初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

「楽聖」ベートーヴェン(第2話)

2007年04月18日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。

今日は「楽聖」ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(第2話)です。

≪作曲家の肖像≫
アダージョ・ベートーヴェン
オムニバス(クラシック), ケンプ(ヴィルヘルム), ベートーヴェン, メニューイン(ユーディ), ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, カラヤン(ヘルベルト・フォン), フェラス(クリスチャン), アマデウス弦楽四重奏団
ユニバーサルクラシック

このアイテムの詳細を見る
【Ludwig van Beethoven】

父親の厳しい練習と、ネーフェの指導の下、宮廷オルガニストの職を手に入れたベートーヴェン。徐々に頭角の片鱗を見せ始めますが、今日はその続きからです。

(第2話)【数々の出会い】
1787年、ベートーヴェンは音楽の都ウィーンを目指して旅立ちます。当時ウィーンでも人気を集めていたモーツァルトの元を訪ねると、モーツァルトから主題(テーマ)を与えられたベートーヴェンはその場で即興演奏を行います。この演奏を聴いたモーツァルトは、「彼は将来、必ず素晴らしい音楽家になるだろう」と言い残したという、有名なエピソードを作り出します。

ウィーンで2週間ほど過ごしていると、故郷ボンにいる父から「母重体」の報せが届くきます。ベートーヴェンはこの報せを受けてすぐにボンに引き返します。ベートーヴェンの必死の看病も虚しく、母マリア・マグダレーナは同年7月に世を去ってしまうのでした。

貧しいながらも、いつも優しく家族に接してくれた母がなくなった事はベートーヴェン一家に大きく影響を与えていたようです。父ヨハンは妻を失った事に気を落とし、以前にも増して酒乱の気が強くなり、生き甲斐を失ったように仕事もろくにしない日々が続いたようです。

そのため、若い成年ベートーヴェンは残された弟二人の面倒を見なければならなくなるのでした。生活費を捻出するためにベートーヴェンは再びボンの宮廷オルガニストの仕事を始めると同時に、貴族の子女たちにピアノレッスンを始めるのでした。

そんなピアノレッスンを行っていた貴族のひとつにブロイニング家がありました。ブロイニング未亡人はベートーヴェンを自分の息子のように可愛がってくれたようです。

また、ブロイニング家には多くの貴族が訪れていたため、ベートーヴェンも多くの貴族と出会っていたようです。後にピアノソナタを献呈する事になるワルトシュタイン伯爵と出会ったのもこのブロイニング家でした。音楽を愛し自らもピアノを弾くというワルトシュタイン伯爵とはその後もベートーヴェンと親交を深めていったようです。

1789年5月にボン大学に入学すると、ちょうどフランス革命前夜という事もあり、革命思想がヨーロッパ中を席巻していたため、ボン大学でも革命思想の「自由・平等・博愛」の精神が講義で行われると、ベートーヴェンをはじめ、学生たちは熱心にその講義に耳を傾けるのでした。
更にこの頃、ボンでモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」や「ドン・ジョバンニ」が初演されると、ベートーヴェンもウィーンへ向けた思いを募らせていたようです。

1792年にイギリスから帰国してウィーンへ向かう途中のハイドンがボンを訪れると、ベートーヴェンはすかさず自作を巨匠ハイドンに見せ、ハイドンへの弟子入りを許可されるのでした。
選帝侯から宮廷音楽家としての職務に1年の休暇をとる事が許されると、いよいよハイドンのいるウィーンへ旅立つことになるのでした。

ベートーヴェンのウィーン訪問が決まると、友人たちはこぞって激励の送別会を開いてくれるのでした。かねてから親交のあったワルトシュタイン伯爵もウィーンへ旅立つベートーヴェンに対して、「ウィーンでは努力を惜しまず、モーツァルトの精神をハイドンから受け取って来い!」と激励の言葉を受け取るのでした。


早くから母親を失い、困難の続いたベートーヴェンでしたが、周りの暖かい支援を受けながら、その才能を認められついにウィーンへと旅立つことになりましたが、このつづきはまた明日。

【その他の作曲家の生涯はこちら】

音楽ブログランキング
   
「くつろぐ」ブログランキング⇔こちらもよろしく