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ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

伝道者の書9、近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。(伝道者の書5節1節~7節)

2020年05月14日 | 聖書
 神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行なっていることを知らないからだ。(伝道者の書5章1節)

 神の宮は、神殿のことです。イスラエルは神聖政治国家ですから、神殿は、すべての意味で国の中心といえます。
 モーセがエジプトから民を導き出した時、シナイで神がモーセに幕屋を造るよう命じられました。荒野をさまよっていたイスラエルの民は、神のご命令通りの仕様で幕屋を造ったのですが、それは移動式テントのような持ち運べるものでした。国が安定した時、ソロモンが初めて建築物としての神殿を建てたのです。

 神殿では、専門の祭司がいて国家的な祭祀儀礼を行っていましたが、王や民も熱心に神殿に出向いて、いけにえを(ささげ物)を献げ、祭司に取り次いでもらって、神に礼拝をしました。
 王は祭司職も兼ねており、虚無と退廃に沈む時があっても、(伝道者は)神の前で、平伏し、こころを整える者でした。
 
 彼は、ここでは、すべての民に、神の前に出る態度を教えているのです。「自分の足に気を付ける」とは、慣用的表現で、「自分の生活態度」を指しているとのことです。(新実用聖書注解) 同様に近寄って聞くとは、「服従の態度」のことです。民は、まず、神にいけにえを献げて、祭司に、取り次いでもらうのです。いけにえは、羊や牛などですが、貧しいものはハトや穀物でもよかったのです。しかし、見栄えのする大きないけにえを献げる者は、その態度も「大きかった」のかもしれません。伝道者は、そのような傲慢は、すでに「悪である」と警告しています。
 大切なのは、神に近寄って、「聞こうとする」心です。

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 神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。(2節)
 仕事が多いと夢を見る。
 ことばが多いと愚かな者の声となる。(3節)

 祈りは、神との対話だと言われています。それで、つい、神殿や教会の礼拝では、「この時」とばかり、いろいろな願いを祈りに織り込んでしまいます。神様にすがるしかないと焦るときはなおさらです。
 伝道者は、言葉数の多い祈りにも、警告を発しています。
 「天」とは、物理的な「空や宇宙」のことではなく、「神が支配しておられる次元」のことです。地とは、私たちが今生きている世界です。天からは地のことは丸見えで、同時に私たちの心の中も丸見えですから、神の前にくどくど言葉を発する必要はないというのです。

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 神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。(4節)
 誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。(5節)

 神への軽々しい請願については、すでに、民数記30章2節や申命記21章で戒められています。
 イエスも山上の説教で、仰せです。

 「また、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならい。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
 あなたは頭をさして誓ってもいけません。あなたは一本の髪の毛ですら、白くも黒くもできないからです。(マタイの福音書5章33節~36節)


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 あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ。」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。(伝道者の書5章6節)

 使者とは神の使者、すなわちここでは、神からの言葉をとりついでいる「祭司」を意味しています。誓っておいて果たせない時に、「あれは間違いだった」というような、軽はずみはもっとも、忌み嫌われることです。

  夢が多くなると、
  むなしいことばも多くなる。
  ただ、神を恐れよ。(同7節)

 たしかに、礼拝で気分が高揚している時は、つい多くの誓いをしたり、夢を語ったりしてしまいます。あるいは、手を上げて、「私が必要を満たします」「私がその奉仕をいたしましょう」と誓いたくなったりします。それをあとで、「間違いました」というのは、罪を犯すことだと戒められています。

 神を恐れて、無駄な言葉を出さないようにするのも、信仰の成長かもしれません。








伝道者の書8、知恵のある若者と、忠言を受けつけない年とった愚かな王。(伝道者の書4章13節~16節)

2020年05月13日 | 聖書


 貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。(伝道者の書4章13節)

 加齢により頑固になるのは、もう、「世界の法則」みたいなものですね。どのような生き物にも旬があり、「見ごろ」「食べごろ」があり」ます。栄養を取り入れて育つ時期、恋をして子孫を作る時期は定まっています。

 自然界の生物は年を取ればしぜんに死にますが、人間は、生殖できなくなっても、仕事ができなくなっても,からだのあちこちにほころびが現れても、生きることができます。生活環境や医療や栄養が良くなったからだけではなく、人間は、「動物とは異なる内的時間をもっている」からです。
 聖書によれば、それは、「永遠を思う」能力です。聖書の主役である「創造主なる神」は、永遠から永遠までを、「現在として自存しておられる」方です。
 私たち人間は、他の動物と異なって、神に似せて造られたのです。(少なくともこれが聖書の立脚する視点です。さとうももちろん、この視点に立っています。) 

