ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

イッツ ”賞”タイム! ジュリーと”賞”あれこれ~一等賞物語

2020年03月22日 10時54分05秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
1977年にFNS歌謡音楽祭以外の大賞を総ナメにして以来
1983年頃まで公演のステージ上でジュリーが口癖のように言っていた言葉は
「一等賞、特等賞目指して頑張る」。

それ以前から、前に記事にも書いたことがありますが当時は歌番組全盛期。
特に1970年代から80年代にかけてはほぼリアルタイム(録画放送もあったので)でジュリーに逢える、
夢のような環境が・・・当時は当たり前でしたけどね。
あやふやな記憶ですが・・・放映時期に多少の差はありますがだいたい・・・間違ってたらごめんなさい
月曜日・・・歌の紅白ベストテン→のちトップテン、夜のヒットスタジオ
火曜日・・・火曜歌謡ビッグマッチ
水曜日・・・ベスト30歌謡曲
木曜日・・・ザ・ベストテン
金曜日・・・ゴールデン歌謡速報
土曜日・・・えーっと・・・8時だヨ!全員集合・・・は歌番組というよりはバラエティーか
日曜日・・・ビッグショー、レッツゴーヤング
あと、放送曜日がしょっちゅう変更されたミュージックフェアや
平日昼の帯番組シャボン玉プレゼントなど・・・他多数、枚挙にいとまない。

こうしてみると意外とランキング番組って数あったのね。
集計方法は各局独自のロジックがあったと思いますが
ほかにも番組ではないけど今も不動の信頼性トップを誇るオリコン(オリジナルコンフィデンス)チャート、
当時もどれを差し置いてもオリコン1位が一番のステータスシンボルでありました。
それを含めて、各局各番組で「一位になること」がジュリーの公言する「第一目標」であったわけです。
ただ、ジュリーは絶対に「一位」とは言わず、必ず「一等賞」と言ってましたが。なんでだ?

あまたのランキング番組の中でももっとも信用が置けると言うか
これで一位になることが名実ともにトップの証、指標とされたのがご存知、TBS放送の「ザ・ベストテン」です。
個人的にはあまり好きな番組ではなかったのですが・・・
――理由はまあ、しょーむないことなですが
この番組はバックバンドをほとんど映さなかった、
だからEXOTICSファンの私的にはキライだっただけよ
あ、でも一回EXOのメンバー一人一人を紹介したな。まあ、だから許そう・・・かな――
とにかくジュリーはこの番組の一位を取るのにいたくご執心でした。

で、1970年代後半は出す曲すべて何とか一位に・・・すくなくともベストテン入りには辿りついていたのよ。
「勝手しやがれ」を皮切りに「憎みきれないろくでなし」「サムライ」「ダーリング」
そして「ヤマトより愛をこめて」、
この歌はリリース時に劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト」の挿入歌なので歌番組で歌わないとされてたのですが
ザ・ベストテンは「ランクインした歌は絶対歌っていただく」コンセプトがあったため
例外としてこの時だけテレビ放送の中で歌いました。確か8位だったかな。
つまりこの週に限ってジュリーは「ダーリング」と合わせて2曲歌った・・・たぶん。
いや、続く「LOVE(抱きしめたい)」と2曲だったかな・・・忘れまひた、噛みまひた
次が本物のお酒吹いて物議を醸しGパンのファスナーを半分近く下ろしたため物議を醸した「カサブランカ・ダンディー」
・・・醸してばっかか(PTAから怒られたらしくすぐやめました)

そして歌いたくないと忌み嫌っていたけど仕方なかった?「OH!ギャル」
・・・加瀬さん渡辺社長に向かって曰く「沢田にギャルはないでしょう・・・」
この時、一位から落ちた。落ちたのよ、確か・・・
「ロンリーウルフ」カッコイイ歌だと思ったのですが前曲のあおりでしょうか、これも落ちた。

