御託専科

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「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄の訳者解説を再読した

2021-02-23 12:13:17 | 書評
ウェーバー「プロ倫」、機会あって大塚久雄の訳者解説を再読した。以下ポイントの抜き書き。

>こういう人々は、金もうけをしようと思っていたわけではなく、神の栄光と隣人への愛のために、つまり、紙から与えられた天職として自分の世俗的な職業活動し専心した。しかも、富の獲得が目的ではないから、無駄な消費はしない。それで結局金が残っていった。これは彼らが隣人愛を実践したということの標識となり、従って自らの救いの革新ともなった。

>とりわけ目先の貪欲を抑制することを知っている。まさにその自己の貪欲をある程度まで抑制することができるようになっているということこそが、産業経営的資本主義が成立するための不可欠な前提条件をなしているのだ。

資本の余剰や商業取引の活発化などは中国でも見られた現象であり、儒教は商業的な富の蓄積に寛容で人々はお金の話を普段から平気でしたのだそうな。そんな中国で資本主義が発達せず、富を嫌い俗世の栄華を嫌い神の栄光を称え来世で救われることを目的とする宗教が支配的な西洋でなぜ資本主義、特に産業経営的資本主義が成立したのか、ということの疑問に答えようとしたのが「プロ倫」であるそうな。その答えは上記で概ねまとめられると思われる。

ここから先は僕の解説。産業革命による産業の機械化、投資の巨大化・長期化に伴い、資本家の資本蓄積は非常に重要なものとなり、その局面で質素に生き熱心に仕事に従事するプロテスタントは有利な性質を備えていた。ただ、投資の機械化が起こらず投資の巨大化・長期化が生じなかったらどうだったのかね? ネットワークに長けたユダヤ系アラブ系中国系の有利さは残っていたように思うな。宗教的な非寛容さはキリスト教系全般にかなり発展を難しくしたような気もする。

ところで、菅野覚明「武士道の逆襲」ではこんな記述がある。
>おのれが己であることの確証を求めて、血みどろになって名利を追及するのが武士の姿である。しかし一方で、自己が自らを良しと認めえたときには、何の未練もなく一茶を捨てきれるのもまた、武士の本質である。
実にウェーバーの言うよき新教徒の姿と似ているではないか。明治期に武士の道徳を国民道徳としたことは、ほかの要素とも相まって日本の急速な産業化需要を促進した要因であろう。