神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

秋嶠山 地蔵院 妙法寺

2024-07-20 23:32:16 | 寺院
秋嶠山 地蔵院 妙法寺(しゅうきょうざん じぞういん みょうほうじ)。
場所:茨城県桜川市本郷13。茨城県道・栃木県道45号線(つくば真岡線)と同216号線(岩瀬二宮線)の「旭町」交差点から北へ約210mで右折(東へ)、通称「小栗街道」を約2.8km進んで「下泉集会所」のところ(「妙法寺→」の案内標識がある。)を右折(南へ)、約400m進んだ交差点の右(西)側が境内入口。駐車場あり。
寺伝によれば、延暦年間(782~806年)、下野国「小野寺山 大慈寺」(現・栃木県栃木市)の広智国講師が、常陸国坂戸庄上野原地に草堂を建て、「晶屋精舎(あきやしょうじゃ)」と称したのが始まり。 仁寿年間(851~854年)に円仁(慈覚大師。第3代天台座主)が諸堂を建立し、自作の地蔵菩薩を安置して、「阿炬那摩山 顕法憧園(あきやまさん けんほうどうえん)」と改称した。 よって、草創を広智国講師とし、開基を慈覚大師とする。延喜年間(901~922年)には亭珍阿闍梨が中興し、「阿幾那摩山 十輪院 妙法寺」と改称した。「平将門の乱」(天慶2年(939年))の折、兵火により諸堂は灰燼に帰した。しかし、このとき、本尊の地蔵菩薩は沼のほとりに逃れて、無事だった。以来、水縁地蔵尊、後に水引地蔵尊と呼ばれるようになった。寛治年間(1087~1094年)、板戸判官・藤原範明が奥州討伐を祈願し、その宿願が叶ったとして、報謝のために堂塔を再建。塔頭10ヵ坊・末寺10ヵ寺を有し、現在の「秋嶠山 地蔵院 妙法寺」に改称した。応仁年間(1467~1469年)、火災により焼失、元亀年間(1570~1573年)、現在地に移転した。現在は天台宗の寺院で、本尊は水引地蔵菩薩。なお、ほかにも多くの仏像があり、木造の阿弥陀如来坐像・伝観音菩薩立像・伝虚空蔵菩薩立像などは平安時代の9~10世紀頃の作とされ、茨城県指定文化財。関東百八地蔵尊霊場第61番札所・茨城百八地蔵尊霊場第34番札所、北関東三十六不動尊霊場第33番札所(通称:金色不動尊)となっている。
また、本堂に瞬義上人の即身仏が安置されている(即身仏の本堂安置は、関東で唯一という。)。瞬義上人は鎌倉「宝戒寺」住職だったが、69歳のとき、弟子が住職をしていた当寺院に隠居し、貞享3年(1686年)、78歳のとき、衆生済度のため入定した。遺体は7日間の法要の後、石造阿弥陀仏の胎内に納めた(当寺院の辺りは湿地帯で、土に埋めると腐敗してしまうと考えられたためという。)。安永2年(1773年)、住職の夢枕に立った上人が「再びこの世に出て衆生を救済しよう」と告げたため、石仏を開けて、即身仏となった上人を取り出したという(拝観は要予約)。
なお、当寺院の元の所在地は現在地より南方約750mの地点で、そこには「上野原廃寺跡」という遺跡があり、9世紀頃の瓦が出土している。そこから南西約800mのところに「新治廃寺跡」(2018年8月11日記事)があるが、この寺院は「新治郡家」(「新治郡衙跡」(2018年8月4日記事)の付属寺院(いわゆる「郡寺」)だったとみられている。「新治廃寺」は、弘仁8年(817年)に「新治郡家」が火災で焼失した(「日本後記」記事)ときに、類焼して廃絶したとされているところから、当寺院に9~10世紀にかけての諸像が伝わっているということは、あるいは、当寺院が「新治廃寺」の機能を継承したのではないかとも考えられている。


茨城県教育委員会のHPから(木造 阿弥陀如来坐像及菩薩立像(伝観音菩薩)・天部立像(伝虚空蔵菩薩)、木造 四天王立像 7躯)


写真1:「妙法寺」山門。桜川市指定文化財。


写真2:山門前にある巨木の切り株


写真3:不動明王の眷属である三十六童子のうち、普香王童子の像。その背後に見えるのは「妙法稲荷神社」の鳥居


写真4:「瞬義上人入定の石佛」。鐘楼門の前にある。蓮華座のところから上下に分かれ、刳りぬかれた石仏の中に、入定した瞬義上人が入れられていたという。思ったよりかなり小さい。


