あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。(伝道者の書11章1節)
これは意味を深く詮索しないで、ただこのまま飲み込んで、栄養になりそうなことばです。とても印象的で、一度聞いたら忘れられない。それは、このことばが、そのまま絵となって記憶されるからかもしれません。
大きな(または小さな)流れがあって、そのたもとで旅人が弁当を食べている。あるいは家族でピクニックをしている。小鳥や魚の姿を見れば、人はパンを一切れ投げてみようと思わないでしょうか。有り余っているからではなく、足りなくても、少しを、自然の中の何かに返したい気がするのです。すぐに鳥が来て咥えて飛び去ってくれればいいですが、流れに乗ってパンは遠ざかり、やがて消えてしまうこともあります。そんなとき、私などは、何か「無駄をした」と思いそうです。
ところが、後日、ほんとうにひもじいときに、思いがけず、目の前にパンが流れてくるかもしれないのです。
これは、あまりにも幼稚な絵解きかも知れません。でも、私たちが、目に見える損得関係や貸借関係だけで生きていないのは事実です。自分に与えられた多くの物が、自分で「稼いだ」物ではないと気づかされます。また、自分が支出するお金や労力、気遣いが、どこへ消えたかわからないこともたくさんあります。寄付や献金だけでなく、何げなく行った善行、親切、努力は、一見その量は計れません。ケチで計算高い人、見える利益しか追求しない人の方がずっと報いられているように見えることもあります。
それでも、「そう見えるだけで」、思いがけないときに、「かつて、自分が投げたパンを見出す」と信じられるのは、うれしいことです。
★★★★★
「あなたのパンを水の上に投げよ・・・」は、元々は、投資を勧めた格言だという解説があります。貿易で儲けるためには、多くの商品を仕入れて船で運ばなければなりません。それを売り、その金で別のものを仕入れ、戻って来てまた売り、儲けるのです。古来、貿易は儲かったのでしょう。世界中の大国は貿易を奨励していました。しかし、船で遠くに商品を運ぶのは大変なリスクです。後に利益を見出すという希望で、投資するのです。
また、漁師はたくさんの魚を取るために、撒き餌をします。「エビで鯛を釣る」わけです。これも投資です。
元野村証券の社員でフランクフルト支社でも営業マンであった高橋秀則牧師の著書「お金と信仰」(地引網出版)にも、投資と信仰についての示唆的な見解が見られます。一読をお勧めしたい良書です。
★★★★★
しかし、私たち信仰者には、みことばを、このような投資の勧めと見るのは、何かそぐわない感じがします。
それで、伝道の種蒔きを示唆していると考えるのです。新約聖書では「種蒔きのたとえ」として語られています。(マタイの福音書13章3節~9節) 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇126篇5節)も、伝道の勧めとして解説されることがあります。
これについて、興味深いお証しが榎本保郎牧師の「旧約聖書一日一章」(主婦の友社)というエッセイ集に載っています。
師が同志社大学神学部の学生だった時、牧師のお伴で葵祭(あおいまつり)で賑わう京都の町に出て、路傍伝道をしたというのです。しかし、伝道の声に足を止める人もまったくいなくて、子供たちが、「アーメン・ソーメン・ヒヤソーメン」とからかうだけだった。榎本師は悔しくて、子供を睨みつけて帰って来たとか。教会に帰り着くと、牧師が「感謝の祈りをしましょう」と言ったので、また腹が立った。
ところが、二十年ほどして、牧師になっている師のもとに、神学部の新卒生が派遣されてきた。そのとき、二十年前にこんなことがあったと話した。すると、その新卒生は、「その時、アーメン、ソーメン、ヒヤソーメンといったのは僕です」と言ったという。
榎本師は、この体験を、「あなたのパンを水の上に投げよ」の実例として上げておられるのです。
★★★★★
捨てがたい解説がありましたので、ご紹介します。空知栄光キリスト教会の銘形秀則師の「牧師の書斎」は、聖書をすべて原語――ギリシャ語、ヘブル語に当たって読み解こうとするまじめな研究です。師はその膨大な成果を無料でHPに公開しておられます。興味のある方は直接サイトをご覧になって、解説全部をご覧ください。
牧師の書斎
##伝道者の書11章1節の「あなたのパンを水の上に投げよ」という命令も、神のご計画とみこころ、御旨、目的に実現させることにかかわる事柄です。「投げよ」に代わる適訳が見つかりませんが、一応「向けよ」としておきます。11章1節は、まさに私たちの永遠の必要(糧、パン)を、水の上に羽ばたいている神の霊に向かってより頼めという命令だとすれば、「ずっと後の日になってあなたはそれ(糧・必要)を見い出す」ようになるという約束なのです。しかもそれは、神のご計画のカイロス(神の最善の時)において、神の絶妙なタイミングによって実現すると信じます。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%92%E6%B0%B4%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AB%E6%8A%95%E3%81%92%E3%82%88
