今日の礼拝でのメッセージ箇所は、使徒の働き5章でした。
以前に、自分でも通読エッセイで書きましたが、改めて、この箇所を考えてみました。
アナニアとサッピラの話は、教会のあり方、とくにその財政のあり方、その成立過程を示すものです。
教会といえども、この世にある限りお金が必要です。人が集まれば飲み食いをしますし、集まる場所の家賃や使用料も必要です。貧しい人や助けの必要な人が多ければ、持てる人たちが彼らに施さなければなりません。AさんがBさんに顔の見える形で援助して恩に着せるような関係ではなく、愛の行為として教会全体が担うのです。教会に参加するということは、この与えるという行為、時には受ける側になる関係に、愛をもって入って行くことです。高慢にもならず卑屈にもならず、損得を考えずに善いことを行うのは、ふつうはとても難しいことですが、それを可能にしてくれるのが教会なのです。この初代教会の原始共産制のような姿は、もちろん現代の教会生活に受け継がれていると思います。
それは、もともと人間の思惑を超えた、神の働きだからです。
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ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、(使徒の働き5章1節)
妻も承知の上で、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。(2節)
すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて、聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。(3節)
売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったのではないか.どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いてのではなく、神を欺いたのだ。」(4節)
このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。(5節)
若者たちは立ち上がって彼のからだを包み、運び出して葬った。(6節)
さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。(7節)
ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。
そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたはこころを合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」(9節)
すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運びだし、夫のそばに葬った。(10節)
そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。(11節)
私たちはすべて、生れ落ちたときから所有意識があって、そうした認識の上に、社会関係だけでなく、親子関係や家族関係でさえ成り立っています。それはむしろ、健全な社会感覚だったりするのです。
教会が神秘的なのは、その財政が、人間的な所有意識を超えたところに成立していることでしょう。
ふつう教会の財政は「献金」で支えられています。この献金は平等に出すものでもなく、均一の額を支払うものでもありません。強制もなく、どれくらいの額を差し出すかは信者の自由です。それはじつに不安定な財政基盤で、この不安定さのために、苦労する牧師や教会員はたくさんいるのです。しかし、どんな困難があっても、基本的に、教会財政は自発的に加入した信徒たちの、自発的な献金で支えられ続けています。
不正抑止のためにいくらかのチェック機能があるとしても、人為的な強制や選別は、注意深く避けられているのではないでしょうか。
教会に加入している者は、牧師であれ信徒であれ、教会を立たせ、支配しておられるのは、人間ではないと認識しているのです。教会のかしらはイエス・キリストで、教会を実際に動かしているのは聖霊さまなのです。
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アナニアとサッピラの話は、私たちが、「神の前にも偽る者」だと言う例です。良い心を持って善いことをしようとするときこそ、要注意です。サタンが私たちを「試みる」からです。
一読すると、彼らが売った土地の代金の一部を、自分たちのために取っておいたことはそれほど悪いことだとは思えません。咎められているのは、彼らが嘘をついたことです。みなが全財産を差し出しているときに、自分だけは、「一部を残しておく」と言えなかったのでしょうか。しかしペテロが指摘しているのは、まさにその点で、アナニアは、正直に、売ったお金の全額ではないと言っておけば済んだのです。
これは、ペテロとアナニアの話になっていますが、ペテロがそれを知ったのは、聖霊がペテロに告げられたからです。
ここを、誰かが告げ口したのだと、書かれてもいない類推を入れると、読み誤ります。
ペテロはアナニアに言いました。
「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて、聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。」
つまり、アナニアは、聖霊を欺いたと非難されているのです。
アナニアのウソをペテロが見破ったのも、聖霊がお告げになったのでしょう。今の私たちは、いわゆる「三位一体の神」として、聖霊の存在を意識していますが、素朴な信徒たちが多かった初代教会では、「父なる神」「子なる神」は十分意識されていたでしょうが、「聖霊なる神」に対してはどうだったでしょう。
このような事件があったのは、財政的な問題に切り込んだというよりも、むしろ、聖霊ご自身が、ご自分の存在を人々に気づかせようとされたと思うのですが、いかがでしょうか。