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ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

【救済論③】天国に行くために信じる3つのこと|福音の三要素

2021年01月11日 | 聖書

シンガポール日本語教会の松本牧師の聖書講座です。

簡潔で、わかりやすい。ノンクリスチャンはもちろん、ベテランのクリスチャンにも価値のある学びになると、おすすめです。

 

【救済論③】天国に行くために信じる3つのこと|福音の三要素

 

松本牧師のYouTube聖書講座 - YouTube

総合プログラムです。クリックしてください。

まだまだ、続きそうです。感謝!!

 

 

 


U-tubeで学ぶ「聖書講座」

2021年01月04日 | 聖書

 私が最初にU-tubeという名前を知ったのは、ピコ太郎」さんの『ペンパイナッポーアッポーペン』(2016年)でした。

 それまでも、U-tubeを見ていたらしいのに、意識していなかったのですね。

 

 コロナ禍の影響もあって、去年は、私にとってU-tube発見の年でした。さまざまな方のU-tubeを見せていただいて、楽しませていただきました。

 コメントやチャット、生配信などのシステムがあって、フットワークが軽く、視聴者との双方向性も確保されていて、なるほどと驚かされました。

 

 いまでは、教会や牧師、一般のクリスチャンの方も、このツールで発信する方々がいます。それらの中から、シンガポール日本語教会の松本牧師による聖書講座をご紹介させてください。

 わかりやすい言葉で、ツボをおさえた説明に思わず、「乗り出す」内容です。

 

【死について】使徒パウロに学ぶ死生観 [parts:eNozsjJkhIPUZENDA6NkM90qQ6Oo5BLjEj8LJjMTAyZjMwMmAyYEcHBwAAD8iwh0 - Bing

 

 

         

 


祈りの朝、賛美歌310番「しずけきいのりの」♪ "Sweet Hour Of Prayer"

2020年10月24日 | 聖書

 

静かな十月の朝、ちょっと引き締まった心に響いてくる賛美歌です。

歌うのは森山良子さん。

映像の美しさにも、たくさんの称賛が寄せられています。

 

 

賛美歌310番「しずけきいのりの」♪ "Sweet Hour Of Prayer"

 

 

 

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 さて、一行が進んでいくうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女の人がイエスを家に迎え入れた。

 彼女にはマリアと言う姉妹がいたが、主(しゅ)の足元に座って、主(しゅ)のことばに聞き入っていた。

 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、なんともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」

 主(しゅ)は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。

 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

              (ルカの福音書10章38節~42節)

 

     ※ 主(しゅ)、神、イエス・キリスト

 

 

 

 

 

 


アナニアとサッピラ

2020年08月23日 | 聖書

 今日の礼拝でのメッセージ箇所は、使徒の働き5章でした。

 以前に、自分でも通読エッセイで書きましたが、改めて、この箇所を考えてみました。

 アナニアとサッピラの話は、教会のあり方、とくにその財政のあり方、その成立過程を示すものです。
教会といえども、この世にある限りお金が必要です。人が集まれば飲み食いをしますし、集まる場所の家賃や使用料も必要です。貧しい人や助けの必要な人が多ければ、持てる人たちが彼らに施さなければなりません。AさんがBさんに顔の見える形で援助して恩に着せるような関係ではなく、愛の行為として教会全体が担うのです。教会に参加するということは、この与えるという行為、時には受ける側になる関係に、愛をもって入って行くことです。高慢にもならず卑屈にもならず、損得を考えずに善いことを行うのは、ふつうはとても難しいことですが、それを可能にしてくれるのが教会なのです。この初代教会の原始共産制のような姿は、もちろん現代の教会生活に受け継がれていると思います。

 それは、もともと人間の思惑を超えた、神の働きだからです。

 

★★

 


 ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、(使徒の働き5章1節)
 妻も承知の上で、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。(2節)
 すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて、聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。(3節)
 売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったのではないか.どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いてのではなく、神を欺いたのだ。」(4節)
 このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。(5節)
若者たちは立ち上がって彼のからだを包み、運び出して葬った。(6節)
 さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。(7節)
 ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。
 そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたはこころを合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」(9節)
 すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運びだし、夫のそばに葬った。(10節)
 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。(11節)



 私たちはすべて、生れ落ちたときから所有意識があって、そうした認識の上に、社会関係だけでなく、親子関係や家族関係でさえ成り立っています。それはむしろ、健全な社会感覚だったりするのです。

 教会が神秘的なのは、その財政が、人間的な所有意識を超えたところに成立していることでしょう。
 ふつう教会の財政は「献金」で支えられています。この献金は平等に出すものでもなく、均一の額を支払うものでもありません。強制もなく、どれくらいの額を差し出すかは信者の自由です。それはじつに不安定な財政基盤で、この不安定さのために、苦労する牧師や教会員はたくさんいるのです。しかし、どんな困難があっても、基本的に、教会財政は自発的に加入した信徒たちの、自発的な献金で支えられ続けています。
 不正抑止のためにいくらかのチェック機能があるとしても、人為的な強制や選別は、注意深く避けられているのではないでしょうか。
 教会に加入している者は、牧師であれ信徒であれ、教会を立たせ、支配しておられるのは、人間ではないと認識しているのです。教会のかしらはイエス・キリストで、教会を実際に動かしているのは聖霊さまなのです。



