昔から自分の傾向として直情に走りがちであり、その直情をもたらす自分の根にある何ものかが本当の自分だと思ってきた。だから直情を抑えるのは社会生活上の必要からやむを得ずするにせよそれは自分に対する裏切りであり妥協であると思ってきた気配がある。
で、実はこの「直情」は「神」でもよいし「イデア」でもよいのだ。なにやらそれにしたがって突っ走ればそれでよし、というものを求めてきた気がする。しかし、幸か不幸か自分の直情を除けば信ずべきもの、それにさえ沿えばよい何ものか、を決めるのにはとても慎重にすごしてきた。学生時代もサラリーマン生活も、直情を交えつつそこそこのポジションは確保する、という案外ふやけたすごし方をしてきたわけだ。というのは、そうした「よりどころ」あるいは「よりどころを唱える人」の「本物性」を吟味せずにはとても身を預ける気にはなれないし、吟味を繰り返すほど懐疑の方法はひどく鋭さを増してくる。なんだか思わぬうちに「積極的懐疑」が自分のポジションになってしまった。いまやよほどのものを持ってこられない限り吟味さえしようという気になるまい。
という軟弱な思想遍歴は、実はモダンからポストモダンへの動きとパラレルだということらしい。とすれば、まあ調べたり考えたりすれば当然着地するところへと自分もようやくたどり着いたということのようだ。いや、ちょっと早かったかなあ。自分の専門分野も同じ眼で見るから、やる気がおきにくいのにははなはだ困っている(笑)。
さてと、さらにここに付け加えたいのは、瞑想の型の話。いままで瞑想とか集中とか言うといわゆる「止」=「サマタ」の方しか知らなかった。これは、ずいぶん乱暴な言い方になるが、実は「イデア」型の思想に対応する瞑想法である。特定の何かに集中する、気が散ったら必ず戻す。 これに対して「観」=「ヴィバッサーナ」の方は今生じている感覚や思念・感情をすべて認識し、それによってそれらの「局外」に自分を置く。すべてに優越する何者をも認めない、きわめてポストモダン的でプラグマティックな瞑想ではなかろうか。また「観」はNLPとも大きく相通じるものがあるような気がする。
で、実はこの「直情」は「神」でもよいし「イデア」でもよいのだ。なにやらそれにしたがって突っ走ればそれでよし、というものを求めてきた気がする。しかし、幸か不幸か自分の直情を除けば信ずべきもの、それにさえ沿えばよい何ものか、を決めるのにはとても慎重にすごしてきた。学生時代もサラリーマン生活も、直情を交えつつそこそこのポジションは確保する、という案外ふやけたすごし方をしてきたわけだ。というのは、そうした「よりどころ」あるいは「よりどころを唱える人」の「本物性」を吟味せずにはとても身を預ける気にはなれないし、吟味を繰り返すほど懐疑の方法はひどく鋭さを増してくる。なんだか思わぬうちに「積極的懐疑」が自分のポジションになってしまった。いまやよほどのものを持ってこられない限り吟味さえしようという気になるまい。
という軟弱な思想遍歴は、実はモダンからポストモダンへの動きとパラレルだということらしい。とすれば、まあ調べたり考えたりすれば当然着地するところへと自分もようやくたどり着いたということのようだ。いや、ちょっと早かったかなあ。自分の専門分野も同じ眼で見るから、やる気がおきにくいのにははなはだ困っている(笑)。
さてと、さらにここに付け加えたいのは、瞑想の型の話。いままで瞑想とか集中とか言うといわゆる「止」=「サマタ」の方しか知らなかった。これは、ずいぶん乱暴な言い方になるが、実は「イデア」型の思想に対応する瞑想法である。特定の何かに集中する、気が散ったら必ず戻す。 これに対して「観」=「ヴィバッサーナ」の方は今生じている感覚や思念・感情をすべて認識し、それによってそれらの「局外」に自分を置く。すべてに優越する何者をも認めない、きわめてポストモダン的でプラグマティックな瞑想ではなかろうか。また「観」はNLPとも大きく相通じるものがあるような気がする。