 神に似せて造られた人間は、ほかの動物とは異なっています。良心や愛の心をもち、永遠を想い、神に祈らないではいられないのです。永遠をのぞみ見ることができる人間にとって、老齢は、単に衰えて行くだけのものではありません。肉体は古壁のように落剝しても、決して滅ぼされない「たましい」があると考えられるのです。

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 長寿自体は、もちろん、喜ばしいことですが、物質である頭脳は固くなり、体は病にかかるのです。日々直面する激しい労働には耐えられなくなります。
 自分の生活を守っていればよい庶民は、それでも良いのですが、多くの人を支配管理する王が頑なになって、忠言を受けいれなくなると世の中に支障が起ります。
 そのような愚かな王よりは、貧しくても知恵ある若者の方が、よほど良いと、伝道者は言うのです。

 たとい、彼が牢獄から出て来て王になったにしても、たとい、彼が王国で貧しく生まれた者であったにしても。(14節)
 私は、日の下に生息するすべての生きものが、王に代わって立つ後継の若者の側につくのを見た。(15節)
 
 この箇所は、ソロモンの実体験から導かれた言葉のように見えます。
 彼自身が、その手腕を見込んで引き上げたヤロブアムという若者が、けっきょく、ソロモンの国に対抗して北イスラエル王国を立てたのです。イスラエル王国は、以後、南北に分裂して弱体化して行きました。

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 いろんな幸運も重なって、ソロモンは古代イスラエル王国の絶頂期に君臨していました。
 一介の牧童から神の選びにより王に立てられたは父王ダビデは、弱い国を安定させるためにたくさんの試練を経験しなければなりませんでした。
 一方、父王の死後、ソロモンは、すっかり盤石になったイスラエル王国を受け継ぎました。当時の国際情勢もあずかって、ソロモンは国土を広げ、交易や政治的折衝で国を富ませ、あらゆる繁栄を楽しみました。何よりも彼は多大の時間と経費をかけて、イスラエル国家の中心である神との礼拝の場、父ダビデの念願だった「神殿』を建設しました。

 ソロモンの王位は、約40年間続きました。しかし、神の戒めに逆らって、多くの妻を持ち、妻たちの持ち込んだ異教の神々を認め、また軍備を増強し、税で民を苦しめるようになったその政権に、謀反が起きるようになっていきました。

 すべての民には果てしがない。彼が今あるすべての民の先頭に立っても、これから後の者たちは、彼を喜ばないであろう。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(16節)

 自分の死後、王国が足元から瓦解していくかもしれないと認めていながら、伝道者は、その一大事を、どこか他人事のように考えていますね。
 「空の空、すべては空」と、ものうく世界を見まわす「老人」になっていたからでしょうか。










伝道者の書7、見よ、しいたげられている者の涙を。(伝道者の書4章1節~12節)

2020年05月12日 | 聖書


 私は再び、日の下で行なわれるいっさいの しいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。(伝道者の書4章1節)
 私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。(2節)
 また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行なわれる悪いわざを見なかった者だ。(3節)
 私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(4節)

 伝道者の視点はとてもシニカル(冷笑的)です。どうしてこれほどまでに醒めた目で物を見るのかしらと、思うほどです。確かに権力は強く、たぶん現代の民主主義社会でも、権力の前に涙を呑んでいる人もいるでしょう。伝道者は、権力者が誰かをしいたげることを問題にしているというより、虐げられる人の「よるべのない」姿を見つめているだけです。伝道者は、最高権力者なのだから、しいたげられている人を何とかしようとしてもよいはずですが、そのように葛藤しているのではありません。
 
 彼はしいたげの中を生きるより、すでに死んでいる人のほうが良いというのです。もっと良いのは、「今まで存在しなかった者」というのです。確かに、生まれて来なければ何も見ることはありませんが、究極のニヒリズム(虚無主義)に、聞くほうもため息をつかないでしょうか。

 さらに、仕事の成功が「人間同士の妬みにすぎない。」となると、じっさい、成功や良い結果を求めて努力している者には、「立つ瀬」がないようにも感じます。おそらく権力の頂点にいた伝道者(ソロモン)は、何らの意味でも、成功した人たちに囲まれていたでしょう。彼らが互いにねたみあうのをいやというほど目にしたのかもしれません。

 愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。(5節)