 アナニアとサッピラの話は、私たちが、「神の前にも偽る者」だと言う例です。良い心を持って善いことをしようとするときこそ、要注意です。サタンが私たちを「試みる」からです。


 一読すると、彼らが売った土地の代金の一部を、自分たちのために取っておいたことはそれほど悪いことだとは思えません。咎められているのは、彼らが嘘をついたことです。みなが全財産を差し出しているときに、自分だけは、「一部を残しておく」と言えなかったのでしょうか。しかしペテロが指摘しているのは、まさにその点で、アナニアは、正直に、売ったお金の全額ではないと言っておけば済んだのです。

 これは、ペテロとアナニアの話になっていますが、ペテロがそれを知ったのは、聖霊がペテロに告げられたからです。

 ここを、誰かが告げ口したのだと、書かれてもいない類推を入れると、読み誤ります。
 ペテロはアナニアに言いました。
 「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて、聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。」

 つまり、アナニアは、聖霊を欺いたと非難されているのです。

 アナニアのウソをペテロが見破ったのも、聖霊がお告げになったのでしょう。今の私たちは、いわゆる「三位一体の神」として、聖霊の存在を意識していますが、素朴な信徒たちが多かった初代教会では、「父なる神」「子なる神」は十分意識されていたでしょうが、「聖霊なる神」に対してはどうだったでしょう。

 このような事件があったのは、財政的な問題に切り込んだというよりも、むしろ、聖霊ご自身が、ご自分の存在を人々に気づかせようとされたと思うのですが、いかがでしょうか。

 

 

 

 


「ダビデ・バテシェバ」事件とは

2020年07月04日 | 聖書

 


 ダビデの不倫事件は、多くのことを私たちに考えさせます。およそ、ここからだけでも万の著述が生まれるのではないかと思います。
 
 不倫事件は、それ自体、スキャンダラスなドラマです。関わる人間たちの間で戦場のように戦いが起こり、犠牲者が出るドラマです。無名の市民の間で起きても、関係する人たちを傷つけます。殺人事件まで絡むと、ただではすみません。


 しかし、それが許される世界があり、時代があったのも事実です。一夫多妻が制度として容認されているか、不法を行う側が強くて、有無を言わせぬ力(権力、財力)がある場合、例えば、大奥を構えている将軍は不倫を咎められるでしょうか。彼にとって正妻以外に妻をたくさん持つことは、合法的なのです。自分の勢力や財力を強化するために結婚相手を選び、家系を繋げるために結婚を利用するのも当たり前のことであったのです。

 大きな権力を持つ男が、女性一人を手に入れるのは、国境線の問題で争って兵を動かすよりよほど楽なことではなかったでしょうか。

 ダビデは王なのですから、どうしてもバテ・シェバが欲しければ、ウリヤに離婚させることはできなかったでしょうか。かつて、ダビデは、元の妻ミカルを、再婚していた夫パルティエルから、強引に取り戻したのです。三人目の妻アビガイルとの結婚も、律法に照らして完全に正しかったかどうかわかりません。

 

 男女の問題は、とても危ういものです。性は、非常に個人的な衝動と熱情が絡んでいます。当事者だけを隔絶した世界に誘い込む、目のくらむような欲望と道連れなのです。同時に、その私的な世界は、人間の社会的関係の中にあるのです。

 性的関係を結ぶのは簡単ですが、どんな人にも家族がいます。社会的立場があります。子どもが生まれれば、新しく大きな社会関係が広がります。

 

★★

 

 ダビデは、バテ・シェバが水浴びをしているところを見たとき、すぐにも彼女と寝たくなったのです。その時、すでに彼女を人妻だとわかっていたのですから、律法違反であることもわかっていたでしょう。バテ・シェバが妊娠せず、そのまま一度限りの関係で終わっていたら秘密の火遊びで済んだかもしれません。それでも、神の目からご覧になったら罪であり、神はそのことをお忘れにならないでしょう。

 バテ・シェバの妊娠は、すでに神の罰であったとも言えます。サタンがダビデを試していたとも見えます。ダビデは自ら招いた問題で、サタンに試みられているのです。

「さあ、この問題をどう処理しますか! お手並み拝見だね」

 

★★

 

 「『あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。』」(第Ⅱサムエル記12章12節)
 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった。あなたは死なない。(12節)
 しかし、あなたはこのことによって、主の敵におおいに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」(14節)

 

 このくだりは、ダビデの真摯な悔い改めとして評価されています。ダビデは、預言者ナタンに罪を指摘され即座に悔い改めたというわけです。
 事実、そのとおりであったのでしょう。ナタンは、神がダビデの罪を見過ごしてくださったと答えるのです。ダビデは死を免れ、不倫の子が死ぬのです。私個人の考えですが、これは、ダビデの受ける罰の代わりとしては、大いに軽いように思えるのです。ダビデにはすでに多くの子どもがいますし、バテ・シェバは妻ではないからです。

 では、神の罰は甘かったのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。

 

 主は、ダビデに、ダビデのしたことは、主の敵にイスラエルの神への侮りを起こさせたと言うのです。これほど、激しい非難の言葉はあるでしょうか。

 事実、ダビデは、その後の人生で、自分の犯した罪を償わせられています。

 それは注意深く覆われた書き方ですが。

 

 

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記331 「ダビデとバテ・シェバ」事件(第Ⅱサムエル記12章12節~14節)より再録.