御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「枯木灘」中上健次

2009-06-11 07:02:06 | 書評
前は容易に挫折してしまったが最近本を丁寧に読むせいかしっかりと頭に入った。
驚いたのは、僕はこの世界を知っている、と感じたことだ。

昔の話を昨日のように繰り返したりあることないことを語ったりするおばさん。それと本気で話したり合わせたり反発したりする親族たち。親戚のあちこちで商売がうまくいったりいかなかったりする、大企業や役所の勤め人なぞ居ない。うまくやった連中は大きな顔を平気でする。大勢で酔っ払う。昔の家の格を持ち出して威張ったりけなされたり。対立と嫉妬、名誉と恥への過敏さ、それが生じさせるわずかなことでの反目。しかしもちろん、それらを包み込む大きな親愛があるようにも思われた。いや、というよりも、血から・家からの逃れられなさが全員を捉えていたか。こうした中で、噂や物語と事実が渾然となった精神世界がそれぞれの中に形成されていたように思う。表立った激しい暴力こそなかったが、後妻での嫁入りなども多くあり小説内の話と同じぐらい血縁は複雑化している。

父や母は間違いなくこうした世界からやってきてそれからつかず離れず暮らしてきた人間である。僕は地元に居たころはその中に引きずりこまれそうな感覚に戸惑い、おじ・おばやいとこたちとの交わりにはやや及び腰であった。というより、その粘着感と論理性のなさを恐れまた嫌い、強く反発していたといえよう。父とおじでやっていた会社が健在であればいやおうなく巻き込まれた世界なのだろうが。親離れとか子離れとか言うが、こういう世界ではそんなことは起きない。親はいつまでも親で子はいつまでも子である。独立した個人とは自由だが孤独な世界のものであり、そのような世界は血縁の精神世界の外にあるのだ。

さて、本に戻ろうか(笑)。それにしても濃い本だ。著者の書き方が不親切な面もあるが、中身が濃いので結構丁寧に読まないといけない。秋幸の血統をめぐる、実父龍造へのこだわりと反発を軸に話は進むが、女郎に売られて家族を救ったユキ、都合5人の子をなした秋幸の母フサ、嫁ぎ先の兄弟間での殺人事件で気がふれた美穂、その娘で16歳で妊娠した美智子、昔自殺した兄の郁男、ユキを身請けしたユキの弟の仁一郎、彼らの弟にして秋幸の義父の繁蔵、その子で秋幸の義理の兄の文昭、仁一郎の妾腹の子の徹などなど、いったい誰が主役なのかもわからぬほど個性が強くあくの強い面々が登場する。いや、実は主役は秋幸じゃあなくて秋幸を含む路地の人々ということなのだろう。そのように素直に読めた。そしてその空気は、僕が地元に居たころ、恐る恐るながら近くで吸っていた空気である。

あれこれの評論で言われているようなことは正直言って机上の空論に見える。この空気がしみるかどうかということではなかろうか、と思う。

また読み直すことがあるだろう。僕はこの空気は好きだ。