 成功してもねたみ合うだけであると言いながら、手をこまねいて努力せず、結果的に貧しいものは、批判されています。持っているものさえ食いつぶしていくからです。

 片手に安楽を満たすことは、
 両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。(6節)
 私は再び、日の下にむなしさのあるのを見た。(7節)

 極端な貧しさよりは、豊かで安楽がある方がまだ良いと言います。ただ、そのようなほどほどの生き方でも、伝道者の目には、むなしいのです。

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 ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、 彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか。」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。(8節)

 伝道者は、労苦するのが自分のためだけなら「むなしい」と言っています。彼は虚無主義者のように見えますが、案外、家族や愛人、友人、知人には慰められていたのかもしれません。このような血縁主義、縁故主義は、今の人から見ると、やはり古めかしい感じがします。

 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。(9節)
 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。(10節)
 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。(11節)
 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(12節)

 仲間や家族、つまり、愛し合い、信頼し合える相手がいると、心丈夫ですね。
 確かに、人は仲間が必要です。いじめなどに遭うのが辛いのは、「守ってくれるはずの仲間からいじめられること」だと言います。
 三つ撚りの糸のたとえは、日本では、毛利元就の「三本の矢」のたとえとなっています。
 寄り添って団結している状態は、「強い」のです。





「伝道者の書」は、さとうまさこがもう一つのSeeSaaブログに連載していた聖書通読エッセイの一部です。ご存じのように、聖書はキリスト教の教典です。旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合わせて66巻になります。
 旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語で書かれています。
 新旧約聖書として一冊に収まっています。世界中で、2000以上の言語に翻訳されています。
日本語聖書の代表的な翻訳は、新改訳聖書(このエッセイで使っています)新共同訳聖書(カトリック教会との共同訳)、口語訳聖書、現代語訳聖書、リビングバイブルなどがあります。
 新世界訳という翻訳は「エ●バの証人」という団体のもので、改ざんされており、キリスト教会では認められていません。



 
 







伝道者の書6、神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3章9節~22節)

2020年05月11日 | 聖書


 働く者は労苦して何の益を得よう。
 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。(伝道者の書3章9節)

 伝道者は、人間の労苦を神のわざの中で見ています。天地万物を順番にお造りになり、「見よ.それは非常に良かった」と言われる壮大で美しい世界の創造に、圧倒されています。

 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(11節)

 じっさい宇宙を見あげて、「美しい!」と思わない人はいるでしょうか。日や月や星が変わらず天上にあり、一定の法則で動いてそれが永遠に続くのを見る時、その刻む時間の壮大さに打たれない人はいないでしょう。天体の動きに連動して、地上では木々が生え、花々が咲き、猛獣から名もない虫に至るまで、命の営みを繰り返します。どこが始めで、どこが終わりであるのか人は、知ることなどできません。神様の行なわれるみわざの中では、人の一生はあまりに短いのです。

 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。(12節)
 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。(13節)

 知的で学問的な探究から、人ができるぜいたくや喜びを、極限まで味わい尽くすことができた伝道者(ソロモン)だからこそ、言えることばではないでしょうか。
 生まれる前のことも、死後の世界も結局、知ることはできません。もし、生きることを短い一生だけに限れば、たしかに、労苦には、いささかでも楽しみがあって報われるのです。
 確かに身体が健康であれば、食べること飲むことは大いに楽しみです。おいしいものを口に含んだときの幸せな気分はだれも否定できないでしょう。神様から離れた罪ある人間は,「顔に汗を流して」「呪われた土地」から食べ物を得なければならなくなりました。(創世記3章17節~19節) けれども、その食べ物はおいしく、人は食べ物を喜ぶのです。おいしい食物と、それを喜ぶ心は、結局神さまからの賜物です。

 「それにしても」と、またしても伝道者は、神のみわざと人間の限界を対比するのです。

 私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(14節)
 今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。(15節)

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 さらに私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。(16節)
 私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。」(17節)

 伝道者は、社会の不正を見ています。同時に、神のみわざは、人のさばきをもさばかれることに、気が付いています。今は不正が行なわれているように見えても、時が来たら、神はそれを「さばかれる」はずなのです。

 私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」(18節)

 人が不正を行ない、不正をさばく「さばきの場」でさえ不正が行なわれることを、伝道者は「人が神から試みられていること、そのことに、人が気が付くように与えられた機会だ」というのです。じつに、彼は、透徹した目で見ています。

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 人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。(19節)
 みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。(20節)

