陽気な心は健康を良くし、
陰気な心は骨を枯らす。(箴言17章22節~28節)
これ、全くこの通りですね。NHKの「今日の健康」の標語にしてもらいたいくらいです。
聖書の神様は因果応報や現生利益(ご利益)の神ではありませんから、聖書のなかには、世俗的な価値観からは、理解に苦しむ様な物語もあります。
モーセ五書に見るモーセの死一つをとっても、なんだか得心できないと思わせられるわけです。
せっかく、四十年もイスラエルの民を率いて荒野をさまよい、ヨルダン川の手前まで来て、あと一歩でカナンに入れる、その時になって、神は、モーセにカナンに入れない、ひとりでネボ山に登って死ぬようにお命じになるのです。つまり、「最後のおいしい成果」は後継者のヨシュアに譲りなさいと言われているのです。モーセは神のご命令どうり一人山の中に入って死に、その結果、墓もどこにあるのかわからない、となるのです。
小さな功績でもたたえてもらいたい、メダルや褒賞をもらいたい。死んだときには盛大な葬儀で送られ、りっぱな墓を残し、出来ればモニュメントの一つも建ててもらいたいと、願う人は多いのです。
もちろん、キリスト者にとっては、この世の墓やメダルは問題ではありませんと、言いたいところです。モーセの最後はすばらしいのです。(もちろん、神様に大きく用いられた彼の全生涯が!)
対して、箴言は、もう少しわかりやすいのです。神の価値に則って生きることが、同時に、人間的な価値にもつながるように書かれています。
★ ★ ★
悪者は人のふところからわいろを受け、
さばきの道を曲げる。(23節)
またしても、賄賂です。よほど賄賂が横行していたのでしょうか。上司やお世話になった方への贈り物そのものは、今日でもあることです。それで、さばきが曲げられるとしたら、その上司は「悪者」なのです。
悟りのある者はその顔を知恵に向け、
愚かな者は目を地の果てに注ぐ。(24節)
愚かな子はその父の憂い、
これを産んだ母の痛みである。(25節)
正しい人に罰金を科し、
高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、
どちらもよくない。(26節)
正しい人=悟りのある者=高貴な人、愚かな者=愚かな子と、またしても対比が続きます。正しさを打つのは、ただの愚か者より、もっと悪いのですね。
しかし、神様ご自身が「正しい人はいない」と仰せのように、つい、愚か者になってしまう弱い人間は、どうしたらいいのでしょう。
それが次の答えです。
自分のことばを控える者は知識に富む者。
心の冷静な人は英知のある者。(27節)
愚か者でも、
黙っていれば、知恵のある者と思われ、
そのくちびるを閉じていれば、
悟りのある者と思われる。(28節)
「はい。仰せのとおりです。」と思わず頭を垂れてしまいます。
もう一つのseesaaブログの連載投稿「聖書通読エッセイ・箴言」から転載しました。
陰気な心は骨を枯らす。(箴言17章22節~28節)
これ、全くこの通りですね。NHKの「今日の健康」の標語にしてもらいたいくらいです。
聖書の神様は因果応報や現生利益(ご利益)の神ではありませんから、聖書のなかには、世俗的な価値観からは、理解に苦しむ様な物語もあります。
モーセ五書に見るモーセの死一つをとっても、なんだか得心できないと思わせられるわけです。
せっかく、四十年もイスラエルの民を率いて荒野をさまよい、ヨルダン川の手前まで来て、あと一歩でカナンに入れる、その時になって、神は、モーセにカナンに入れない、ひとりでネボ山に登って死ぬようにお命じになるのです。つまり、「最後のおいしい成果」は後継者のヨシュアに譲りなさいと言われているのです。モーセは神のご命令どうり一人山の中に入って死に、その結果、墓もどこにあるのかわからない、となるのです。
小さな功績でもたたえてもらいたい、メダルや褒賞をもらいたい。死んだときには盛大な葬儀で送られ、りっぱな墓を残し、出来ればモニュメントの一つも建ててもらいたいと、願う人は多いのです。
もちろん、キリスト者にとっては、この世の墓やメダルは問題ではありませんと、言いたいところです。モーセの最後はすばらしいのです。(もちろん、神様に大きく用いられた彼の全生涯が!)
対して、箴言は、もう少しわかりやすいのです。神の価値に則って生きることが、同時に、人間的な価値にもつながるように書かれています。
★ ★ ★
悪者は人のふところからわいろを受け、
さばきの道を曲げる。(23節)
またしても、賄賂です。よほど賄賂が横行していたのでしょうか。上司やお世話になった方への贈り物そのものは、今日でもあることです。それで、さばきが曲げられるとしたら、その上司は「悪者」なのです。
悟りのある者はその顔を知恵に向け、
愚かな者は目を地の果てに注ぐ。(24節)
愚かな子はその父の憂い、
これを産んだ母の痛みである。(25節)
正しい人に罰金を科し、
高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、
どちらもよくない。(26節)
正しい人=悟りのある者=高貴な人、愚かな者=愚かな子と、またしても対比が続きます。正しさを打つのは、ただの愚か者より、もっと悪いのですね。
しかし、神様ご自身が「正しい人はいない」と仰せのように、つい、愚か者になってしまう弱い人間は、どうしたらいいのでしょう。
それが次の答えです。
自分のことばを控える者は知識に富む者。
心の冷静な人は英知のある者。(27節)
愚か者でも、
黙っていれば、知恵のある者と思われ、
そのくちびるを閉じていれば、
悟りのある者と思われる。(28節)
「はい。仰せのとおりです。」と思わず頭を垂れてしまいます。
もう一つのseesaaブログの連載投稿「聖書通読エッセイ・箴言」から転載しました。