goo blog サービス終了のお知らせ 

ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

伝道者の書14、知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。(伝道者の書7章10節~12節、箴言1章7節)

2020年05月20日 | 聖書
 知恵という言葉は、あまり使われなくなりました。私達が、いま、ふつう「学び」と考えているものは、知識です。学校やカルチャーセンター、いろんな講座などで学べるのは、知識なのです。マニュアル化した教科書があって、カリキュラムを立てて講義ができ、後でテストをして採点ができるようなもの、それが知識です。一方知恵は、知識を生かす大きな物の見方、考え方、人生を歩く上での直感を伴なうような選択力ともいうべきものではないでしょうか。
 同じソロモンの著書だと言われている「箴言」には、つぎのようなことばがあります。

 主(しゅ=神)を恐れることは知識の初めである。
 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(箴言1章7節)

 ここにある、知恵と訓戒は、主から来るものであるのは推測できます。昔のイスラエルの家庭では、父親が教育を担っていました。子に神の律法を暗記させ、訓戒し、生きる上で、それをどのようの行うかを教えたのです。父親は神の代理として子を教育するのですから、父を恐れて聞き従うことは、神に聞き従うことになります。
 ぎゃくに、どれほど知識があっても、すべてをお造りになった神を恐れないのは、愚か者だと言うのです。

 確かに、学位を取ることも、エリートを作る良い大学に行ける知識を学ぶことも大切です。けれども、知識は、(神の目からご覧になって)「正しい」使われ方をして、初めて意味があるのです。

 難しい科学知識があってサリンを製造し、それを地下鉄に撒いて大量殺人を行なったオ●ム信者の人たちには、知恵がなかったわけです。宗教集団と名乗っていましたが、彼らは神に聞き従ったのではなく、教祖(人間)に従っただけだったのです。

★★★★★

 「どうして、昔のほうが今より良かったのか。」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。(伝道者の書7章10節)

 たとえば、歴史知識を深めることは、なかなか面白いのです。海外旅行の見聞でも同じです。英語を習って日本語との違いを見るとか、たまには、旅行に出て、日常と非日常を較べてみるとかも楽しいことです。

 それでも、較べた結果、「昔の方が今より良かった」というのは、知恵のないことだというのです。昔の時間がもはや過ぎたものだから、そんな比較は意味がない、後ろ向きであるというのは真実です。
 それ以上に、たぶん、決して両方を完全に「味わって」いるのでも、「知って」いるのでもないからでしょう。私たちは、限りのある時間、この地上に置かれた小さな命に過ぎません。一生を使っても、体験できる出来事は、全世界のほんの一部にすぎません。
 ネットが普及し、どんな知識も即座に手に入るような気がする時代ですが、それを「味わったり」「運用できる」ためには、知恵がいるのです。

★★★★★

 資産を伴う知恵は良い。
 日を見る人に益となる。(11節)
 知恵の陰にいるのは、
 金銭の陰にいるようだ。
 知識の益は、
 知恵がその持ち主を生かすことにある。(12節)

 同様に、本来、良い物である資産も知恵を伴なわなければ意味がないと伝道者は言います。確かに、お金は、増やすにも、貯めるにも、使うにも、知恵が要ります。お金があってもなくても、知恵がなければお金の奴隷になります。何も持たない人でも、ほんとうの知恵があれば「金銭の陰にいるようなものだ」という言葉は傾聴に値します。
 知恵はじつに、「その持ち主を生かす」と言うのです。











伝道者の書13、良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。(伝道者の書7章1節~9節)

2020年05月19日 | 聖書
 

  良い名声は良い香油にまさり、
  死の日は生まれる日にまさる。(伝道者の書7章1節)
  祝宴の家に行くよりは、
  喪中の家に行くほうがよい。
  そこには、すべての人の終わりがあり、
  生きている者が
  それを心に留めるようになるからだ。(2節)

 
 香油はお金を出せば買えますが、名声はお金では買えません。死体の腐臭を防ぐために振りかけられる香油は、お金があれば買えるのです。しかし、どれほど高価な香油も、彼が生前に築いた名声ほど彼を飾りません。まさに、「棺を蓋いて事定まる」のです。
 死は、人生とは何かを考えさせられる絶好の機会です。だからこそ、心と足が重くなる喪中の家にこそ行くべきだと言うのです。

