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ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

伝道者の書19 人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。(伝道者の書8章節~17節)

2020年05月25日 | 聖書
 悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。(伝道者の書8章11節)

 これは、自分にも覚えがあります。、若いころには、赤信号でも「車が来ていないのだから、さっさと渡ればいい」とか、通ってはいけない中央分離帯を横切って近道したりしたこともあったと告白しなければなりません。すぐに交通事故に遭うわけではないし、違反チケットを切られるわけでもないと思っていたのかもしれませんが、すべては単に幸運だっただけです。

 人の目はごまかせても、神様をごまかすことはできません。聖書には、神様は私たちのすべてをごらんになっている。私たちは、かならず悪い行いを刈り取る日があると、書かれています。

 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ人への手紙6章7節)

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 罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。(12節)
 悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。(13節)
 しかし、むなしいことが地上で行なわれている。悪者の行ないに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行ないに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい、と私は言いたい。(14節)
 私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。(15節)

 伝道者の心は惑っています。悪者にはふさわしい刈り取りがあると信じながらも、それがすぐに見えないので、心は堂々巡りをしているのです。
 その結果、「楽しむほかない」と結論を出すのです。

 快楽のすべてが悪いことだとは言えないと思います。人には快いことを求める本能があり、おいしい食べ物、おいしい水、すてきな恋愛関係、性的満足などに従ってしまう性質ゆえに、自分だけでなく子孫を繋いで生きのびているとも言えます。
 ソロモンのような恵まれた境遇の人なら、欲しいだけの快楽におぼれることもできたでしょう。

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 しかし、人間には、生物的な快楽以上の喜びを求める本能があります。「神様から承認されたい」という欲求です。
 
 私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行なわれる人の仕事を見ようとしたとき、(16節)

 伝道者は惑いながらも、やはり知恵(神からの知恵)を求めているのです。その結果、次のように結論を出すのです。

 すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。(17節)





伝道者の書18 すべての営みには時とさばきがある。(伝道者の書8章6節~11節)

2020年05月24日 | 聖書


 すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいが多いからだ。(伝道者の書8章6節)
 何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。(7節)

 このような言葉を読むと、あらためて、私達は恐れに捕らわれて生きているのだと、思い知らされます。虚無的でなく、生産的に実際的に前向きに楽観的に生きるのは楽なのですが、虚無的悲観的であるのが幻想だとは言えません。だれもが、「運命のいたずら」を体験するのです。とつぜんの災害や、予定を狂わせる出来事に備えながら生きているのに、そのような人の知恵を、一瞬で押しつぶす「時」があるのです。

 先の地震東北大地震、この記事の初出は2016年5月)のような大きな災害は、私たちの平和や無事を握っているのは、私たち自身ではないと、気づかされます。保険を掛けて、家も耐震住宅にして,防災グッズで備えておくことは、もちろん意味があります。しかし、地震を恐れていては、完全な耐震構造の家の中から一歩も動くことができません。
 
 風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。(8節)

 天災は人の限界を思い知らせる出来事です。でも、天災がなくても、私たちは自分の限界を思い知らされています。それは「死をまぬがれない」ことです。これは悪人も同じです。悪は自分が生きのびるためにどのような無法も行うのですが、結局のところ、悪魔に身を売っても、「自分を救う」ことはできないのです。

 私はこのすべてを見て、日の下で行なわれるいっさいのわざ、人が人を支配して、わざわいを与える時について、私の心を用いた。(9節)
 そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行ないの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。(10節)

 「伝道者」はソロモンだと言われていますから、王なのです。支配者である王は、世の中を俯瞰(ふかん)するように見る訓練ができています。彼は、支配できる側が、支配される側にわざわいを与える出来事を目にすることが多かったでしょう。王への訴えには、不当な目に遭った人からの告訴が引きも切らず、知恵者のソロモンでも、苦慮する事例はたくさんあったと思われます。
 王は出来る限り正しい判決で悪者に罰を与えます。ところが、わざわいに苦しめられたあと、正しい人も町から去って、けっきょく忘れ去られるようなことが起ります。

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 悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。(11節)

 たしかに、読み切り連載の時代劇のテレビドラマ(たとえば、水戸黄門)に出てくるようなすっきりした悪因悪果の解決を、世の中に見ることはめったにありません。死刑に値するような重い罪ほど、判決までに時間がかかっています。
 もっとうまくやる方法があるだろうと、怒る声もあるのですが、神のなさること(ご計画)は、なかなか私たち人間の短い人生では理解できないことが多いのです。
 自分を「永遠から永遠のスパン」において、見ないといけないのかもしれません。