写真5:鐘楼門


写真6:本堂
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衍応山 勝道院 仏生寺

2024-07-13 23:33:29 | 寺院
衍応山 勝道院 仏生寺(えんおうざん しょうどういん ぶっしょうじ)。
場所:栃木県真岡市南高岡259。茨城県道41号線(つくば益子線)から栃木県道・茨城県道119号線に入り、約2.9km(「仏生寺のけやき→」という案内板がある。)で左折(南西へ)、約190mで突き当り、左折(南東へ)、約400mで参道入口。参道周辺が「仏生寺公園」となっており、入口付近に駐車場がある。
寺伝等によれば、日光開山で知られる勝道上人は、天平7年(735年)に当地で生まれた。父は下野国府(現・栃木県栃木市)の国司の次官に当たる下野介・若田高藤、母は地元豪族・吉田主典の娘・明寿で、幼名を藤糸丸といった。神童の誉れ高く、幼時より仏道を信じ、長じて「下野薬師寺」の如意僧都に師事して天平宝字6年(762年)に出家し、勝道と号した。日光開山を志し、延暦元年(782年)、三度目にしてようやく「男体山」の登頂に成功した。その登山口付近に、「二荒山神社」の神宮寺として「補陀洛山 中禅寺」(現・「日光二荒山神社中宮祠」)を開いた。その後、当地に戻り、当寺院を開山したという。現在は、真言宗豊山派の寺院で、本尊は薬師如来。
なお、「仏生寺」境内全体が「日光開山勝道上人誕生地」として栃木県指定史跡となっている。本尊の木像薬師如来坐像(秘仏)は勝道上人の作と伝わるが、藤原時代(平安時代中・後期)初め頃のものと推定されており、勝道上人の時代よりは少し下るものの、栃木県内でも最古クラスとされる。ほかに、鎌倉時代頃のものとみられる金剛勢至菩薩立像や十二神将像(12体揃っているのは貴重)もあり、いずれも栃木県指定文化財。本堂(薬師堂)は江戸時代中期の寛保2年(1742年)再建とされ、真岡市指定有形文化財。山門両脇のケヤキの大木は栃木県指定天然記念物と、文化財が多い。


栃木県総合教育センターのHPから(仏生寺 木造薬師如来坐像)

同(仏生寺 木造十二神将立像)


写真1:「仏生寺」参道入口。石柱には「史蹟 佛生寺 日光開山 勝道上人誕生地」とある。ここから境内まで南西へ約230mのまっすぐな参道で、春には枝垂桜の名所となっている。


写真2:山門と2本のケヤキの大木。2本とも樹高30m、目通り幹周は、向かって右が5.6m、左が5.0mとされる。勝道上人手植えとの伝承があるが、樹齢はともに推定約700年とされる。


写真3:同行二人の歌碑。弘法大師信仰の1つ、「あなうれし 行くも帰るもとどまるも 我は大師と二人連れなり」という歌の石碑。


写真4:本堂(薬師堂)。


写真5:同上


写真6:境内の石仏など。


写真7:「仏生寺公園」駐車場から南に約200mの山裾にあるエドヒガン桜の大木。高さ約20m、目通り幹周約4m、推定樹齢約200年という。


写真8:写真7の桜の木から少し上ると、「勝道上人 産水の池」がある。水は涸れているが、傍らに「勝道上人霊」という石塔がある。
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施無畏山 寳樹院 小山寺