  悲しみは笑いにまさる。
  顔の曇りによって心は良くなる。(3節)

 言葉の流れで、喪中の家つまり、悲しみの家に行くのは、笑うより勝るというのです。顔を曇らせるのは知恵を得ることなのでしょう。

  知恵ある者の心は喪中の家に向き、
  愚かな者の心は楽しみの家に向く。(4節)
  知恵ある者の叱責を聞くのは、
  愚かな者の歌を聞くのにまさる。(5節)

★★★★★

  愚かな者の笑いはなべの下のいばらがはじける音に似ている。
  これもまた、むなしい。(6節)

 「鍋の下のいばらがはじける音」は、今の人には想像がむずかしいですよね。さとうが結婚した相手はかなりのへき地に実家がありました。ガスの設備があっても、枯れ枝を燃やして燃料の足しにしていました。
 炉の中に投げ込まれた枯れ枝や枯草は、簡単に火が付き、ぱちぱちと景気の良い音を立てて燃えますが、すぐに燃え尽きてしまいます。大きな薪をついでやらなければ、湯を温めることさえできないでしょう。
 愚か者の笑いも同じです。ガハガハと大声で笑うけれど、少しも人の心を暖めません。
 テレビのバラエティ番組なんかで、度を超えて笑っている芸人を見て、ふと、むなしくなる時がありますね。

  しいたげは知恵ある者を愚かにし、
  まいないは心を滅ぼす。(7節)

 どんな知恵あるものも、しいたげを行うときは、愚かになっていることなのです。同時に、わいろをもらうことは、やはり知恵ある者の価値を滅ぼすと、伝道者は言います。
 そうしてまた、繰り返されるのです。終わりは初めにまさると。
 ことわざも言います。「終わり良ければすべてよし」

  事の終わりは、その初めにまさり、
  忍耐は、うぬぼれにまさる。(8節)

 時にはうぬぼれなければやっていけないのが人間でしょうが、自我を殺して忍耐をするべきなのでしょうか。苛立つ時にも、忍耐をするべきでしょうか。

  軽々しく心をいらだててはならない。
  いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。(9節)

 すぐに苛立つのは愚か者だとすれば、愚か者でない人など、めったにいないようにも思えるのですが。

 頂点にいる王の立場は、じつはいら立ちを耐えることが多かったのかもしれません。





伝道者の書12、 人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。

2020年05月18日 | 聖書
 

 人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。(伝道者の書6章7節)

 たしかに人は「食うために労苦する」のです。実際に、世の中の問題はすべてここから起きている、と多くの人は納得していると思います。
 聖書には、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイの福音書4章4節) とあります。
 荒野で40日40夜祈り断食されたイエスは空腹を覚えました。そこに悪魔が近づき、イエスに石を見せて、「あなたが神の子なら、この石をパンに変えてみなさい」と誘惑したのです。イエスは、この悪魔を退けて、「人はパンだけで生きるのではない」と言われたのです。

★★★★★

 伝道者(ソロモン)は、国が全盛期の時代の王でした。もとより、彼自身は、飢えの恐れなど、全くなかったし、「口のために働く」必要もなかったでしょう。食欲はいつも満たされ、それも贅沢に満たされていたはずです。王の仕事は、時に疲れを覚えるものであるとしても、労働者のように、「これも生活のため、家族の糊口を満たすため。全く子供らときたら、食べ終わったとたん、何か食わせろと言うのだから・・」などと、思うことはなかったでしょう。

 ソロモンの一日分の食糧は、上質の小麦粉30コル、小麦粉60コル。肥えた牛十頭、放牧の牛20頭、ひつじ百匹。そのほか、牡鹿、かもしか、のろ鹿、そして肥えた鳥であった。(1コルは約220リットル)。(Ⅰ列王記章22節~)と記されています。一人分の食糧にしては膨大すぎますが、これは、王には「王の食卓に連なる大勢の者たち(親族縁者、賓客、政府の高官、みつぎや謁見のためにやってくる外国からの客、時には功績に応じて選ばれる庶民など」がいて、その数は1000人にも上ったのです。
 21世紀の日本にも同じような催しがあるようで、国会で問題となったりしています。
 いずれにしても、首長が庶民を招待する宴会の起原は古そうです。さらに、ソロモンの宮廷では、それが毎日であったと言うのです。
 もっとも、王の席は特別に仕立てられていて、王からは客の様子が見えても、客からは王は見えなかったようです。まして、客が馴れ馴れしく王に「密接する」ようなことはありませんでした。
 また、その膨大な食料は、それぞれの地方の「守護たちが持ち回りで納めた」(同27の節)のですから、食料調達のためにソロモンが頭を痛める必要もなかったのです。

