ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

私小説6その後に私

2015年04月24日 | 介護
2015.4.24
私は32歳の厄年で主人と結婚した。条件は千代子さんの追っかけをしたいがための関東圏の人。外見や中身は二の次だった。
たまたまお見合いした相手の主人は埼玉県民だった。結婚は自由を勝ち取るための手段だった。結婚して初めに主人に言った言葉は「あなたより千代子さんの方が好きだから」でした。
それから私は休日は主人を連れて千代子さんの追っかけをしました。それもつかの間結婚10年目にして母との同居が始まったのです。またしても私は自由を奪われました。家では夫婦の会話もめっきり減りました。夜も物音も立てずにおとなしく寝るようになりました。そんな矢先の父の病気。そして父の死。
私はすべてを母に束縛されとうとう更年期からのうつ病になってしまったのです。
そこでたまたま出会ったのがクミコさんの歌。早速ネットで調べてクミコさんの追っかけをするようになりました。そしたら見る見るうちに元気を取り戻したのです。約3年かかりました。母のことは気にせずにクミコさんを追っかけたのです。
パソコンではブログを始めました。ブログには正直に母の悪口も書きます。書けば少しはすっきりするからです。母は私がブログをやっていることを知りません。パソコンではFacebookとTwitterも始めました。歯に衣着せぬ物言いで言いたいことは書くようにしています。
Facebookではお友達も増えました。最近はお友達は限定しているのですが、なぜか増えるお友達。
基本、最近はクミコさんと石巻を愛する人とやぎりんさんのファンの人とはるのさんのファンの人に限定しているのですが…。
はるのさんのことを書きますね。
はるのさんとは、歌手で京都のお茶屋の女将さんをやっている宮川はるのさんです。私よりも年下。Facebookでお友達になりました。そもそもコロムビアの千代子さんの後輩です。やたらと千代子さんの詳しいのです。それで着物美人。
私は着物美人に弱い。歌も上手い。それがあるとき東京のはるのさんのライブに誘われました。ライブに行ったら千代子さんの歌をたくさん歌ってくれて感激してファンになりました。
ところが親しくなるとあれ?っと思うところもあって、ある人に相談したら「距離を置くように」と、言われて、しばらく距離を置いたら、何や知らんけど本気で好きになってファンを続けさせてもらっています。
とにかく面食いです。美人が好き!男は主人以外はイケメンが好き!私よりも背の高い人が好き!性格のいい人が好き!心のきれいな人が好き!
病気は大丈夫です!寛解しました。ただ再発予防に軽い安定剤を飲んでいます。私はちっとも痩せませんが元気ですよ。
明日はのど自慢の予選に行って来ます!下手でも一生懸命歌って来ますね!心を込めて歌えば審査員に通じるはずです。
とりあえず大まかに私のことは書きました。クミコさんつながりでお友達も増えました。みなさん!私のお友達になってくれてありがとう!地元のお友達も私の病気の良き理解者です。
これからもよろしくお願いします。
私に関するご質問はお答えできる範囲でお答えします。
同じ病気の方、大丈夫ですよ。焦らずにゆっくりと治して行きましょう!
いつか明るい光が差し込んでくるはずです!

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私小説5千代子さんのこと

2015年04月24日 | 介護
2015.4.24
そろそろ千代子さんのことを書こうと思います。
私が初めて千代子さんを見たのは吉祥寺のおじさんの家に居候していた時だと思います。
白黒テレビで見た千代子さんはきれいな声で歌うきれいなお姉さんでした。
それから事情があって家族でおじさんの家を出て世田谷のアパートに住みました。父は白黒のテレビを買って来ました。その白黒のテレビで再び千代子さんを見ました。それからと言うものたびたびテレビで千代子さんを見ました。私はすっかりファンになってしまったのです。小学校に上がりました。学校に行っても頭の中はいつも千代子さんのことで一杯でした。授業などはまともに聴いてはいません。歌の上手いお姉さんはいつも私の心にいたのです。
いつしか私はひそかな夢を描くようになって、16歳でコロムビアレコードから歌手デビューすることを夢見ていました。小学校の5年生の時です。父は千代子さんの国際劇場で行われている15周年記念のコンサートのチケットを買って来ました。忘れもしない前から20列目の23番の席でした。初めて見る生の千代子さんです。私の第一印象は千代子さんが童の姿で登場してきたとに「わー!足太いんだわ。大根!」でした。丈の短い着物から太い脚が見えたのです。
父は帰りにプロマイドを買ってくれました。私はそのプロマイドを大事にしていました。お宝でした。
歌手になる夢はあきらめる。
あるとき鏡を見ました。自分の顔です。まじまじと見るとなんとブスなんでしょう?「ああ、こりゃあ歌手はダメだ!」それでもどこかで歌が歌いたい。かくなる夢はバスガイドになることでした。これなら歌が歌えると…。
ところがです。あるとき友達の家で私の声をテープに吹き込んだのです。その声を聴いて愕然としたのです。「音痴!」自分がひどい音痴であることが分かったのです。そこで私の歌を歌うと言う夢はすべて絶たれたのです。
夢をなくした私は中学生になっていました。相変わらず勉強は出来ず、おバカ街道まっしぐらの私です。朝から晩まで千代子さんのことで一杯でした。高校に進学してお小遣いを少しずつ貯めては千代子さんの追っかけをするようになりました。初めて行ったのは国際劇場でした。お金がないので座ったのは一番端の自由席でした。初めて握手をしてもらいました。冷たい手でした。私はその手を洗わずに家まで帰ったことを思い出します。ラジオの公開放送にも行きました。初めて一緒に写真を撮ってもらい、サインももらいました。それは大事な宝物になりました。
そんな私もいよいよ高校3年、そろそろ進路を決めなければと言うときになりました。私の希望は和裁の専門学校に行くことでした。千代子さんのために1枚手作りで着物を縫ってあげたかったのです。ところが両親の反対に合い、泣く泣く就職をしました。
就職した先は駅ビルやデパートにお店がある会社です。私はお給料の中から生活費を家に入れ貯金もして残りの小遣いで休日は親の目を盗んで千代子さんの追っかけをしました。
小遣いが少ないから遠くまでの追っかけは出来ません。見つかると母に怒られるのでこっそり嘘をついて出かけますが、母にはバレバレでした。何せハンドバックの中にはチケッの半券があるのです。母はこっそり娘のバックを見ていたのです。仕事帰りにコマ劇場の出待ちもしました。母には「仕事が残業」と言って電話をしました。が、すべてはバレバレでした。
そんなこんなで職を転々としながらも小遣いで休日は千代子さんの追っかけをしました。千代子さんの歌は私の心の支えだったのです。
*続きはまたあとで!

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