ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

私小説2

2015年04月22日 | 介護
2015.4.22
私の通った高校は家からバスで30分の女子高だった。
おバカでも3年間真面目に通った。高校の3年になって進路の話になった。
私は和裁の専門学校に通いたかった。学校の先生の勧めもあって練馬の吉井がいいと思った。ところが両親の反対にあった。両親は本当はお金がないので私を専門学校に通わす余裕もなかった。私の夢は和裁を習っていつか千代子さんに1枚手作りの着物を作ってプレゼントすることだった。夢は叶わなくなり、就職を選んだ。
就職先は干物や海産物を売る会社だった。駅ビルやデパートで「いらっしゃい!」の仕事だった。働いたときの初任給が手取りで6万円だった。それをそっくり母に渡した。その中から3万円が生活費に充てられた、残りの3万円の中から小遣いと貯金を余儀なくされた。
ところが就職すると半年もしないうちに会社が傾きかけていることが分かった。私は秋から専門学校に通うと言って嘘をついて会社を辞めた。辞めた会社はその後2年も経たないうちに倒産した。
私は家でぶらぶらして過ごしていたら職場の隣の会社のおばさんから「うちの会社で働かないか?」と言う話が合ったので、面接をしてそこの会社に再就職をした。
会社は老舗の佃煮屋だった。同じく駅ビルやデパートでの「いらっしゃい!」の仕事だった。そこの会社に私は何年か務めた。途中家族は父の仕事の関係で小金井市に引っ越しをする。寿司屋の住込みの寮の賄のおばちゃんの仕事に母は就いた。
父は私が20歳の時に突然ラーメン屋を高円寺で始めた。店は駅からすぐの3坪足らずの店であった。ところが店は父の才覚の無さか1年足らずでつぶれた。
弟は高校を卒業すると予備校に通った。いわゆる浪人生である。ところが秋には予備校を勝手にやめてアルバイトを始めた。
そのうち彼女が出来て子供が出来て弟は22歳で結婚をした。私もあわてて「こりゃあ、私も誰かと結婚しなきゃあ」と、会社を辞めた。会社を辞めてクッキングスクールに通った。
お見合いもした。週1回のクッキングスクール通いだけで毎日を過ごしていたら、母に家事をするように言われ、あわてて次の就職先を探して就職をした。就職先は老舗のハム屋だった。またまた「いらっしゃい!」の仕事だった。
相変わらず父と母の喧嘩はしょっちゅうで、とうとう私は父を置いて母と家を出た。母との生活で私は生活費として家に5万円を入れるようになった。その頃の給料が手取りで13万円だった。
母に無理やり貯金を強いられ私の小遣いは3万円だった。その中でこっそり休日に千代子さんの追っかけもしたし、彼氏とのデートもした。お見合いは何度かした。しかしうまくは行かなかった。結婚は千代子さんもしたので私もしたかった。
結婚をしたら離婚もしてやろうと思っていた。
父は私たちの家の鍵もないのに時々家にやってくる。その日も家にやってきた。ところがである。家は鍵がかかっていた。父は大量の吐血をして庭で倒れていた。それをアパートの大家さんが発見して連絡をくれた。父はすぐさま日赤に入院した。ところが調べた結果、たいしたこともなく5日で日赤を退院してきた。
母と私は一人暮らしの父がかわいそうになり、それから再び父と同居した。相変わらず父はちゃらんぽらんな生活ぶりだった。
*まあ飽きたのでこの続きはまたあとで気が向いたら書きますね。思いだし思いだし書いているので多少事実ととこなるところもあると思いますがご了承を!

