日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。(伝道者の書9章9節)
あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。(10節)
ソロモンがまだ、永遠のいのちや死後の世界を知らなかったとしても、彼を責めることはできないと思います。彼も神から選ばれ、祝福された王でしたから、主は彼に現れておられます。(Ⅰ列王記3章5節、同11章9節~14節)
かつて、神から「あなたに何を与えよう。願え」(Ⅰ列王記3章5節)と言われたイスラエルの指導者は、いたでしょうか。
多くの有力な王子がいた中で、ソロモンに王冠が授けられたのは、世的には彼の母バテ・シェバの政略が大きかったでしょう。(Ⅰ列王記1章2章)けれども、どれほどたくらんでも、神が彼の側におられなければ、王権は彼の手に来なかったでしょう。
主のひとかたならぬ愛顧を受けて、ソロモンはイスラエルの全盛時代の王として、生きることができました。権力、勢力、領土、富貴、女性など、目に見えるものだけでなく、知恵の王としての名声もかつてないものでした。
日本史のなかでは、たとえば藤原道長を比肩させることができるでしょうか。「望月の欠けたることもなしと思えば」と詠んだ道長の物語は、そもそも、世俗の歴史観で書かれていますが、ソロモンもすべてが思い通りになるような隆盛の中で、ふと、同じような思いにとらわれることもあったのではないでしょうか。
多くの外国人の妻をめとり、さらに彼女たちの拝む神のために、「エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた」(Ⅰ列王記11章7節)のです。
ダビデ王なら絶対にしそうもないこのような行いをしたとき、すでに、彼は、イスラエルの王は神のしもべである事実を忘れていたのかもしれません。
神を恐れていない彼の目は、当然、虚無的になったでしょう。
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私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。(11節)
しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、わなにかかった鳥のように、人の子らもまた、わざわいの時が突然彼らを襲うと、それにかかってしまう。(12節)
神を見ない人にとって、この世の不公平や災難は、神に噛みつきたくなるような出来事です。多くの人は、自分の人生をまじめに計算して努力しています。しかし、思いがけない出来事で予定が外れるのです。オリンピックでメダルを取る人はたしかにいますが、同じように素質をもち夢をもち、努力をしたおびただしい人が、斃(たお)れたのだというのも事実です。道の途中に多くの網や罠が仕掛けれていて、それらにかからないほうが難しいのです。
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私はまた、日の下で知恵についてこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。(13節)
わずかな人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て、これを包囲し、これに対して大きなとりでを築いた。(14節)
ところが、その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放した。しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。(15節)
私は言う。「知恵は力にまさる。しかし貧しい者の知恵はさげすまれ、彼の言うことも聞かれない。」(16節)
この部分は、「一将功成(いっしょうこうな)って万骨枯る」という言葉を思い出させます。一人の将軍が功績を表すとき、その下で働いた多くの部下がいたはずです。知恵があり度胸があり、なによりも忠誠心のために命を惜しまなかった「小さな者たち」がいたのです。
しかし、功績は大将のものとなるのです。
知恵ある者の静かなことばは、
愚かな者の間の支配者の叫びよりは、
よく聞かれる。(17節)
知恵は武器にまさり、
ひとりの罪人は多くの良いことを打ちこわす。(19節)
ソロモンは、そのような無名の知恵者を認めます。それでこそ、「知恵の王」ソロモンの面目でしょう。
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