂東三十三観音霊場の第8番札所となっている。この観音像は、光明皇后の姿を写したとの伝承がある日本の総国分尼寺「法華寺」(現・奈良県奈良市)の十一面観世音菩薩像を摸刻したものらしく、中世後期頃の造立と推定されているとのこと。
さて、「東漸寺」の開基は文治5年(1189年)とされているので、(伝承では)「仲山観音堂」のほうが古い。元は「東漸寺」は「仲山観音堂」の西側の台地上にあったが、周辺には湿地帯が広がり、参拝には船が利用されていたという。その後、洪水被害などのため、「東漸寺」は現在地に移転したが、観音堂・石造物のみが残されたらしい。因みに、観音堂の裏に「仲山観世音古墳」と呼ばれる直径約20m・高さ約3mの円墳があり、古くからの霊地であったとも考えられるという。
蛇足:野暮なことだが、伝承に対する史実について補足。聖武天皇と光明皇后の第1皇子・基王は、神亀4年(727年)に誕生し、生後わずか33日目で皇太子に立てられたが、翌年には夭折している。その後も、男子は育たず、皇太子になったのは阿倍内親王(後の孝謙天皇)だった(立太子は天平10年(738年)、当時20歳。)。なお、行基は元々、国の許可を得ず布教活動を行うことを禁じた僧尼令に違反しているとして弾圧されており、民衆からの人気をみて朝廷側が行基を利用し始めたのは天平3年(731年)頃からである。また、「下野薬師寺」が創建されたのは7世紀末頃だが、鑑真が来日したのは天平勝宝5年(753年)で、鑑真により「下野薬師寺」に戒壇が設置されたのは天平宝字5年(761年)である。


写真1:「仲山観音堂」境内入口


写真2:「仲山観音堂」


写真3:観音霊場の奉納額


写真4:境内の供養塔


写真5:同上、右奥に「倶利伽羅龍神(倶利伽羅不動)」石塔


写真6:宝篋印塔など


写真7:観音堂の右手奥(境内の北東側)にある「仲山観世音古墳」


写真8:古墳から観音堂背後を見下ろす。円墳ということだが、西側の土塁とつながっていて、古墳の範囲がどこまでか、よくわからない。


写真9:「観音池」。現在は境内の東南角にある。
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蛇池大明神(茨城県境町)

2024-11-09 23:33:40 | 神社
蛇池大明神(じゃいけだいみょうじん)。
場所:茨城県猿島郡境町蛇池55。茨城県道17号線(結城野田線)「長井戸北」交差点から東へ約1.2km、「境町消防団第六分団」倉庫の斜め向かい側の狭い道路に入り、南に約120m。駐車場なし。
「蛇池大明神」は、現・茨城県境町の「蛇池」という地名(旧・「蛇池村」)の由来となったとされる大蛇伝説の池の傍らに建つ小祠である。大蛇伝説には2種類あり、その1つは次のとおり。現在は周りがすっかり農地になってしまったが、昔は椿(ツバキ)の木が鬱蒼と茂り、昼でも暗い池があった。そこに長さ十間(約18m)という大蛇が棲んでいて、村人から恐れられていた。見かねた近くの寺の住職・正進法印が、大蛇に向かって「しばらく他の場所に移ってもらいたい」といって、証文代わりに「十年」と書いた水晶の玉(あるいは米粒)を池に投げ入れた。これを見て、大蛇は印旛沼(現・千葉県北部)に引っ越して行ったが、約束の十年が過ぎて、元の池に帰ってきた。ところが、水晶玉の「十」の上に「ノ」が書き加えられていて、「十年」が「千年」になっていた。そこで、大蛇は、仕方なくまた印旛沼に戻っていった。村の者が印旛沼に行くと沼が荒れ狂う、というものである。印旛沼を鵠戸沼(くぐいどぬま。現・境町と坂東市に跨って存在した大きな沼で、現在は干拓されて水田になっている。)とするヴァリエーションもあるが、話の筋には殆ど影響がない。ただ、この話だけだと、大蛇を大明神として祀る必要性があまり感じられない(出て行ってくれたことに感謝した?)。また、大亀を相手に、「十」を「千」に書き換えて騙す話は現・常総市の「寿亀山 天樹院 弘経寺」(2021年5月29日記事)にもある。どちらが先かはわからないが、似たような話が他所にもあるということになる。さて、伝説の2つめは、次のようなものである。村にとても貧しい子沢山の百姓がいたが、金に困り3人の娘を江戸に奉公に出すことにした。父親は娘らの奉公先から奉公金を受け取り、家に帰ろうとしたが、魔が差したのか、遊郭で金を使い果たしてしまった。家に帰り、妻から奉公金のことを聞かれた夫(父親)は、奉公金を遊びに使ったとは言えず、「帰る途中で、池の大蛇に奉公金を呑み込まれてしまった」と、大蛇のせいにした。それ以来、この噂を聞いた村の人々も、何かにつけて自分に都合が悪いことは大蛇の仕業にするようになった。村人のあらゆる悪事の濡れ衣を押し付けられることになった大蛇を憐れんだ、近くの寺の住職・正純法師は「十年間姿を隠し、村人の心が入れかわってから池に戻ってほしい」と頼んだ。こうして、大蛇は池から姿を消し、十年経って戻ってきたが、村人の様子は以前と全く変わっていなかった。このことに絶望した大蛇は、再び姿を消し、戻ってはこなかった。その後、反省した村人が大蛇を憐れみ、祠を建てて供養するようになった。これが「蛇池大明神」であるという。こちらのほうも、いまいち、すっきり腑に落ちるような話ではないと思うのだが、どうだろうか。
一般的には、蛇=竜は水の神で、よく池沼の傍らに祀られる。多くは、旱のときの雨乞い祈願を行ったりする。当地の場合、南に利根川が流れており、昔は沼沢地が多かった土地柄だったとすると、むしろ水害を治める役割があったのかもしれない。
蛇足:伝説は別にして、「蛇池」という名の由来については、「在家(ざいけ)」という言葉が訛ったものというのが有力。「在家」というのは、出家しないままで仏道に帰依した者という意味もあるが、歴史的には、中世の荘園や公領において、民・住屋・耕地を1セットで把握し、夫役などの負担を負わせる徴税賦課単位を指し、「在家」が領主の財産とされていた。東国では、室町時代まで「在家」支配体制が続いたという。天正2年(1574年)の「古河公方足利義氏料所目録」(喜連川文書)の「上幸嶋」分に「在家 清式部」とあり、この「在家」というのが旧・蛇池村のことであり、清式部太夫という人物の支配地だったのだろうと考えられている。


境町観光協会のHPから(蛇池(大蛇伝説))


写真1:「大蛇伝説の池」。説明板がある。


写真2:「蛇池大明神」鳥居


写真3:同上、祠。「弘化三年 蛇池大明神」銘があるという(弘化三年は1846年)。


写真4:「大蛇伝説の池」。周囲約60m。訪問した時には、殆ど水が涸れていた。


写真5:同上


写真6:同上
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