私小説

2015年04月22日 | 介護
2015.4.22
私の家は私が物心つく前から両親は共働きであった。
母は幼い私を負ぶって近所の会社の賄のおばちゃんをしていた。
そのうち田舎の父の兄がバラックのような家を建ててくれた。
私には弟も生まれ父は家の隣の新興宗教の仏具を扱うお店と蕎麦とうどんを出すお店をバラックのような家の一角で始めた。
お客は新興宗教の信者さんばかりでもうけはほどんとなかった。そのうち父はお店をたたみ家族で東京に上京した。
その時私は4歳になったかの年齢だった。
東京へ来て初めに住んだところはおじさんの家だった。おじさんは父の姉の旦那さんで炭屋を営んでいた。
その頃おじさんとおばさんは別居していた。おばさんはいわゆる新興宗教の幹部で地方の教会長をしていた。
おじさんの家には二人の息子と娘がいたが、娘はおばさんと暮らしていた。おじさんの家には二人の息子と一人の従業員が暮らしていた。そこへいきなり私たち4人の家族が居候をした。父はサラリーマンになった。母はおじさんの家でお手伝いさんのような家政婦のような扱いをされた。
あるとき母は父とけんかして家を出た。子供二人を残して1週間の家出をした。行先は田舎だった。
そんなこんなでおじさんの家も居づらくなって、私たち家族はおじさんの家を出た。
引っ越した先は世田谷の6畳一間のアパートであった。私はとっくに幼稚園か保育園に行く年齢だったがどこもいっぱいで断られた。その頃の母は家で内職をしていた。弟は私と3つ違いであった。
アパートの書き換えと同時に家族は近所の空き家に引っ越しをした。ここも6畳一間だった。小学校は歩いてすぐのところにあった。母は内職をしながら近所の新聞販売店の賄のおばちゃんと布団を作る仕事をしている近所の家に手伝いにも行った。
父はいいかげんでちゃらんぽらんな男なので生活費の半分は母の稼ぎに頼らざる得なかった。弟は見事に幼稚園に通わせてもらえた。私は小学校でもいつもビリ!何をやってもビリ!成績もビリならかけっこもビリだった。
小学校の4年の夏休みに私たち家族は父の仕事の関係で世田谷から渋谷に引っ越した。飽きっぽい父はサラリーマンからビルの管理人になった。
私たちは雑居ビルの上の階のマンションに住んだ。体よくいえばビルの管理人をする代わりにマンションの家賃がタダになった。
両親は雑居ビルの清掃の仕事もした。私は母が同級生に掃除婦のおばちゃんだと思われるのを嫌った。
そのうち母は夜も働くようになった。勤め先は雑居ビルの2階にあった雀荘である。そのほかにも母は雑居ビルの1階にあったおなべの店の皿洗いの仕事もするようになった。
父は飲んだくれでギャンブル好きでろくな生活費も入れなかったので、母は身を粉にして働いた。私は小学校の4年の2学期から転校したが転校した学校にはなじめなかった。弟は私と違って出来が良かった。学校にもすぐに馴染めて友達も出来た。
父は私が高校受験で遠くの高校を選んだので、わざわざ高校の近くに引っ越してくれた。
引っ越した先は杉並であった。同時に中学にあがる弟も杉並区内の中学に通うようになった。
父は相変わらず仕事を転々とした。母は母で相変わらずパートで働いていた。そんな矢先、またしても夫婦げんかで母は家を出た。
行った先は妹の家。母は1週間で帰っては来たが、それからすぐに私と一緒に家を出る。
母と私は少し離れたところにアパートを借りる。その頃中学生だった弟は父に付いた。
ところがある日の冬、弟が風邪をひき母と私は父と弟と再び同居の生活となる。
父はちょっとだけサラリーマンをしていた時は銀座や新橋のお姉ちゃんが好きだった。サラリーマンをやめて貧乏になると赤ちょうちんを好んだ。
*疲れたのでこの話の続きはまたあとで!

5時半起床!

2015年04月22日 | 介護
2015.4.22
おはようございます!
なぜかトイレが我慢できずに5時半に起床した私です。
朝からきんぴらごぼうを作って、卵を焼いて小松菜と豆腐のお味噌汁を作りました。
朝食は昨夜の残り。
主人のお弁当はきんぴらごぼうと卵焼きと冷凍食品の鮭のフライに味噌汁です。
今日は真面目にのど自慢の練習にカラオケBOXに行って来ますね。
最後の練習です。
予選は落ちても悔いのないように頑張ります!
今日は予約したCDも取りに行って来ます。
CD聴いてカラオケでも歌えるようにしたいのです。
いい歌ですよ。
倍賞千恵子さんの「お月様と影ぼうし/誰のための愛」
日野美歌さんの「知覧の桜」
いい歌は次の世も歌い継がれるものです。
石原詢子も新しいアルバムで千代子さんの歌を2曲カバーしています。
1曲は「東京だョお母さん」もう1曲は「愛のさざなみ」です。
石原詢子さんはデビューしたての頃、千代子さんの前歌をやっていて見たことがあります。
その頃はかわいらしい娘さんでした。
カラオケは何人もの方から練習法を教えていただきました。
プロの方のご指導もありました。
ありがたいことです。
私としては一生の記念に出場出来れば幸せです。
とりあえず当選しても落選してもFacebookとTwitterとブログで報告はしますね。
私のことを良く知らない人に言っておきます。
私は身長143cmで太ったおばちゃんです。
髪の毛はショートですが当日もしかしたら母のウィックを借りるかも知れません。
目が悪いのでメガネをかけています。
顔はおばちゃん顔をしています。
齢より老けて見えるかも知れません。
年齢は57歳です。
写真はこれ!
クミコさんの隣が思いっきり私です!

出場出来なかったらすいません!