これは意味を深く詮索しないで、ただこのまま飲み込んで、栄養になりそうなことばです。とても印象的で、一度聞いたら忘れられない。それは、このことばが、そのまま絵となって記憶されるからかもしれません。
大きな(または小さな)流れがあって、そのたもとで旅人が弁当を食べている。あるいは家族でピクニックをしている。小鳥や魚の姿を見れば、人はパンを一切れ投げてみようと思わないでしょうか。有り余っているからではなく、足りなくても、少しを、自然の中の何かに返したい気がするのです。すぐに鳥が来て咥えて飛び去ってくれればいいですが、流れに乗ってパンは遠ざかり、やがて消えてしまうこともあります。そんなとき、私などは、何か「無駄をした」と思いそうです。
ところが、後日、ほんとうにひもじいときに、思いがけず、目の前にパンが流れてくるかもしれないのです。
これは、あまりにも幼稚な絵解きかも知れません。でも、私たちが、目に見える損得関係や貸借関係だけで生きていないのは事実です。自分に与えられた多くの物が、自分で「稼いだ」物ではないと気づかされます。また、自分が支出するお金や労力、気遣いが、どこへ消えたかわからないこともたくさんあります。寄付や献金だけでなく、何げなく行った善行、親切、努力は、一見その量は計れません。ケチで計算高い人、見える利益しか追求しない人の方がずっと報いられているように見えることもあります。
それでも、「そう見えるだけで」、思いがけないときに、「かつて、自分が投げたパンを見出す」と信じられるのは、うれしいことです。
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「あなたのパンを水の上に投げよ・・・」は、元々は、投資を勧めた格言だという解説があります。貿易で儲けるためには、多くの商品を仕入れて船で運ばなければなりません。それを売り、その金で別のものを仕入れ、戻って来てまた売り、儲けるのです。古来、貿易は儲かったのでしょう。世界中の大国は貿易を奨励していました。しかし、船で遠くに商品を運ぶのは大変なリスクです。後に利益を見出すという希望で、投資するのです。
また、漁師はたくさんの魚を取るために、撒き餌をします。「エビで鯛を釣る」わけです。これも投資です。
元野村証券の社員でフランクフルト支社でも営業マンであった高橋秀則牧師の著書「お金と信仰」(地引網出版)にも、投資と信仰についての示唆的な見解が見られます。一読をお勧めしたい良書です。
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しかし、私たち信仰者には、みことばを、このような投資の勧めと見るのは、何かそぐわない感じがします。
それで、伝道の種蒔きを示唆していると考えるのです。新約聖書では「種蒔きのたとえ」として語られています。(マタイの福音書13章3節~9節) 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇126篇5節)も、伝道の勧めとして解説されることがあります。
これについて、興味深いお証しが榎本保郎牧師の「旧約聖書一日一章」(主婦の友社)というエッセイ集に載っています。
師が同志社大学神学部の学生だった時、牧師のお伴で葵祭(あおいまつり)で賑わう京都の町に出て、路傍伝道をしたというのです。しかし、伝道の声に足を止める人もまったくいなくて、子供たちが、「アーメン・ソーメン・ヒヤソーメン」とからかうだけだった。榎本師は悔しくて、子供を睨みつけて帰って来たとか。教会に帰り着くと、牧師が「感謝の祈りをしましょう」と言ったので、また腹が立った。
ところが、二十年ほどして、牧師になっている師のもとに、神学部の新卒生が派遣されてきた。そのとき、二十年前にこんなことがあったと話した。すると、その新卒生は、「その時、アーメン、ソーメン、ヒヤソーメンといったのは僕です」と言ったという。
榎本師は、この体験を、「あなたのパンを水の上に投げよ」の実例として上げておられるのです。
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捨てがたい解説がありましたので、ご紹介します。空知栄光キリスト教会の銘形秀則師の「牧師の書斎」は、聖書をすべて原語――ギリシャ語、ヘブル語に当たって読み解こうとするまじめな研究です。師はその膨大な成果を無料でHPに公開しておられます。興味のある方は直接サイトをご覧になって、解説全部をご覧ください。
牧師の書斎
##伝道者の書11章1節の「あなたのパンを水の上に投げよ」という命令も、神のご計画とみこころ、御旨、目的に実現させることにかかわる事柄です。「投げよ」に代わる適訳が見つかりませんが、一応「向けよ」としておきます。11章1節は、まさに私たちの永遠の必要(糧、パン)を、水の上に羽ばたいている神の霊に向かってより頼めという命令だとすれば、「ずっと後の日になってあなたはそれ(糧・必要)を見い出す」ようになるという約束なのです。しかもそれは、神のご計画のカイロス(神の最善の時)において、神の絶妙なタイミングによって実現すると信じます。
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