2024-07-06 23:32:57 | 寺院
施無畏山 寳樹院 小山寺(せむいさん ほうじゅいん おやまじ)。通称:富谷観音。
場所:茨城県桜川市富谷2186。茨城県道41号線(つくば益子線)「久原十字路」交差点から北西へ約90mで右折(北東へ)、林道久原富谷線を約2km。自動車は山門少し手前の駐車場に駐車(山門を通り過ぎると、奥の駐車場からは遠くなる。)し、そこから徒歩約80m。
寺伝によれば、天平7年(735年)、聖武天皇の勅願によって僧・行基が開創し、自作の鉈彫十一面観世音菩薩を本尊として安置し、寺号を「施無畏山 寳樹院 長福禅寺」と名付けた。本堂と三重塔を中心に三十六院など多くの堂宇が整備され、「富谷山」全体が聖地霊山とされたと伝えられる。また、慈覚大師(円仁、第3代天台座主)が東北遊化の際、大師自刻の不動明王と多聞天を脇侍として七堂伽藍が整えられたとされる。平安末期~鎌倉時代初期に当地の領主であった下野守・小山朝政が当寺院を篤く庇護し、「長福禅寺」から「小山寺」に改称した。その後も、各時代の領主から二十石の朱印地を安堵され、明治維新まで続いたという。天台宗の寺院として、江戸時代には「月山寺」(前々項)の末寺となったが、当寺院の方が歴史は古く、寺宝も多い。三重塔(国指定重要文化財)は室町時代の建立で、関東地方以北で同時代まで遡る仏塔は、他には現・栃木県益子町の真言宗「獨鈷山 西明寺(通称:益子観音)」の三重塔の2つだけとされる。本堂・仁王門・鐘楼は江戸時代の建立で、いずれも茨城県指定有形文化財。本尊の十一面観音菩薩坐像は行基作と伝えられる鉈彫像で、 像高200.5cm、アサダ材の一木造りで平安時代後期の作と推定されている。秘仏とされ、御開帳は62年に一度という。通称:富谷観音といい、開運・安産・子育てに御利益がある。また、不動明王像は平安時代後期の作、毘沙門天像は室町時代の作(伝・運慶作)と推定され、これら3体の仏像はいずれも茨城県指定有形文化財。因みに、昭和59年、現・山形県寒河江市の慈恩宗「瑞宝山 本山慈恩寺」(2016年4月2日記事)の大日如来坐像の体内から発見された経文の奥書に「常陸国笠間郡小山寺、大檀那長門守藤原朝臣時朝」と記されていたことで、当時の笠間城主・笠間時朝(1204~1265年)が当寺院に寄進した大日如来像が「慈恩寺」に移されたことが明らかになったという。


富谷観音 小山寺のHP

桜川市観光協会のHPから(施無畏山小山寺)


写真1:「小山寺」境内入口。こちらは西門に当たる。山門正面に本来の参道(急で長い石段)があるが、道幅が広い林道久原富谷線ができたので、こちらから入るのが一般的。拝観時間は午前9時~午後4時。


写真2:山門(仁王門)


写真3:金剛力士像(阿形)


写真4:本堂


写真5:同上


写真6:大黒堂


写真7:大杉と鐘楼。大杉は桜川市指定天然記念物(樹高25m、目通り幹囲5.2m)。


写真8:三重塔。室町時代中期の寛正6年(1465年)、下妻城主・多賀谷朝経が建立したもの。


写真9:同上


写真10:水神
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犬田神社(茨城県桜川市)

2024-06-29 23:33:55 | 神社
犬田神社(いぬたじんじゃ)。
場所:茨城県桜川市犬田696。国道50号線「鍬田」交差点から茨城県道41号線(つくば益子線)を南東へ約1.2kmで左折(北東~北へ)、約160m(北関東自動車道の高架下を通ったら直ぐに左折して、再び高架下を潜ることになる。)。駐車場なし。
社伝によれば、日本武尊が東征の折、経津主神・武甕槌神・気吹戸主神の3柱を祀ったのが創祀で、「香取神社」と称していた。第14代・仲哀天皇の后・神功皇后が三韓征討のときに祈願し、大勝を報賽して神田の寄進があった。承平年間(931~938年)、平将門にこの神田を没収された。寛治4年(1090年)、源義家が奥州征伐に向かう途中で当神社に参拝したとき、御神木を眺めて「幾世をか 経りし欅の 三の椏(また)に みつの湛(たたえ)の 久しかるべし」と詠んだといわれている。なお、この御神木の欅(ケヤキ)は樹齢約1200年といわれていたが、平成8年に枯れてしまい、根元から2mを保存することになった。明治中期の記録によれば、樹高約30m、中途から三枝になって洞があり、そこに水を湛えて「御手洗」と称していた。旱(ひでり)のとき、この水を汲みだして祈ると必ず雨が降るということで、村人から崇敬されたという。天文12年(1543年)、水戸城主・佐竹義照が社殿修営。寛永3年(1626年)、笠間城主・浅野長重が社殿を造営した(平成4年改築)。明治6年、村社に列格。同年に村内の「八幡神社」(文正元年(1466年)創建、祭神:誉田別尊)を合祀して「犬田神社」に改称した。現在の祭神は、経津主命、武甕槌命、息吹戸主命、誉田別尊。
ところで、永保3年(1083年)に源義家が陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して始まったのが「後三年の役(後三年合戦)」といわれる。この戦いは、朝廷からは私戦とみなされ、 寛治元年(1087年)には義家方が勝利したにもかかわらず、恩賞はなく、義家が陸奥守を解任される結果となっている。上記の義家の逸話は、少し時代がずれていることになるが、理由は何だろうか。因みに、当神社の南側に、その名も「犬田神社前遺跡」という遺跡があり、北関東自動車道建設に伴う発掘調査が平成14~15年に行われた。その結果、縄文時代中期、古墳時代中・後期、奈良・平安時代の住居跡や中世・近世にかけての堀・溝跡や墓壙跡などの複合遺跡であることが確認された。つまり、縄文時代の昔から集落があったということで、中世には豪族の館もあったらしい。出土物では、中世の鍍金された銅製観世音菩薩像 (高さ約10cm)などがあり、当時の信仰の一端も窺われる。源義家ではないにしても、古代末期~中世くらいの豪族・武将の信仰の場であったかもしれない。