 人間がちりから造られ、ちりに帰るというのは、創世記に書かれていることです。(創世記2章7節、3章19節)野の獣は土から造られたと記されていますが、(同2章19節)、死んで帰って行くところは同じです。
 伝道者は、死後の有様が、人と動物では異なるのを期待していたようにも見えます。
 獣とは隔絶して知恵や知識のある人が、獣と同じ末路であることに納得できなかったのでしょう。

 だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。(21節)
 私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。(22節)

 新約聖書(十字架による救いの実現)以後の民である私たちは、明確に、死後、「永遠のいのち」に入ることを信じています。
 その意味で、伝道者の虚無は、私たちキリスト者には異質のものである感じがします。



「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」は、クリスチャンたちの好きな言葉です。不運や試練でさえ、終わってみると「神様のご計画の内にあった」と思えるようなときに、使う人が多いようです。
 私たちはわずかな風や雨にも、すぐ打ちしおれる者です。雲間からの、かすかな光でも求めないではいられないのです。だからこそ、雨の後に萌え出る雑草の若芽にも、「神のなさることは・・・」と、神をたたえます。
 しかし、ソロモンのことばには、虚無があります。素朴に神の御業(みわざ)を喜ぶには、彼はあまりに多くを手に入れていたからかもしれません。
 虚無は、近代文明人の思想だと思われていますが、3000年昔の時代を生きたソロモンに、すでに取り付いていたというのを、興味深く思うのです。

 












伝道者の書5、天の下では、何事にも定まった時期があり、(伝道者の書3章1節~3章9節)

2020年05月10日 | 聖書
 天の下では、何事にも定まった時期があり、
 すべての営みには時がある。(伝道者の書3章1節)
 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
 植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。(2節)

 「何事にも時期がある」という言葉は説得力があります。キリスト者でなくても伝道者の書のこの箇所には、うなずくのではないでしょうか。人生のカレンダーも、日常生活のカレンダーも、「時期」に従って決められていると言っても過言ではありません。年度や学年などの社会的ルールを別にしても、生まれてから死ぬまでは、決まった流れがあり成長の節目ともいうべき時期があります。ガーデニングや農業も、生物カレンダーに従った時があるのでしょう。
 
 殺すのに時があり、いやすのに時がある。
 くずすのに時があり、建てるのに時がある。(3節)

 人間の死ぬ時、病気などが癒されるのにも時がある、つまり神によって決められているという意味だそうです。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 今の時代は、医術が進んで、ソロモンの時代なら死んでいた多くの病が克服されています。心肺停止からさえ蘇生できるのです。それでも、たしかに死は避けられないのですから、この言葉は生きているのでしょう。

 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
 嘆くのに時があり、踊るのに時がある。(4節)

 「嘆く」は葬式、「踊る」は結婚式です。これらに時があるなら、そのために、「泣く」のも「ほほ笑む」のも、「時」に従うのです。

 石を投げ捨てるのに時があり、
 石を集めるのに時がある。
 抱擁するのに時があり、
 抱擁をやめるのに時がある。(5節)

 これは、戦時を意味しているそうです。(同注解書)、「石を投げる」は、侵略した軍隊が敵の畑に石を投げこんで不毛にすること。石を集めるは、軍隊のが行進する道路を作るための行為です。とうぜん、平和時には抱擁をしあっていた間でも、戦争となると、抱擁を止めるのです。

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 捜すのに時があり、失うのに時がある。
 保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。(6節)
 引き裂くのに時があり、
 縫い合わせるのに時がある。(7節a)

 「引き裂く」とは、悲しみのときに着物を引き裂く行為で、「縫い合わせる」とは悲しみが終わったことを意味するとか。(同注解書)
 聖書も,背後の文化を知らないと理解できないと思うと同時に、裂いた衣は、けっきょく縫い合わせてもう一度着るらしいと、下世話な想像をするのです。

 黙っているのに時があり、話をするのに時がある。(7節b)

 これは、人間関係にともなう知恵ですね。
 言うべきことも、時期が合わないと効果がなかったり、敵を作ったりします。また、それまでは伏せられていたことでも、明らかにしなければならない時があります。

 愛するのに時があり、憎むのに時がある
 戦うのに時があり、和睦するのに時がある。(8節)

 これらの対比は、たしかにその通りであり、深くうなずくのです。しかし、問題はその「時」を、私たちは、どのようにして知ることができるのかです。
 すべての時は、必ずしも自分の予定通りにやってくるわけではありません。すべてを、定めておられる方がいるのです。

 伝道者は、またしても虚無的な問いに戻ります。

 働く者は労苦して何の益を得よう。
 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。(9節)