 それでも、毎日毎日やって来て、食卓を食い荒らす人々の旺盛な食欲を見るにつけ、王は、うんざりすることが多かったのではないでしょうか。

 いつも空腹に脅かされる「人の宿命の始まり」を、聖書は記しています。 
 これは、創世記で、アダムとエバが罪を犯して楽園を追放されたことが、原因です。

★★★★★ 

 聖書によれば、人は、もともと完全な世界「エデンの園」に置かれたのです。そこは文字通り楽園でした。食べ物は豊富で、人は欲しい時に欲しいだけ、園にある実を食べてもよかったのです。また、「いのちの木の実の」を食べて、永遠に生きることができました。
 「園の管理」という(多分に)ゆるーい仕事がありましたが、もっと大切な仕事は、神様と毎日、お話することでした。
 禁じられているのは、園の中央にある「知恵の木の実」を取って食べてはならないということだけでした。「それを食べるとき、あなたはかならず死ぬ」と、神は仰せになったのです。
 ある日、そこに、「そそのかす者――蛇の姿をした悪魔」が現れたのです。
 そして、エバを誘惑して、知恵の実を食べさせるのです。エバが夫に与えたのでアダムも食べたのです。

 創世記の楽園追放の物語は。膨大な聖書の最初の3章まで(5ページ分ほど)ですので、よろしければ、ぜひ一度お読みください。聖書は図書館にも置いてあると思います。また、キリスト教会にも来客用に備えています。もちろん、本屋さんやアマゾンでお求めになることもできます。

 食べても食べてもすぐにお腹が空いて満足できないのは、楽園から追放された私たちの宿命であるこという聖書の物語に、さとうは納得するのですが。
 確かに、すぐにお腹が空くのは、切ない宿命です。
「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言いたいのは、やまやまですが・・。




伝道者の書11、私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。(伝道者の書6章1節~6節)

2020年05月16日 | 聖書
 

 私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。(伝道者の書6章1節)
 神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし、神は、この人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ。(2節)

 富のもつ悪は、それを持つ人が結局「それを楽しむことが許されない」ことだと、伝道者は言います。
 富は、持ち主に、富を守り増やすよう強要するだけではありません。その結果として、まわりの人を嫉妬と怒りで包み、その富を奪おうと思わせるのです。
 外国からの侵略、盗賊の被害。王位をめぐる争いや革命、富は、常にあらゆる人から虎視眈々(こしたんたん)と狙われているのです。

★★★★★ 

 もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。(3節)

 実際、旧約聖書の世界(紀元前の中東)では、百人の子供を持つ王は珍しくなかったのです。子供は一族の繁栄のしるしですし、とくに王は欲するだけの妻をもつことができたのですから、王子や王女もたくさん生まれるのです。
 たくさんの富と子供の数は、祝福のしるしだと考えられた時代です。
 しかし、一方で、暗殺されたり、戦場で倒れる王もいたのです。名声のある王たちの無残な最期を、ソロモンは「痛ましい」と考えたのでしょう。彼は、そのような王を,「死産の子」より悲惨だと位置づけるのです。
それくらいなら、最初から生まれてこなかった子の方が良かったというのです。

 その子はむなしく生まれて来て、やみの中に去り、その名はやみの中に消される。(4節)
 太陽も見ず、何も知らずに。しかし、この子のほうが彼よりは安らかである。(5節)
彼が千年の倍も生きても、・・しあわせな目に会わなければ、・・両者とも同じ所に行くのではないか。(6節)

 ありあまるほどの富があって、寿命が千年あっても、死産の子どもと同じところに行く。それなら、安らかであっただけ(生きる労苦がなかっただけ)、死産の子どもの方がよかったという考えは、ほんとうに虚無的です。読むほうも吐息ため息です。








伝道者の書10、金銭を愛する者は金銭に満足しない。(伝道者の書5章8節~16節)