伝道者の書17 だれが知恵ある者にふさわしいだろう。(伝道者の書8章1節~5節)

2020年05月23日 | 聖書

 だれが知恵ある者にふさわしいだろう。
 だれが事物の意義を知りえよう。
 人の知恵は、その人の顔を輝かし、
 その顔の固さを和らげる。(伝道者の書8章1節)

 この問いは、反語ですね。こんなふうに問われたら、答えはもう明快です。知恵あるものにふさわしい人間などいないのです。事物の意義を知る人間もいないのです。そんな人間が集まって社会を形成して生きていくのです。まさに、世界は不条理です。

 知恵あるものにふさわしい人間はいないとしても、それでも、知恵を求めることは、神に似せて造られた人間として、本能のようなものではないでしょうか。伝道者は神を信じる人ですから、神を信じ、恐れることを前提に論を展開しているはずです。神を恐れることによって、私たちは知恵への一歩を踏み出すのです。
 知恵を見出したと思えることは、どのような凡人にも罪びとにもあるわけです。本物の知恵は、人の顔を輝かす、こわばっていた心をなごませるのは、だれもがうなずけることだと思います。


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 私は言う。王の命令を守れ。神の誓約があるから。(2節)
 王の前からあわてて退出するな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを何でもするから。(3節)
 王のことばには権威がある。だれが彼に、「あなたは何をするのですか。」と言えようか。(4節)
 命令を守る者はわざわいを知らない。
 知恵ある者の心は時とさばきを知っている。(5節)

 前節から繫げて読むと、王の命令を守らなければならない理由は、あきらかです。
 人間はだれも、知恵があるとは言えないのです。一般的にも「神ならぬ身」という言葉があります。神でない者には多くの限界と制約があるのです。
 王(首長)もまた人間に過ぎませんが、それでも、王の命令を守らなければいけないのは、古代イスラエル王国では、王は神が任命しておられるとの前提があるからです。神からの権能を授けられてことを行い、人をさばくことができるのです。
 王の命令を守ることは、たんなる処世の術を超えているのです。
 王の背後に「知恵ある者=神」が付いている、もしそういう前提がなければ、王もそのような自覚がなければ、たしかに政治やさばきは立ち行かないでしょう。

 ただ、これは「理念としては」真理ですが、しょせん、王も人間です。決して神の御心のとおりは行えません。聖書にも、神の御心に反したイスラエルの王はたくさん登場します。(→列王記)
 神に叛く王が罰せられて、悲惨な末路になっていることが、逆に、王の権威の重さを語っていると思います。






伝道者の書16 人の語る言葉にいちいち心を留めてはならない。(伝道者の書7章19節~29節)

2020年05月22日 | 聖書
 知恵は町の10人の権力者よりも知恵者を力づける。(伝道者の書7章19節)
 この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。(20節)
 人の語る言葉にいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないためだ。(21節)
 あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。(22節)


 自己啓発の本はよく売れるそうです。コンサルタント業も花盛りです。カウンセリングという言葉も、どこにでも見られます。
 情報がこれだけ広く拡散され、簡単に手に入る時代ですが、やはり人は、自分の行く道に迷っているのでしょう。知識は正しい情報に裏付けられるべきでしょうが、実際には、それは言葉のアヤでしかありません。正確な情報、正しい情報が、まず手に入っているかを吟味しなければなりません。新聞やネットの情報、業界紙、学会誌、広報、口コミが正確だという保証はありません。けれども、私たちは、そのようなところから情報を得るしかないのです。

 正確な情報を得ても、例えば天気予報のように――特定の人の利害と偏見に基づかないものであっても――雨の予報にどう対応するかは、人によって異なります。子供の頃よくありました。遠足の日の朝になっても決行か中止か決まらず、一応、弁当とおやつをリュックに詰めて学校に出かけたものです。子どもは、おやつがあるし弁当も特別メニューだったりしますから、それでも嬉しいのです。しかし、学校側はそうは行きません。ピクニック先で、雨に濡れて風邪をひく子供がいたら大変です。弱くてすぐに泣き出す子や、迷子になる子が出る可能性もあります。