茨城教育財団 発掘情報いばらきのHPから(犬田神社前遺跡)


写真1:「犬田神社」参道


写真2:鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:境内の石祠


写真6:社殿背後のケヤキ大木の切り株


写真7:同上、説明版がある。


写真8:同上
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五大力堂(茨城県桜川市)

2024-06-22 23:31:10 | 寺院
五大力堂(ごだいりきどう)。
場所:茨城県桜川市池亀。茨城県道289号線(富谷稲田線)沿い「桜川警察署 小塩駐在所」付近から北東~北へ約850mで突き当り、右折(東へ)して狭い道路に入る。道なりに約300m進んで左折(北へ。「鹿島神社」の手前(西側))、約290mで左折(北西へ)して林道池亀線に入り約550m。駐車場あり。
当寺院(仏堂)の由緒について、現地の説明板には「五大力堂は平安時代、平将門の乱の際、俵藤太藤原秀郷が霊像5体を安置して将門討伐を祈ったが、討伐後は将門の善心を知りその霊を慰めたといわれています...」という簡単な説明しかないが、伝承では凡そ次の通りである。天慶3年(940年)に将門が討たれた後、将門方の武将・藤原玄明ら残党が当地・池亀の「一の谷」に立て籠もった。そこは自然の要塞のようなところで、秀郷も攻めあぐね、天台宗「月山寺」(前項)の末寺「五大力山 弥勒寺」(本尊:地蔵菩薩)の日乗上人に調伏を頼んだ。日乗上人は、山中から檜(ヒノキ)の大木を切り出し、自ら金剛吼菩薩、龍王吼菩薩、無畏十力吼菩薩、雷電吼菩薩、 無量力吼菩薩の五尊像を彫り上げ、三日三晩にわたり五大力修法を行った。すると、2日目から雨が降り出し、満願の夜には大雨が降って、一の谷に水が溢れて山津波が起こり、玄明軍を一気に押し流してしまった。一兵も損なわずに勝利できた秀郷が、改めて堂宇を造営して、名を「吉祥院」としたという。
当寺院の五大力菩薩像は、いずれもヒノキの寄木造りで、像高は中尊座像が135.5cm、4つの立像が154.1cm~167.1cm。 像の特徴から平安時代後期の作と推定されており、4つの立像のうち 右内側の像から治承2年(1178年)と書かれた墨書が見つかっているという。五大力菩薩像は鎮護国家思想と結びつきが深く、また怨敵調伏を願って造像するとされるが、その作例は少なく、特に平安時代の作品で5体揃っているのは、ここが全国で唯一で、茨城県指定文化財となっている。怨敵調伏を願って造られるというところから、将門討伐のためのものという伝承となったものと思われるが、治承2年(1178年)が作像時期なら、将門の乱からはかなり時代が下る。造り直されたものなのか、あるいは別の目的があったのか、謎が残るところである。なお、訪問時、五大力菩薩像は、本寺である「月山寺」の美術館で展示されていて、「五大力堂」は空っぽで残念だった(とはいえ、周りに何もないところで、無防備に文化財を置いておくのも問題あるだろうと思った。)。
蛇足1:藤原玄明という人物は、軍記物語「将門記」以外には史料に登場せず、詳細不明。「将門記」では、「民にとっては害悪」、「盗賊と同じ」などと悪評が連ねられており、常陸国の実質的なトップである常陸介・藤原維幾から逮捕の命令が出ているのに、行方・河内両郡の不動倉を略奪して、平将門の下に逃げた。将門が玄明を庇護したことで、元々は常陸平氏の一族間の争いだったのが、常陸国司との対立となり、国家への反逆(「平将門の乱」)まで至ったということになる。
蛇足2:「将門記」によれば、将門が関東を征圧して新皇を称したということが朝廷に伝えられ、京都の諸山(寺院)では邪悪を滅ぼす修法を行ったとされる。この中に「五大力尊」にも祈祷したことがみえる。ただし、これが五大力菩薩なのか、五大明王(不動明王、大威徳明王、降三世明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王)なのかは明確でないという。


桜川市教育委員会のHPから(木造五大力菩薩像)


写真1:「五大力堂」


写真2:同上


写真3:堂に掛けられた絵馬など


写真4:「五大力 開祖壹千年記念碑」


写真5:五輪塔など
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