2020年05月15日 | 聖書



 ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる。(伝道者の書5章8節)

 かつては、日本でも「役得(やくとく)」という言葉がありました。どんな役職にも、俸給以外の利益があることです。小さな「わいろ」をもらうこと、公共の物を私物化すること、本来一割の税金を一パーセント水増しして、水増し分を自分の取り分とすること。ときには、セクハラ、パワハラを権利だと思って横暴を行なう人もいたのです。餌食になるのは、貧しい者、弱い者です。義憤に駆られる人もたくさんいたに違いありません。王のもとにはそのような不正についての、訴えもあったことでしょう。

 でも、そういうものが、世の中に蔓延している世界では、じっさいにも効果的な取り締まりは、ないわけです。繁殖したはハエを追うようなものです。
 そこで、伝道者は言うのです。彼らには、彼らを見張る上役がいる。上役にはさらに上役がいる。――役得は決して、野放しにされているわけではない。
 この上役の上位にたどれば、王に行きつき、王の上には神がおられる、となるわけです。

 すべての権威は神からくる、王の権威は神に委任されたものという考えは、古来どの文明にもあったと思われます。だからこそ、素朴な集落の酋長から大国の王まで、頂点に立つ者は国の祭祀の責任者でもありました。

 問題は、王が、神のご意向をうかがって、不正を取り締まることができるかですね。
 上役の頂点にいる王が、まじめに不正を取り締まることはあったでしょう。ただ、不正を、完全に断罪できなかったのは事実でしょう。私たちは、王でななくても、みなある意味、汚れた手をもって生きているのですから、とくに、王はそのような汚れた手を持った官僚に支えられているのですから、無理に彼らを切ると、自分の手足を切ってしまうはずです。

 英明な王ソロモンは、そのようなジレンマに十分気付いていたことでしょう。
 無力な立場の王に、もし、意味があるならと、あれこれと考えたのではないでしょうか。
 その結果、彼は、王の役割を見つけるのです。 

 何にもまして、国の利益は農地を耕させる王である。(9節)

 ソロモンは、王の存在は国の利益だと結論しています。王がいて、効率的なピラミッド型の指令系統があって、民は農地を耕すことができるというのです。それによって民は安定した暮らしの中に安らぐことが出来る。それこそが、神の平和の具現化であり、神の望んでおられることだと、考えたのではないでしょうか。

★★★★★

 金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。なんこれもまた、むなしい。(10節)


 金銭や富を愛する者は、たしかにその財産に「「満足」はないのかもしれません。失う恐れが増すため、もっともっとと求めるのです。とはいえ、このあたりの理屈は、「富」を持った経験のないさとうにはよくわからないのです。現代社会では、お金は良い使い道もたくさんあるはずですから。

 財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。(11節)

 これも昔から言われつくしていることです。杜子春の話などに見るように、金持ちになると人が集まってきます。うやうやしく扱ってくれる人も増えます。虚礼と面従腹背の世界の頂点に君臨していた伝道者は、その意味でも、富にうんざりしていたかもしれません。
 

★★★★★

 働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。(12節)

 昔から「畳一枚あれば眠れる、米四合あれば満腹する」と言われてきました。富む者の安眠が妨げられるのは、「盗賊」の心配があったからでしょう。

 私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。(13節)
 その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。(14節)


 仮に盗賊に盗まれなくても、富はさまざまな心配で、持ち主を脅迫し続けます。愛する子供に与える前に失われるかもしれません。
 無事、人生の終わるまで持ち続けていても、死とともに手放さなければなりません。

 母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。(15節)
 これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。(16節)

 「裸で生まれて裸で死んでいく」というのは、だれでも「知っている」ことです。ただ、実際には、なかなか納得できないのです。
 潔白で正しく、神を恐れる人であったヨブは、自分の財産や子どもが一瞬て失われたと知った時「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ということができました。(ヨブ記1勝1節2節)
 しかし、更なる災難や病気に苦しめられ、妻や友人からもあざけられ、批判されるようになると、ついに、「私の生まれた日は滅びうせよ」(同3章2節)と、自分の生まれた日を呪うことになるのです。

 ヨブのような災難に遭わなくても、裸で去っていくなら、労苦することに何の益があるのかと伝道者は言います。
 庶民である私たちは、さて、この感覚に共感できるでしょうか。