一位に返り咲いたのは次の「TOKIO」! これは久々のクリーンヒット、いやホームランでしたね。
バックバンドが変わりました、ジュリーはビジュアル系のハシリになっていました、
「恋のバッドチューニング」「酒場でDABADA」とまずまず順調、
ところが・・・カズさんファン熱狂の「おまえがパラダイス」は伸び悩み。なんでえ~~??
続く「渚のラブレター」・・・バンド、更に変わりました、我らがEXOTICS
「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」「麗人」「お前にチェックイン」「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」と
一位にはならなかったけどそこそこいい線行きましたよ、結構売れてたんですよ。
この頃は日本の歌手の中でシングル総売り上げ1位の座をキープしていました。
イヤ、凄かったんだって。世に一発屋は数あれど出す曲出す曲みなベストテン入り、
売り上げ枚数も毎回トップクラスなんてジュリーくらいのもの、
しかもこれ、ソロになってからの分だけで一位、タイガース時代も含めたら物凄い数字だったんですから。
イヤ、マジで。
でも、ジュリー本人はベストテンの一位に中々なれないことに危機感を募らせる。
「ここんとこ一等賞になっていない」と事あるごとに口にしていましたもの。
でもでも、まだまだ挽回のチャンスはある、あと一息で一位に届きそう・・・

異変が起きたのはこの後でした。
「背中まで45分」
ギョーカイ内の前説では大好評、大評判だったんですって。評論家も絶賛していたらしい。
けど、いざ蓋を開けてみたら・・・全然売れなかった。
前曲までのあおりというか余波というか、ベストテンの下位にちょろっと2週ほどは入ったけど
その後ソッコー落ちてしまいました。
ジュリー曰く「前評判はすごく良かったけど、評論家はレコード買わない」
まあ・・・そうだよね。
歌番組でも最初は長い曲です
(5分45秒・・・ジュリーは思い違いしていてずっとアルバムバージョンの6分10秒だと思っていた)
放送の尺について「6分10秒ありますが」「大丈夫、フルコーラス歌ってください」が
曰く「ひとたび売れないとわかると45分が35分、25分・・・最後は会ってすぐ脱がせるという
どんだけ気が早いねん!」となり・・・打ち切りマンガか・・・
事実上この後の曲はベストテン番組から遠ざかってしまいました。
ましてや一等賞は手の届かない時空の彼方へ。
個人的には好きだな~と思う曲はあったんですけどね、「晴れのちBLUE BOY」とか
ああ、でも一般受けはしにくかっただろうなあ~
公演では「最近一等賞いってないけど、慣れたらあかんからね! こういうのに慣れたらあかんよ!」と
しょっちゅう己を奮い立たせてはいましたが
結局そういうランキングや、そこから繋がる賞レースからは結果的に撤退してしまいました。

そうした経緯を経て、ジュリー自身の価値観を見直すことになっていったのでは、と思います。
一等賞取ることだけが歌手の、また人生の目的ではないんだ、的な。

そして私見ですが、もしかしたらジュリー自身は初めから
「賞に固執することは本意ではない」とどこかで思っていたのかもしれないな、とも思います。
商業ベースに乗っかると、結局「売れてなんぼ」「売れないと発言権すらない」ことになりますし
ただ自己満足でいいのならアマチュアやインディーでいいのですから。
けれども、物申すにも自分を貫くにも、まず実績を作らない事には何もできないのだ、と
自分の中では少なからず違和感を抱えてはいたけれど
とにかく当時はトップ目指してひた走ることに全力たらんと思ったのかも知れません。

ある時・・・1980年代の前半のいつかだったと思いますが
「もう十分財産(食って行けるだけのヒット曲を指す)を持っているのだから
そんなに頑張らなくてもいいじゃないか、ゆっくり好きなことをすれば」とか
「変わって欲しくない、老け込む姿を見たくない」
中には美しい今の姿を永遠にして欲しいから「沢田さん、死んでください」とまで
言われたそうですが(死んでください、は今の時代的な重い意味ではないです)
でも本人は「たとえ売れなくなっても一生続ける、死ぬまで頑張り通す」と明言していました。
その意志は今も変わっていないと思います。ていうか、それがジュリーでしょう。

人生の一等賞がとれたかどうか、最後に評価するのは自分自身だ、と
あの人は実は早くから考えていたのではないでしょうか。
イヤイヤイヤ、今も健在で、まだまだ・・・80まではやります!と仰せですから
イヤイヤイヤイヤ、体力の続く限り100でもやってくださいよ。
ステージで歌を枕に死にたいんでしょ? それもきっと変わってないですよね。

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