現代思想に限らず哲学に関しては論者ごとの「中核的思い込み」というものがあって、すべての言説がそれの回りを回っているような気がしていた。わかりやすいと思われるデカルトの「我思う故に我あり」というやつだって、自分が志向しているのだから自分が存在するのにはまちがいないって言われても、「故に」のつながりの不自然さは残る。方法的懐疑で徹底的に物事に疑いを挟んだあとで、自己の存在は自分が考えているからまちがいない、というのではちょいと甘いと思える。
ま、ともあれ、「中核的思い込み」というのはどうやらほんとうらしい、とわかって嬉しい本であった。すごく煎じ詰めると、キリスト教に長く洗脳されてきた西洋において、キリスト教から自らを「脱洗脳」するために自我だの歴史の必然だのマルクス主義だのが立ってきて、本来そういうことをいう人たちは懐疑論者であり「脱洗脳」の域を超えないつつましい思考の使い方をしているのだが、取り巻きは過激化して「別洗脳」に走ってしまう、ということらしい。加藤尚武が「現代思想はこうして見るとマッチポンプだ」と言った話と平仄が合う話である。
ま、ともあれ、「中核的思い込み」というのはどうやらほんとうらしい、とわかって嬉しい本であった。すごく煎じ詰めると、キリスト教に長く洗脳されてきた西洋において、キリスト教から自らを「脱洗脳」するために自我だの歴史の必然だのマルクス主義だのが立ってきて、本来そういうことをいう人たちは懐疑論者であり「脱洗脳」の域を超えないつつましい思考の使い方をしているのだが、取り巻きは過激化して「別洗脳」に走ってしまう、ということらしい。加藤尚武が「現代思想はこうして見るとマッチポンプだ」と言った話と平仄が合う話である。