 そんな時、どう決断するかが知恵なのでしょう。一応マニュアルはあるのでしょうが、先生たちが苦慮する苦心する場面です。

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 たかが遠足の話です。ですが、先生たちの間でも賛否が分かれたりするとき、校長先生はいかに決断を下すべきなのでしょう。
 聖書の言葉は、高邁(こうまい)すぎてすぐに役に立たないという人がいます。ところが、このようなときにも、伝道者の書7章19節以下は、とても意味のある言葉です。
 責任者は、まず神の前にへりくだって祈るのです。全能の神が示された答えを聞き取り、それを選び取った後は、口論を終わらせ、リーダーになり、実行するのです。人の言葉に心を揺らされてはならないのです。人は、わずかなことでも他人との意見の違いを呪いますし、それは、「あなたもそうでしょう」と伝道者は言っています。


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 私はこれらのいっさいを知恵によって試み、そして言った。「私は知恵あるものになりたい」と。しかし、それは私の遠く及ばないことだった。(23節)
 今あることは、遠くて非常に深い。だれがそれを見極めることができるだろう。(24節)
 私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、捜し求めた。愚かな者の悪業と狂った者の愚かさを学びとろうとした。(25節)


 「これらいっさい」の意味は、伝道者の書の最初から、著者がテーマにしている「知恵」のことでしょう。彼は、神に向かって知恵を乞いながら、やはり自分で「知恵と道理」を探り出し、捜し求めずにはいられないのです。しかし、彼はそれを、「愚かな者の悪業と狂った者の愚かさ」と言っています。

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 私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女はわなであり、その心は網、その手はかせである。神に喜ばれる者は女からのがれるが、罪を犯す者は女に捕えられる。(26節)
 見よ。「私は道理を見いだそうとして、一つ一つに当たり、見いだしたことは次のとおりである。」と伝道者は言う。(27節)


 伝道者は、女性との関係で、「これこそ真実」と思うことも多かったはずです。男女関係は美しい想像をかき立てる世界、人の目を開かせると思えるような景観がある世界です。
 七百人の妃と三百人のそばめを手にしていたソロモンは、官能の神秘も極めたに違いありません。
 その結果、それで、言うのです。

 私はなおも捜し求めているが、見いださない。私は千人のうちに、ひとりの男を見いだしたが、そのすべてのうちに、ひとりの女も見いださなかった。(28節)

 これでは、女性たちは立つ瀬がないと思いますが、ソロモンの結論です。

 私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。(29節)

 ソロモンは、有能な人材をたくさん侍らせていたでしょう。彼が何かを諮問すると、りっぱな答えが競うように王の耳に届けられたことでしょう。
 しかし、けっきょく、彼は選択できず、ため息をつくばかりの自分に気が付いたのではないでしょうか。
 








伝道者の書15、あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。(伝道者の書7章13節~18節)

2020年05月21日 | 聖書
 神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。(伝道者の書7章13節)
 順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。(14節)


 伝道者の視点は、知恵を下さる神に戻って行きます。
 ここに言われている二点、神が曲げたものを人はまっすぐには出来ないこと。順境の日に喜び、逆境には反省するというのが、神を知る者の「知恵」なのでしょう。
 人は、神をこのような全能で主権をお持ちの方だと認めない限り、悪あがきをすることになります。
 地震や不条理な犯罪が起きると、神を否定する人たちは鬼の首でも取ったように言います。「どこに神がいるのか」
 しかし、聖書の神は、この世界の統べての場所に遍在しておられ、この地上そのものを現出しておられ、私もあなたも神の作品であり、ろくろの上にある土の器であると思えば、そんな生意気なことは言えませんね。

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 じっさいこの世は、不条理に満ちています。
 楽園を追放された時に、人類は悪魔もろとも、不条理の世界に入ったのですから仕方がありません。

  私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。(15節)、

 私自身、長い間、このような聖書の神に「物申したい」人間でした。
 いえ、救われた後でも、あるみことばには、爪を立てたいような気分になりました。
 たとえば、天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイの福音書5章45節)

 あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。(16節)

 これは、「あなたは(自分こそ)正しい」と思い込みやすい人間性への戒めかもしれません。良い人は「自分は正しい」「自分は知恵がある」と思うように方向づけられて成長してきたわけです。
 逆も言えます。
 
 悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに,なぜ死のうとするのか。(17節)

「悪くて何が悪い」と開き直る声もあります。「生きるってことは、なまやさしいことではないんだ。みんな他人やほかの者を犠牲にして生きているんだ」。
 もとより、そのような「悪」は神の厭われるところで、彼は滅びの中にいるのです。みずから死のうとするようなものなのです。
 私たちは、善悪を含め、神の目を恐れながら微妙なバランスを生きなければならないのかもしれません。絶対に正しいなどという生き方はあり得ないのだから、と伝道者は見ているのです。

 一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。(18節)